朝礼の話題

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頭が固くなったと思ったら

2007-09-10 14:17:14 | 老化防止
私の頭の固さ 2007/9/10
 青臭い疑問・質問と言われそうですが、私は70才なのに、未だに「自分とはどんな人間なのか?」「どんな価値があるのか?」と考えることがあります。
 「自分はこんな反応をする人間だ」「こんな考えをする人間だ」と定義付けし、そんな風にいつも振る舞っているのは、頭の固くなった頑固老人ロボットに思えてしまいます。

 20年前、HCI(ヒューマン・コミニュケーション・インスティテュート)といういわゆる感性トレーニングに参加しました。
 堺トレーナーの指導で椅子取りゲームがありました。
 「今、自分たちは、難破船にのっている。船は沈みはじめ救命ボートが降ろされた。ボートには10人しか乗れない。人間はここに20人いる。早いもの勝ちだ。生き残りたいものは、立ち上がれ。そして10個の椅子を取りに行け!」
 喧嘩腰で椅子を取りに行く若い人がいる中、年寄りの私は立てませんでした。
 真剣に考えて「本当にそういう事態だったら、みんなより長く生きた私は遠慮しよう。若い人に生き残って貰おう」と思ったのです。

 トレーナーやアシスタントは「立ち上がって、生き残れ。座っているのは自殺だ」と囃したてますが、私は座り続け最後まで立ちませんでした。
 先に立っている人たちも白けきってしまい、やる気もなくなりセッションは失敗のようでした。
 「生きる」ことに、遠慮があり、他の優秀な人たちに生き残ってもらいたいと本当に思っていたのです。
 今、考えると「140才まで生きよう」と言っている私と「如何に枯れて行くか?」という友人との立場を裏返しにした状態です。
 一旦始めたら意地でも変えないというのは、意思強いとも言えるかもしれませんが、考えに柔軟性がない・頭が固い・老人の頑固さとも言えます。

 「世界は難破船なのだ」「私たちは難破船の乗客だ」と考えると、世界中に起こる紛争・テロが無くならない理由が見える気がします。
 イラクもアフガニスタンもソマリアも救命ボートの席を争って殺し合いをしています。皆、生き残ろう・サバイバルだと必死になっているのです。
 彼らは、面白がったり何かの理想のために戦争しているのではないと、思えてきます。

 生き残ろうとあがいている中では、自分はどんな人間か?とか何の価値があるか?などの疑問などする人はいないでしょう。
 そんな質問をするのは、お釈迦様のように、生きることに苦労せず傍観者として人の苦労を考える人でしょう。
 日本は、仏教に毒され、傍観者的発想をしているのではないか?
 私がお坊さんのことを考えるとき、鱈腹食べ飲んで太って、立派なお寺に居て、精一杯生きている百姓に能書きを垂れる人と思いますが、アフガニスタンやイラクの人たちも日本そのものを、そんな坊さんに見ているのではないかな?

 そういうお釈迦様生活を理想とする仏教は、インドでも中国でも滅んでしまっています。
 世界の辺境で、文明の最後の吹きだまりの日本は、仏教的考え・風習が根付いています。
 仏教を棄て、仏教的考えを棄て、新しい宗教を作ってこそ、21世紀の発展があるのではないか?

 自分の頭が固くなったと思ったら、固くなった原因でもある自分の固定観念・前提観念を崩すように、一旦否定してそこから考えを始めるのが、いい頭の体操になります。

 ちょっとオウム真理教的考えだったかな?

 鑑真和上展が福岡で開かれるとテレビで宣伝しています。
 仏像を拝む、女性たちを画面に出しながら、「仏教美術のすばらしさ」と音声で言っています。テレビ放送基準に引っ掛かるのか、宗教的発言はしません。
 仏教も廃れつつあるのでしょうか?

 私は何なのでしょうか? 私は何のため生まれてきたのでしょうか?
 私の存在価値は何でしょう? 
 何もないのかな?


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