スウェーデンの今

スウェーデンに15年暮らし現在はストックホルム商科大学・欧州日本研究所で研究員

罪深いスウェーデン金融資本 (1)

2009-08-13 06:13:19 | スウェーデン・その他の経済
このブログで「Stockholm Solution」について触れたのは、1年近く前のことだ。

1980年代後半、不動産や金融資産に対する投機のためにバブルが膨張していき、一時の夢を見たスウェーデン経済だったが、90年代に入ってからバブルが崩壊。金融機関の債務が次々と焦げ付いていき、金融システム全体がメルトダウンしかねない状況の中で、スウェーデン政府は公的資金の積極的な投入と銀行の国有化によって、システムの崩壊を防ぎ、危機を乗り越えた。

この時の経験が「Stockholm Solution」と呼ばれ、昨年に顕在化した世界的な金融危機の渦中のなかで、世界各国が一つのお手本として、スウェーデンの90年代の金融危機への対処の仕方をとりあげたのだった。当時、スウェーデンの財務副大臣であった保守党(穏健党)のボー・ルンドグレーン(Bo Lundgren)は、IMFやアメリカ議会に招かれて講演を行ったり、アメリカのメディアに何度もインタビューを受けることになった。


当時の財務副大臣で、銀行救済プランの策定と実行を指揮したBo Lundgren

さて、今回の金融危機はアメリカ発と言われ、スウェーデン経済などはその煽りを食らった被害者のようにも思える。スウェーデンは80年代後半から90年代前半にかけてのバブル経済の痛い経験があるから、今回はアメリカのサブプライムのような安易な融資には手を出さなかった・・・、と書きたいところだが、実はそうではない。

このブログでも何度か「スウェーデン経済の落ち込みはそこまで深刻ではなく、クローナ安のおかげで立ち直りもおそらく早いだろう。しかし、大きな不安要因はバルト三国の経済の動向だ」ということを書いてきたが、それがどういうことなのか詳しく書いてみたい。

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結論から先に書けば、スウェーデンの金融機関は返済能力がないような借り手に対する安易な貸し出しスウェーデン国内で行うことはしなかった。80年代後半の痛い経験を国民が記憶していたし、何よりもスウェーデンの金融当局がそのような高いリスクの業務活動を許さなかった。しかし、これをバルト三国で行ったのだ。

1990年代以降、新興独立国のバルト三国の経済は急激な成長を見せ、これに目を付けたのがスウェーデンの金融資本だった。特に、スウェーデンの4大銀行のうち、スウェードバンク(Swedbank)エスエーべー(SEB)ノデーア(Nordea)が金融事業の新しいフロンティアを求めてバルト三国に進出していった。そして、地元の中小銀行を買収していった。スウェードバンクにいたってはバルト三国をまたにかけていたハンサバンク(Hansabank)という大手銀行を買収して完全な所有者となった。

そして、2000年代に入ってから、これらの国々ではまるで軍拡競争のごとく、顧客獲得と貸出増加をめぐる激しい競争が始まった。競争はこれら3つのスウェーデン銀行の間だけでなく、地元にもともとあった金融機関との間でも行われた。

スウェーデン系の金融機関は、ありとあらゆる手を使って顧客を増やそうと努力した。貸出の審査基準を引き下げて、返済能力が十分にないような人にも貸付を行ったり、住宅ローンやマイカーローンはもちろんのこと、旅行や消費にも貸出を行うキャンペーンを展開していき、地元の金融機関を駆逐していった。そして、バルト三国の金融資本の70%がスウェーデン系となるまでに至った。

この頃、バルト三国の経済は急激な成長を見せており、潤沢な金融資本と金融緩和政策のおかげで不動産価格が上昇していき、バブルの様相が顕著になっていた。そして、それを支えた金融バブルは特にラトヴィアで激しかった。2004年頃から貸出残高が毎年50-60%という速さで急激に増えていったのだ。

2006年、ラトヴィアはヨーロッパで最大の経済成長率を誇ることになったが、この年までにスウェードバンクがバルト三国で貸し出した残高の合計は1300億クローナ(約1兆7000億円)に上った。

ちなみに、スウェードバンクといえば、もともとの名前をFöreningsSparbanken(貯蓄銀行組合)といい、スウェーデン各地にあった協同組合形式の小規模な貯蓄銀行が集まったものだったが、それが1990年代以降、世界市場へ足を踏み入れたのだ。それを象徴するかのように、バルト三国での活動で大きな収益を上げていた2006年に、長ったらしい名前を改めてスウェードバンク(Swedbank)とすっきりさせた。(国外ではこの新しい名称を既に90年代後半から使い始めていたようだ)


しかし、既に2005年の段階で、加熱しすぎた金融市場に警告を発する声が上がっていた。だが、すべてがバラ色のような状況の中で、そのような「心配性の人々」の声に真面目に耳を貸すものはいなかった。同業者が競ってお金を儲けようと血眼になっているときに、自分だけが貸出を控えようなんてする銀行員はいなかった。経済ジャーナリストやアナリストと呼ばれる人たちも皆、波に乗り遅れるな!と、楽観的観測ばかりを記事にしていた。(続く・・・)