いっそセレナーデ

2019-07-30 03:09:50 | 井上陽水
いっそセレナーデ




※あまい口づけ
遠い想い出
夢のあいだに
浮かべて 泣こうか※

忘れたままの
恋のささやき
今宵 ひととき
探してみようか

恋のうたが 誘いながら 流れてくる
そっと眠りかけたラジオからの
さみしい そして 悲しい
いっそ やさしい セレナーデ

風の便りの
とだえた訳を
誰に聞こうか
それとも 泣こうか

君のことを 想うたびに 聞こえてくる
そっと淡い恋がゆれるごとに
さみしい そして 悲しい
いっそ やさしい セレナーデ

(※くり返し)




日本語では「小夜曲」と言われるセレナーデ、小窓の外で恋人や片思いの人にむけて歌う愛の歌です。

イタリアの建築では2階に小窓があり、男性が気になる女性の家の前でセレナーデを歌うと、それに気づいた女性が顔を見せるという文化がありました。

吉田拓郎さんとともにフォークの神様として君臨、その呼び名が変わってニューミュージックとなってなお、ロックのエッセンスを取り入れて独自の楽曲リリースで常にシーンの最前線をひた走ってきたのが井上陽水さん。

そんな彼の代表曲の一つにあげられるのが、この「いっそセレナーデ」です。

この曲がリリースされたのは1984年、約30年前の作品となります。

しかし、不思議なのは、この作品がいっこうに古さを感じさせません。・・・時代の匂いは確かにあるのですが、今リリースされたとしても一切問題ないほどの超越したクオリティを誇っています。













































































  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アビーロードの街 

2019-07-29 01:42:59 | 南こうせつ
かぐや姫 アビーロードの街 


http://blog-imgs-64.fc2.com/f/o/o/footyan0214/201407240321202ed.mp3



アビーロードといえば、ビートルズのアルバムジャケットのタイトルでもあり、レコーディングスタジオ前にある通りの横断歩道がレコードジャケット写真になっているため、ビートルズファンが訪れる観光スポットとなっています。

ロンドン市内にあり、地下鉄のSt. John’s Wood(セント・ジョンズ・ウッド)駅で下車、歩いて行ける距離にアビーロードスタジオがあります。

ビートルズ以外でもこれまでに数々の歴代ミュージシャンがこのスタジオでレコーディングしている場所でもあります。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

百万本のバラ

2019-07-28 09:49:19 | 加藤登紀子
百万本のバラ 加藤登紀子


http://blog-imgs-76.fc2.com/t/o/s/toshiichi/2015041912303817d.mp3


日本では加藤登紀子さんの歌で有名なこの「百万本のバラ」ですが、もともとは、アラ・ブガチョワというロシアの代表的なポピュラー歌手によって広く世に知られることになったのだそうです。

マーラが与えた人生 (百万本のバラの前身の曲)



ところで、ロシアでは家を訪問するときに花束の一つも持っていくことが礼儀とされているそうですが、この貧しい画家は100万本も・・・

日本の通販サイトでは、50本6980円とありましたが、100万本だと?(笑)

しかし、その想いは女優に通じず、恋は実りません。

ロシアでは割り切れる偶数は「別れ」を意味する不吉な数字だそうですので、もしかしたら、「100万1本のバラ」にしたらこの恋は成就していたのかもしれませんね。

ただ、歌は売れなかったでしょうが。(笑)



  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夕暮れ時はさびしそう

2019-07-28 03:50:06 | NSP
夕暮れ時はさびしそう NSP


http://blog-imgs-76.fc2.com/t/o/s/toshiichi/2015042017133827b.mp3



朝日も夕日と同じような距離にあると思うのですが夕焼けのように空が真っ赤になることはありません。

なぜ?

夕焼けはなぜ赤い?

う~ん、難しいですね、思いつくのは大気の温度差とか、大気中の塵の多寡?  (笑)

その日の一日の終わり、夕暮れどきって、秋にかぎらず、春夏秋冬、いつでもさびしそうですね。

でも、秋の日の夕暮れは、確かに格別…。

夏の日の想い出たちが遠ざかるにつれて、確実に、夕暮れが早くなっていき、また気温も急激に下がっていくからでしょうか。

田舎の堤防 夕暮れ時に
ぼんやりベンチに すわるのか
散歩するのも いいけれど
よりそう人が 欲しいもの


堤防沿いの道は、夕陽が落ちていくのが間近に見えて、川面にキラキラと、夕陽が照り返して、川面を渡る風は冷たくなっていく。

完璧に、人肌のぬくもり、人恋しくさせる舞台設定ですね。

若いときに、こんなデートコースが思い浮かんでいたら、人生は変わっていたかもしれません。(笑)

あの娘がいれば 僕だって
さびしい気持にゃ ならないさ


「あの娘」って言い回しが好きです。

あの子ではなく、あの娘って書く…。

女偏に良いと書いて娘。

鬼も十八、番茶も出花…の頃ですよね。(笑)

まあ、そんな娘も、女編に家と書いて、嫁になり、女編に老いと書いて、姥になっていくのは、歴史的必然であると、かのマルクスも毛沢東も金日成も、言ったとか言わないとか…言わない言わない。(笑)

夕焼け雲さん 伝えてくれよ
あの娘のお部屋の 窓ぎわへ


天高く 夕焼け映えて うろこ雲

秋の日の夕焼け空がさびしく見えるのは、むくむくと積み重なるような入道雲や雷雲などの乱層雲が空を占めている夏の日とは違って、天が高く見える上に、すじ雲、うろこ雲などの絹雲や絹積雲が、頼りなげに、まるで、西陣の絹織物が加茂の流れの中で、染め上げられるようにして浮かんでいるからでしょう。

虫にさされるのは いやだけど
肩をならべて いたいよと


秋も深まったころ、季節にはぐれて、弱々しい羽音をたてて飛んでいる蚊…、古来、そんな蚊を「あはれ蚊」と言って、哀れみ慈しみ、殺生をしないという、情感のある風習がありました。

蚊帳(かや)などいうを見かけることもほとんどなく、いまや、蚊取り線香すらも、年中使える電気式蚊取りになって、そんな「あはれ蚊」の存在も忘れがちになっています。

でも、もし、「あはれ蚊」に、右手を刺されたら、左手も差し出す…なんて、凡人には無理な相談で、もちろん、見つけたら、やっぱし、パチっとするか、シューっとするか、しますやろね。(笑)

おうちの人に おこられるかな
呼び出したりして ごめんごめん
もうちょっとだけ いっしょにいよう
帰りたいなんて いわないで


こんな「おうち」も、少なくなりましたね。

かみなりを落とす親父は、とうのむかしにいなくなり、夜中に娘が出かけようとしても、「携帯持ったの?」とだけ、声をかける、物分りのいい母親がいる「おうち」…なんか、やっぱり「おうち」として変…と思うのが時代おくれなのかな。

でも、時代おくれのそんな、おこる「おうち」もあって欲しいですよね。

そうか君は 笑うのが
へたに なっちゃったんだね
あんまり僕を 困らせないで
そろそろ笑ってくれよ


笑うのがへたって、そりゃ、でも天野くん、こんなシチュエーションで娘さんが笑って出てきたら、それこそ気色悪いでしょ。

こんな河原の 夕暮れ時に
呼び出したりして ごめんごめん
笑ってくれよ ウフフとね
そんなにふくれちゃいやだよ


しかも、夕暮れの河原で、ウフフなんて笑われると、ぼくなら、ふくれられるより、いや。(笑)

でも、まあ、蓼食う虫も好き好きや…、ごめんごめん。(^^ゞ

夕暮れ時は さびしそう
とっても一人じゃ いられない…


まっ、夕暮れもいっとき…、あとは暗闇にまかせましょ。(笑)

この曲は、N.S.Pの代表的なヒット曲、例のごとく、天野さんらしい泣きべそかいたような不安定な節回しの声は、いつ聞いても、じんわりときます。

ファンの待望久しくN.S.Pは復活し、活動再開されていますが、このサウンドだけは、踏襲していってほしいものです。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時の流れに 鳥になれ

2019-07-27 03:59:31 | 五輪真弓
時の流れに 鳥になれ(2011年12月)  青木FUKI


http://blog-imgs-83.fc2.com/t/o/s/toshiichi/20151026044302815.mp3

少女・三葉(みつは)は山深い田舎に暮らしていて、少年・瀧(たき)は東京都心の高校生。

面識のないはずの彼らが、ある日互いの夢を見ます。

それもものすごく具体的に、相手の生活そのものを体験する夢です。

その夢に隠された秘密はいったいなんなのか・・・

アニメ『君の名は。』は、現代の日本を舞台にした、少年と少女の物語です。

ところで、この『君の名は』ですが、戦後まもなくの日本をわかせたNHKラジオ劇も春樹と真知子のすれ違いが描かれていました。

放送が始まると女湯が カラになるという伝説を生んだほどのドラマ、映画化もされましたが、その観客動員数は役3000万、・・・当時の人口は8300万くらいでしたからすごい人気だったのでしょうね。

しかし、今、劇場に足を運ぶ10代、20代の人たちは勿論、春樹も真知子も知らない・・・

「君の名や昭和は遠くになりにけり」




  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

恋人よ

2019-07-26 01:22:12 | 五輪真弓
五輪真弓 恋人よ


http://blog-imgs-64.fc2.com/f/o/o/footyan0214/20140713091251ef9.mp3


風にゆかりのある字としては、たこ揚げのたこ「凧」や、あるいは夕凪のなぎ「凪」、そしてこがらしの「凩」の字が思い浮かべると思いますが、風に布巾や巾着の布を意味する「巾」を入れて凧、風が「止」まると書いてなぎ、そして「木」を枯らすような風だから凩というのが字の成り立ちです。

これらは、中国で作られた文字、いわゆる漢字ではないため、国字とも言われています。

では、中国では、凩という字がないのなら、中国語で凩はどう表すのでしょうか。

中国語への翻訳ソフトを使うと、凩は、「寒風」、「秋風」に変換されました。

ここで変換された風という字は、正確には、中国では簡体字を使っているため、風は、「几」の中に「メ」入れたような字で表記されましたが、いずれにしろ、「凩」は、単なる「寒風」や「秋風」とは、ニュアンスが異なりますから、やはりこれは日中の文化の違いなのでしょうか。

ともかく、大袈裟に日本文化と言っても、今は「凩」は和歌や俳句、小説などの文学に使われる例は見られるものの、日常的には、木枯し(こがらし)と書くことが多いような気がします。

すなわち、木枯しとは、晩秋から初冬にかけて吹く冷たい風のことですが、色づいた木々を、さらに吹き枯らすような強い風のことを意味しますから、言いえて妙な言葉です。

気象学的には、10月半ばから11月末にかけて、日本の太平洋側地域において、冬型の西高東低の気圧配置になったとき、北寄りの風で、秒速8メートル以上の風を木枯しと呼ぶそうです。

なお、ニュースや天気予報でよく耳にする、木枯し1号というのは、その年の秋以降に、最初に吹く木枯しのことですが、木枯しが太平洋側で吹く風であるために、関東地方(東京管区気象台)と近畿地方(大阪管区気象台)のみ、最初の木枯しを、木枯し1号が吹いたと発表されるだけで、札幌や仙台、福岡の他の管区気象台では発表されていないそうです。

北海道や東北はそもそもが冷涼な気候風土の土地柄ですし、福岡は日本海側にある土地柄なために、もちろん冷たい風は吹いても、気象の定義では、木枯しではないことになります。

とはいえ、晩秋から初冬の木々を枯らして吹きすさぶ冷たい風は、体感として感じる、あるいは感性として感じるものとして、やはり日本全国いずこであっても、木枯しなんでしょうね。

そんな季節の変わり目に吹く木枯しに、時の移ろいを感じるのも日本人の感性でしょうか。

紅葉のように燃え上がる諦め切れぬ想いや、枝にしがみつく枯葉のような一途な断ち切れぬ想いは、 心変わりは人の世の常とは分かっていても、割り切れない想いが残るようです。
恨みつらみも持ち合わせている、神や仏ではない、人ゆえの苦しみでしょう。

しかし、それすら、木枯しは吹き飛ばしてくれそうです。

そして、木枯しが、木々を枯らして、色づいた枯葉たちを吹き飛ばすからこそ、次に来る春に、葉や花となる、葉芽や花芽が出てくることもできるのです。

ポ-ル・ヴェルレーヌが詠んだ、ヴィオロンのため息に舞うような秋の日の枯葉たちの輪舞曲よりも、我が祖国日本の風土には、手風琴(アコーディオン)の響きを含んだ木枯しの調べが似合うのかもしれません。

そんな調べが奏でられる中で、すべては思い出の中に。

吹きかけて、暖めても、すべては白い霧に包まれた思い出の中に。

この曲は1980年の大ヒット曲、アジア各国でも歌われました。

演歌系の歌手も歌いますが、この歌はやはり五輪真弓でなくてはなりません。

五輪真弓が硬質な声で歌うことによって、アクティブな生き方をしている知的な女性の失恋というイメージになります。

小節をころころ回す演歌の歌唱法では、これとは全然違うイメージの「捨てられ演歌」になってしまいますから・・・ネ。

厳しい暑さを迎える折ですから、気持ちだけでも木枯らし気分で・・・(笑)





  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷山浩子 『窓』

2019-07-23 17:03:58 | 谷山浩子
谷山浩子 『窓』


http://blog-imgs-76.fc2.com/t/o/s/toshiichi/201504220835588f1.mp3


桜の花びらが、無風状態で散りゆく速度は、秒速約50センチだそうです。

風の無い夜に飛び交っている日本のホタルの速度が、秒速約50センチ。

ぼたん雪がひらひらと舞う速度も、秒速約50センチだそうです。

色づく落ち葉たちが散りゆくときも、おそらくは、秒速約50センチでしょうか。

日本の四季折々の風景のなかに、秒速約50センチの速度で動くものがあり、これが日本人の好きな速度であり、感性であるということを教えてくれたのは、マスターが、師匠とも、先生とも仰ぐ、さだまさしさんです。(笑)

仰げば尊し、わが師の恩。

もっとも、かってに、仰いでるだけであり、単なる隠れさだファンのひとりというだけなんですが、年とともに、最近は、隠そうとしても、隠れなくなってきて、扇子で扇(あお)げば、多少、薄くなってきたのがばれるかも。(笑)

ところで、この秒速約50センチのさださんのステージトークを初めて聞いたときは、目が点になるどころか、さすがに、さださんやなぁ、目の付けどころが違うがな、やはり、伊達に、伊達眼鏡かけてへんやん、とますます、リスペクト(尊敬)の念が高まりました。

しかし、よくよく考えてみると、秒速約50センチということは、5秒で、250センチ=2.5メートルの距離を移動することになるわけです。

つまりは、速さは、距離を時間で割って求めますから、○の中にTという線を引いて、左下に「は」、その隣の右下に「じ」、そして上には「き」を書いて、たとえば、「は」を求めるのには、「き」を「じ」で割る、「き」は「じ」と「は」を掛けることで求めることができます。

習ったのは、小学校の高学年だと思いますが、距離÷時間=速さという公式を覚えたあとに、この法則を教えてもらっても、あまり意味がありませんでした。

それはさておき、距離÷時間=速さということですね。

2.5メートルの高さの桜の木の花びらが落ちるのに、いくら無風でも5秒はかからない。

いちど5秒を、時計の秒針を見ながら、数えてみてください。

わずか5秒ですが、されど5秒で、思いのほかに、結構長い時間ですよね。

逆にいえば、秒速約50センチというスピードは少し遅すぎるかもしれない。

まあ、さださんも、新聞に書いてあったこと、ということですし、トークも秒速約50センチ~70センチ、1メートルとおっしゃるときもあるので、気がついているのでしょう。

いや、師匠に対して、ケチをつけているわけじゃないです。

先生に対して、そんな恐れ多いことは申しません。(笑)

でも、先生だって、早とちりもするし、間違うこともあるし、誤魔化すこともあるし、盗みをすることもあるし、わいせつなことをして捕まることもある…って、方向がそれてきましたね。(笑)

教室の窓から見る秋は
いつも不思議に光ってた
北向きの窓のすリガラス
ギリシャの海も見えた


ところで、記憶する四季折々の風景のなかに、学校のなかでの風景がありますよね。

いわゆる633制といわれる義務教育の小学校の6年間と、中学校の3年間に加え、高等学校の3年間で、ほとんどの人が12年間ほど、学校に通うわけです。

学校で過ごす時間も、やはり長いから、学校の風景が記憶に残るのも当然です。

そして幼稚園の3年間と大学の4年間を加えると、さらに19年になります。

えっ、予備校に通う人も多いから、20年としたらキリが良いんじゃないかって?。

マスターが予備校に行ってないから、ひがんで外したしたのかって?

そんなわけではないのですが、学校教育法では、その第1条に、「この法律で、学校とは、幼稚園、小学校、中学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校、大学及び高等専門学校とする。」と学校についての定義があり、これをいわゆる1条校と呼びます。

学校教育法第134条では、「第1条に掲げるもの以外のもので、学校教育に類する教育を行うものは、各種学校とする。」と規定されており、予備校も各種学校に含まれますが、1条校ではないので、学校教育法でいう学校ではないとされます。

各種学校と規定して、学校という文字をつけながら、学校ではないというのは、あたかも、なんとか味とか、なんとか風味とかいうのに、似ていますね。(笑)

ちなみに、幼稚園は、学校教育法に規定される幼児教育施設の学校と規定され、免許制の幼稚園教諭がいますが、保育所については、児童福祉法の児童福祉施設とされており、資格制の保育士がいますが、学校という位置づけではありません。

ここから、幼稚園は幼児教育という範疇で、文部科学省の管轄となっていて、保育所は児童福祉の分野であるとして、厚生労働省の管轄となります。

話を戻して、教室の窓から見る秋は、どんな光景があったか覚えていますか。

多くの方には、ずいぶんと遠い昔話になりますけどね。(笑)

まさか、「エーゲ海に捧ぐ」の池田万寿夫さんや「魅せられて」のジュディ・オングさんやあるまいし、教室の窓からギリシャの海が見えた人はいないとは思いますが。(笑)、

もっともインターネットの世界では、帰国子女の方や、あるいはギリシャの海岸部で生まれ育った人も閲覧しておられる可能性もあって、いないとも限りませんね。

ちなみに、土木系のお仕事をした人や、体育会系のクラブに所属した人なら知ってると思いますが、校庭のグランドの整備には、土ぼこりを防止し、土を固めるために、塩化カルシウムという薬剤を撒布します。

塩化カルシウムというのは、冬場の道路に撒く結防止剤や、あるいは豆腐用凝固剤、いわゆるニガリの成分ですが、もともと海水にも含まれる成分なので、あるいは校庭を海に見たてるという発想も、あながちおかしくはないかもしれません。

学校の校庭というのも、さきの学校教育法の第3条では、「学校を設置しようとする者は、学校の種類に応じ、文部科学大臣の定める設備、編制その他に関する設置基準に従い、これを設置しなければならない。 」と規定されており、文部科学省令において、「小学校設置基準」「高等学校設置基準」が定められ、教室の校舎や運動場の面積などの施設及び設備についての基準が定められています。

なお、学校を設置しようとする者とは、いわゆる国立の学校の国と、都道府県立、市町村立の学校、つまり公立学校の地方自治体と、いわゆる私学といわれる私立学校の学校法人がありますが、最近は、大学などは国立大学法人や公立大学法人などの独立行政法人系や、構造改革特区では株式会社やNPO法人が学校を設置することも認められるようになりました。

なお、以前はどこの小学校の校庭などに見られた、薪を背負いながら本を読んで歩く少年の姿の像、いわゆる「二宮金次郎像」は、特に基準等で設置すべきとされたわけでも、文部行政からの通達があったわけでもないようですが、多くの学校で建てられたようですが、最近は減少しているとのことです。

さて、お堅い話はこれくらいにして、学校の窓から見える秋の光景に戻りましょう。

校庭に並んだ生徒たちの制服が、白っぽい夏服から黒っぽい冬服へと衣更えするとき、、校庭の木々も、衣更え、お色直しするかのように色づく頃を迎えます。

春にはうららかな陽光に映えて、薄い紅色の花を咲かせ、そしてあっけなく散らし、そして青い空と白い雲に彩りを添えた葉桜も、やがて秋には桜紅葉となって散り急ぎます。

校舎を守る直立不動の兵士のように、整然と並んだメタセコイアの木々も、地味な渋い色の紅葉となっていきまます。

その紅葉たちに負けまいと、銀杏黄葉もポプラ黄葉も、夕陽に競うようにして、金色の輝きを増していきます。

あたかも、秋の日のヴィオロン(バイオリン)のためいきが聞こえそうな風景です。

思い出せばもう夢の中
午後の陽射しにまどろめば
遠いアコーディオンのすすり泣く
光と影の世界


そういえば、学校の思い出の中の楽器と言えば、カスタネットやトライアングル、ハーモニカなどがあると思いますが、まずは、オルガン、そしてピアノ、そしていわゆる学校の帰り道に歩いて吹いてた、たて笛のリコーダーかなと思います。

なかには、アコーディオンを思い出す人も少なくないかもしれません。

オルガンやピアノが弾ける友人たちは、アコーディオンを難なく弾いていましたが、そうでないマスターなどは、鍵盤に意識がゆくと、蛇腹の操作ができず、蛇腹に気をとられると、鍵盤が弾けないということになりました。

ちなみに、アコーディオンは、「和音」を意味する「accord」に「器」を意味するギリシャ語の接尾語を組み合わせたものだそうです。

まあ、アコーディオンがすすり泣いたり、夜中に講堂のピアノが鳴り出したり、音楽室のベートーベンの目が光ったりと、学校には不思議なことがたくさんあります。(笑)

時代が移り変わっても、いわゆる学校の七不思議といわれることが語り継がれているということは、それは、多感な少年期や思春期にならではの広がる世界への憧れと不安がもたらすものだからなのかもしれません。

まあ、思春期から青春期を経て、中年期や高年期になると、なにもしていないのに、冷や汗が出てきたり、聞こえない音が聞こえたり、ふらっと地面がうごいたり、天井がまわったりと、それはそれで、こわいものがありますが。(笑)

やさしい時代を置き去りに
やがて街へとび出した僕には
教室の窓がもう見えない
夢の行き場がどこにもない


青春の夢に忠実であれ!

これは、ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」の原詞の作者としても知られるドイツの詩人、シラーの名言ですが、名言ではあるにしても、青春の夢に忠実であるには、現実の世界は多少、厳し過ぎるのかもしれません。

この名言は、中学校のときの担任の先生に教えてもらったのですが、シラーの言葉とは知っていても、出典は知らなかったので、50歳で亡くなったシラーが、この名言を何歳のときに言ったのかを、知りたくて、今回調べてみましたが、わかりませんでした。

なお、有名なサミュエル・ウルマンの「青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ」という「青春の詩」は、ウルマンの晩年発行された「80年の歳月の頂から」の詩集の巻頭にあることから、70歳超えての作といわれています。

いずれにしろ、「年を重ねただけで人は老いない。理想を失うときに初めて老いがくる。希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる。」のウルマンの言葉は、夢や希望、理想を持ち続けることがいかに大切かを教えてくれています。

授業をひとりでぬけ出して
空き部屋の窓から空を見た
幾億年もの時の彼方
空翔ける船を見た


空翔る船といえば、ギリシャ神話や旧約聖書、あるいは日本神話などにも登場する、天空高くを、神々しく飛ぶ船のことを想像する人も多いでしょうが、一般的には現実的に、飛行船を想像する人も多いでしょう。

そして、飛行船といえば、1973年(昭和12年)にアメリカで発生したドイツのツェッペリン社の「ヒンデンブルク号」の爆発墜落事故を想起してしまう人もいるかもしれません。

あるいは、アニメ映画の巨匠、宮崎駿監督のジブリ作品の「魔女の宅急便」や「天空の城ラピュタ」に登場するような飛行船を想い出す人もいるかもしれません。

指でわっかを作り望遠鏡で覗いているまねをする子

爆発したときにすぐ机の下に隠れるように用意している子。

授業が中断されるのを迷惑顔でためいきをついてる子。

テレビのコマーシャルソングを歌いだす子。

教室の窓から、飛行船が見えたときの教室のざわめきを覚えています。

思い出せばもう夢の中
一枚の窓のそのむこうに
見しらぬあしたがふるえていた
きらめきふるえていた


おそらくは見しらぬ明日も、いつのまにか昨日になっていくのでしょう。

でも通りすぎた昨日たちなら、振り返れば、懐かしさもあるはずなのに。

でも想い出した昨日たちも、妙になにか、よそよそしくて。

昨日たちすら、そうなんだから、見しらぬ明日たちなら、なおさら、あたりまえ。

なにも、明日をおそれることはない。

ときは、みんな、見しらぬままに過ぎていくものかもしれません。

そんな気がします。

いくつも街を歩くうちに
いつか外の世界は狭くなる
教室の窓がもう見えない
夢の行き場がどこにもない


教室の窓から背伸びして見ていた、広がる世界も広がる夢も、やはりそれ自体が、夢のごとくと知るようになります。

いや教室の窓から見ていた、ということすらやはり夢だったのかもしれません。

だから、夢の行き場すら、もはやないんでしょうね。

でも、だからこそ、行き場を失った夢を抱いて…、もすこし生きてみませんか。

行き場のない夢といっしょに…。


この「窓」は、1978年(昭和54年)に、谷山浩子さんの4枚目のアルバムとしてリリースされた「鏡の中のあなたへ」に収録されて、翌1979年(昭和54年)には、谷山浩子さんの4枚目のシングルとしても、リリースされている谷山浩子さんの代表的な曲です。

谷山浩子さんの唄は、ファンタジックというか幻想的というか、ミステリアスというか、どこからが夢なのか、現(うつつ)なのか、まぼろしなのか、よく分からないところがあります。

今回、この「窓」を取り上げるにあたり、ネットでいろいろ探索していたら、二番目の歌詞が異なる「窓」の初期バージョンというのに遭遇しました。

授業をひとりでぬけ出して

屋上の上から街を見た
イルカの小川のカルモヂイン
空の彼方に見えた

いくつも街を歩くうちに
いつか外の暮らしに慣れてきて
世界がこんなに狭く見える

夢の行き場がどこにもない


授業を抜け出して屋上へ行くというシチュエーションは、良からぬ結果を想像させるとして、屋上から、空き部屋になったのでしょうか。

また、「イルカの小川のカルモヂイン」というのは、さっぱり分からなかったのですが、詩人の西脇順三郎「太陽」の影響ということで、「カルモヂイン」は、太宰治が自殺をはかった睡眠薬「カルモチン」からの造語というから、やはり、なにやら意味深長です。

結局、現在の歌詞に変更されたのでしょうね。

ただ、いつか外の世界は狭くなるのが、外の暮らしに慣れてきたからという意味なら、なるほど、と納得できたりします。

世慣れたくないけど、世慣れてしまったということで、苦笑いですね。

いずれにしろ、教室の窓から見る秋を覚えていますか。

友だちの笑顔、困惑した先生の顔、桜や紅葉、枯葉の音、あの日あのとき…。



  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジェラシー

2019-07-19 04:32:06 | 井上陽水
梓みちよ ジェラシー


http://blog-imgs-64.fc2.com/f/o/o/footyan0214/201407210542293ca.mp3



終局が見えてしまった恋

君の残り火を焚きつけて、きっともう二度とはないであろう旅に出る

部屋で夕日に赤く染まる君を見れば、恋人たちはあまりにも遠いところに来てしまっていることを知る

率直な愛をささやいたかつての姿はなく、またその言葉も枯れた。 

ただただこれから先に君の前に現れるであろう男を思えば涙もない

 
あたりが闇に包まれた頃、どこへ行くともなく君と歩きだす

月影は冴えわたり物音ひとつしない

はまゆりと潮騒の予感

淡く鈍い明るみの中に真実が浮かび上がる

 
全てが、波に飲まれていく



フォークと呼ばれるジャンルが終演を迎え、ニューミュージックの呼称に切り替わった 1980年代。

たくさんのフォークの大御所がリアルタイム性を欠いて消えていく中で、 超然と存在し続けた井上陽水さんです。




  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

心凍らせて

2019-07-14 03:59:58 | Jポップス
心凍らせて 香西かおり


http://blog-imgs-75.fc2.com/t/o/s/toshiichi/201506250359523ae.mp3


ハンセン病家族補償で控訴を見送った安倍総理、参院選を見据えての見送りが見え見え。

とは言っても、結果そのものは喜ばしいことです。

心 凍らせて 愛を凍らせて

今がどこへも 行かないように

心 凍らせて 夢を凍らせて

涙の終りに ならないように

ただ、補償への法整備が迅速に行われるかどうか・・・それが心配。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さよならは突然に

2019-07-10 12:02:57 | ザ・ピーナッツ
さよならは突然に ザ・ピーナッツ 1972


http://blog-imgs-116.fc2.com/t/o/s/toshiichi/201710240450366c5.mp3


○○しかない・・・

最近、人気のスポーツ選手やタレントが発する言葉です。

政府は「輸出規制しかない」として発表したのが半導体の製造に必要な3品目。

この時期ですから想像したくなるのがハンセン病家族訴訟控訴せずの異例判断同様、参院選対策?

それはともかく、世界はどう見るでしょうね。

日本も安全保障や高関税を振りかざして譲歩を迫る、トランプ流の国になったのではと思われそうで心配。

近隣の国を皆、敵対国にしてしまうのでしょうか。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

涙の向こうに

2019-07-10 03:41:38 | 松山千春
松山千春♪ 涙の向こうに


http://blog-imgs-114.fc2.com/t/o/s/toshiichi/2017090204393143a.mp3


平成は「失われた30年」・・・

令和は「壊れて逝く?十年」・・・

・・・かもしれません。

政治はもちろんですが、経済・外交・生活保障・安全保障・自然災害・・・などなど全てが壊れて行きそう。

逝くが「生く」なら喜ばしいことですが。(笑)

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唇をかみしめて

2019-07-09 17:17:49 | 吉田拓郎
吉田拓郎 - 唇をかみしめて


http://blog-imgs-75.fc2.com/t/o/s/toshiichi/20150623151949f16.mp3


1982年から1987年までに全5作が公開された武田鉄矢さん主演のシリーズ映画「刑事物語」、この曲はそのエンディングテーマでした。

映画「刑事物語」は、・・・

普段は冴えないが、正義感に溢れており一旦暴れ始めるとやり過ぎてしまい、それが原因で左遷となり日本各地を異動することになる片山刑事。

毎回、赴任先で美しいマドンナに恋をし助けるのだが、最後には失恋して、一人淋しくその土地を去ってゆく・・・そんな物語です。

この映画、原作、脚本(第4作を除く)、主演が武田鉄矢さんでしたので、この曲も武田さんの作品と勘違いされてる方も多いようですが、武田さんに頼まれ作った吉田拓郎さんの作品です。

歌詞は難解で、いろんな方がいろんな解釈をされてるようですが、こちらは聴かれる方の心情に合わせての「お任せ」が正解なのかも知れません。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江梨子

2019-07-09 09:24:03 | 青春歌謡
橋幸夫「江梨子」



冷たい雨が 降る朝に
一人で江梨子は死んでしまった
かわいそうな江梨子よ
きれいだった江梨子よ
涙にぬれた その顔を
花で飾ってあげましょう

だまされたって傷つかぬ
やさしい心の娘だったが
大人達が江梨子よ
わるいんだぜ江梨子よ
苦しみのない天国で
きっとなるでしょ幸福に

海辺のお墓その下で
静かに江梨子は眠っている
野菊だけど江梨子よ
つんできたぜ江梨子よ
今では逢えはしないけど
残る名前の美しさ




江梨子の死は自然死ではなさそうです。「大人達が……わるいんだぜ」というのは、旧弊な大人達の無理解が彼女を死に追いやった、という意味でしょう。

若者たちの「純愛」が大人たちの無理解という障壁にぶつかって、敗北し、悲劇に終わる、というのは青春ドラマの定型の一つ。

彼は「大人達が……わるいんだぜ」「野菊だけど……つんできたぜ」と語りかけます。

ちょっとぞんざいなこの「……ぜ」という語尾は、「花で飾ってあげましょう」とか「きっとなるでしょ」「海辺のお墓」といった丁寧口調とすこしばかりちぐはぐですよね。

詞の欠陥といえば欠陥ですが、たぶん、このぞんざいな口調は股旅歌謡から引き継がれたものかも知れません。

股旅歌謡を歌い続けた橋さんの、歌詞によって形成された橋幸夫像には、ちょっと不良っぽいかっこいい兄ちゃん、といったイメージができあがっていましたから。(笑)





































































































































  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

少女

2019-07-06 17:50:45 | 村下孝蔵
少女 / 村下孝蔵


http://blog-imgs-106.fc2.com/t/o/s/toshiichi/201706161735005a2.mp3


「大好きだった、そして仲良しだった野際陽子さんへ NHKに入ったのが、およそ60年前。

あなたはアナウンサー、私は放送劇団。

その頃からもう気が合っていて、一緒にフランス語を習ったり、同じお洋服屋さんで、お洋服を作ってもらったり。私は、あなたの感覚が、好きだったし、何より正直だった清らかなあなたが好きでした。

長いことFAXでやりとりしましたね、流れるように美しい字のあなたのFAXは、カタカタと静かに送られてきました。

大きくてガタガタの字の私のFAXは、あなたと対照的に、恐らく、ドタドタとお宅に到着したことでしょう。

いつになったら、あなたが「やすらぎの郷」に沢山出ていらっしゃるかと、楽しみにしていました。

あなたが病気で、それどころではない、なんて知らなかったのよ。

一緒に芝居をやりましょうとか、よく話しあいましたね。

野際さん、胸がいっぱいで、悲しく、なんと言ったらいいのか、わかりません。

転勤で名古屋でのあなたの個人アパートに泥棒が入った話は、おかしくて『徹子の部屋』だけでも、4回は、して頂きましたね。

いやがらずに、よく話して下さったわね。

この2,3日は、ずっとあなたのことを考えていました。

どうしてでしょうね。

そういえば「死」ぬときのことなんかも、呑気に話しあっていましたね。

次に、あなたとお会いしたときに、どんなだったか話しあいましょうね。

野際さん、あなたのいらっしゃらない、この世界は、寂しいです。

本当にお友達がいなくなったようです。

じゃ、今度お会いするまでね。お友達でいて下さってありがとう。」(黒柳さんの手紙の全文)

永久の少女、・・・それが野際陽子さん。



  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松山千春 銀の雨

2019-07-05 07:16:54 | 松山千春
銀の雨/松山千春


http://blog-imgs-64.fc2.com/f/o/o/footyan0214/20140721210847c5b.mp3



さて、ここに出てくる女性と、おなじく松山千春さんの「恋」に出てくる女性とを対比してみると、結構、興味深いです。

「恋」の女性が、「貴方になんかつまづかないわ」、と、本音を吐露しているのに比べて、「銀の雨」の女性は、「貴方の夢がかなうように」、と、本音よりも建前を優先しているのが分かります。

「恋」の女性は、素直…、そして「銀の雨」の女性は、けな気。

そう言えるかもしれません。

しかし、いずれにしろ、さよならを言われたのは、男性の方だというのは、共通していますが。(笑)

通り過ぎれば…楽しかった…。

喉元過ぎれば熱さを忘れる…熱いものでも、飲みこんでしまえばその熱さを忘れてしまうように、苦しい事も、過ぎてしまえば忘れてしまう…という、このたとえと同じように、文字通り、煮え湯を飲まされるような、辛く、苦しいことでさえ、通り過ぎてしまえば、楽しく思えるもの…っ、かなっ?(笑)

恋人たちが、いつでも一緒にいたいと思って、暮らした始めた当座の間はともかくも、しばらくすると、惰性に流されて、側にいることすら煩わしくなることも、また恋のひとつの方程式です。

そして、苦渋の選択、別れの意を決して、ふと、振り返ってみれば、楽しいことばかりが走馬灯のように思い出されます。

…ということは、少しも楽しくないと思うときこそが、振り返ってみれば、楽しいときだったと、思えるのものかも…。

かなり、意味深長な言葉です。(笑)

そばにいて、この人のためなら…などと思う反面、ほんとうに、二人このままでいいのかなどと、自問と反問を繰り返しながら、ふと、だめになっていく相手の姿に気がつく…。

そして、そのだめにしているのが…。ひょっとして…。

人は孤独に生まれて、孤独に死ぬという、哲学的なことを意識せずとも、ひとりのときの孤独よりも、ふたりのときの孤独の方が、より孤独の深淵に近しいものだということを、人は出会いと別れの繰り返しの中で、経験的に知っていくものです。

そして、また、理解しようとすることは大切でも、理解しようとする努力だけで、理解できるとは限らないことも知るのです。

百の言訳よりも、一つの謝罪…、最近の殺伐とした人間関係の中で、もっとも懸念するのは、こういったやさしさを持ち合わせていない人が増えてきているのでは、と思うことです。

ごめんという、心からの素直な言葉や態度が、その傷つけたものに対する癒しとなり、償いになるという、単純で当たり前の事に、なぜ気がつかないのでしょうか。

別れのシーンに、いつのまにか降りだした雨…。

細く…、細く、そして鈍く輝きながら、降りそそぐ雨…。

その雨に、想い出を重ね、そして、祈りを重ねる。

銀の雨…。





  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする