スウェーデンの今

スウェーデンに15年暮らし現在はストックホルム商科大学・欧州日本研究所で研究員

渦中のデンマーク(2)

2006-02-04 07:22:27 | コラム


事の始まりは、デンマークの大手紙Jylland Postenが一つの特集として、イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を十数人の絵描きに依頼して、新聞に掲載したことだった。特集の狙いは、神聖視される宗教を題材した風刺に挑戦することだったという。あえてタブーを破ってみることも、言論の自由を擁護する報道の義務でもあるし、新しい芸術もこういう挑戦から生まれてくる、という考えだったらしい。それに先駆けて、スウェーデン・ヨーテボリでも比較的新しい博物館、Warld Culture Museum (Världskulturmuseet) が展示物の一つを、イスラム教の人々の感情を傷つける恐れがある、ということで、自己規制により非公開にしたことから、Jylland Postenの編集長が、今回の特集のアイデアを閃いた、と言われる。

しかし、デンマークの移民・難民に対する社会統合政策は、随分遅れているといわれる。特に、イスラム教徒に対する風当たりは強い。デンマークの政府や社会が彼らに対して、懐疑的な態度を取りがちだ、ということだ。だから、根っからの“デンマーク人”とそれ以外の人々の間に、いざこざが以前から生じていた。だから、そんな社会の空気に配慮せずに、言論の自由だから、ということで、挑発的と受け取られる風刺画をあえて掲載した、デンマークの新聞社は、配慮が足りなかった、といわれても仕方がない。不必要に一部の人々を傷つける必要性があったのか。それをあえて実行に移した編集部は、社会的責任をしっかりと負うべきだと思う。

一方で、出版の後の、イスラム教世界からの批判が必ずしも正当なものである、とも言えなさそうだ。つまり、イスラム教の国々が挙ってデンマーク政府を批判し、エラスムセン首相に謝罪を求めているのは、ちょっとお門違い、ではないかということだ。発行物の内容の責任を負うのはあくまで発行者であり、政府や国家ではない。検定や検閲でもあるまいし、民間の出版社が発行するものに一つ一つ目を通して、認可をしているわけではない。だから、謝罪するのは発行者であっても、政府や国家ではない。

今回、政府や国家として大きな声を上げて、新聞社だけでなく、デンマーク政府にまで謝罪を求めている国の多くが、独裁政をしいているか、まだまだ未熟な民主国家であるのは注目に値する。成熟した民主国家において“開かれた社会”が維持されるためには、政府の統制のない、自由なメディアの発達がどれだけ大きな意味を持つのかを、理解していないと思われる国々が多いようだ。例えば、今回の問題の責任をデンマーク政府に問うことは、政府がしっかりとメディアや国民のすること、言うことに目を行き届かせて、検閲すべき、ということと同義ではないのだろうか。

だから、デンマークのエラスムセン首相が、去年の秋の時点で、イスラム教の国々からの駐デンマーク大使らに再三、面会と謝罪を求められ、どちらとも断ったのは、そういう考えからだったのだと、うなずける。

今回の対立は、様々な側面を含んでいるようだが、上に挙げた点を考えると、根本的な問題の一つは、開かれたメディアに対する民主主義社会と全体主義社会における考え方の違い、という単純な点だと、いうことかもしれない。ハンチントンの唱えた「文明の衝突」だ、という人もいるようだ。

さて、騒ぎが拡大する中で、フランスのある新聞が問題の風刺画を一面大々的に掲載してしまった。彼らの言い分は、Jylland Postenを擁護し、言論の自由を防衛するためだ、というものだ。しかし、イスラム教社会がこれだけ反発している中で、あえて火に油を注ぐような行為は、いくら言論の自由とはいえ、これこそ配慮が足りない、といわざるを得ない。自由とは、好き勝手に何でもしていい、というわけではなく、自ら決断して実行したことの結果に対して責任を負う、ということも含むのだから。

フランスに続いて、他の国も風刺画をここ数日のうちに掲載した。風刺画の特集に加わった10数人の絵描きは、暗殺という脅迫のもと、今やデンマーク警察の保護の下にある。これがもしや最悪な事態になりでもすれば、これはまさにその風刺画が描こうとした“イスラム”=“テロ・暴力・野蛮”というステレオ・タイプを証明することになり、デンマークを初めとするヨーロッパ諸国のイスラム嫌悪感をますます助長するだけで、さらなる悪循環となってしまう。

(つづく)