恋のフーガ

2023-07-01 18:46:18 | ザ・ピーナッツ
ザ・ピーナッツ 恋のフーガ


岩崎良美


島津亜矢/多岐川舞子  



追いかけて追いかけて
すがりつきたいの
あの人が消えてゆく
雨の曲り角
幸せも想い出も
水に流したの
小窓打つ雨の音
ほほぬらす涙
はじめから結ばれない
約束のあなたと私
つかのまのたわむれと
みんなあきらめて
泣きながらはずしたの
真珠の指輪を

はじめから結ばれない
約束のあなたと私
かえらない面影を
胸に抱きしめて
くちづけをしてみたの
雨のガラス窓
ドゥン・ドゥビ・ドゥバ
ドゥン・ドゥ・ドゥビ・ドゥバ
パヤ・パヤ・パヤ・・・・・・




フーガとは、いくつかの独立したパートが同時に演奏され、そのなかで何度も決まったメロディ(主題)が出てくる形式です。

このメロディはどのパートにも登場するので、全部のパートが主役にもなりますし、伴奏にもなります。

ざっくりですが、フーガとは概念に近く、大体これを満たしていればフーガといいます。

メロディがぐるぐると回っている様子を聴いていると、まるで迷路にいるような感覚になりますよね。

しかし言い換えれば、終わりが見えないほど壮大で、どこか神秘的な音楽なのではないでしょうか。

最初のメロディが何度も登場する様子が、追いかけられ、逃げているように聴こえることから「逃げる」を意味するラテン語の“fugere”から名付けられたのだとか。

岸田政権、まさにフーガ政権? (笑)



































































































































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哀しき小鳥のワルツ

2023-05-29 02:41:28 | ザ・ピーナッツ
ザ・ピーナッツ    哀しき小鳥のワルツ



川の流れに揺れて 浮かぶ一つの小枝に
座って冷たく震える 一羽の傷ついた小鳥よ
そのやたら悲しく 鳴いてさえずる小鳥よ
見捨てられない恋人 助けるすべなく飛ぶだけ

くるおしく求め合って 我を忘れ叫ぶこえも
谷を渡る風に吹かれ 消え行くこだまも返らぬ
アーやがて力尽きて 枝を離れ波にのまれ
水に消えた愛の小鳥 川面に浮かぶ小枝よ
川の流れに揺れて 浮かぶ一つの小枝を
見つめて果てなくさえずる 一羽の悲しい小鳥よ

くるおしく求め合って 我を忘れ叫ぶこえも
谷を渡る風に吹かれ 消え行くこだまも返らぬ
アーやがて力尽きて 枝を離れ波にのまれ
水に消えた愛の小鳥 川面に浮かぶ小枝よ
川の流れに揺れて 浮かぶ一つの小枝を
見つめて果てなくさえずる 一羽の悲しい小鳥よ
 一羽の悲しい小鳥よ…




ブログのプロフィール画像にも掲載している「セキセイインコ」、こちらは毎日、我が儘に、楽しそうに生活しています。

鳥は好きです。

理由は「嘘をつかない、隠し事をしない」から。

「喜怒哀楽」、正直に態度で示します。(笑)

わかり易いんですよね。























































































































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東京の女

2023-03-24 08:21:11 | ザ・ピーナッツ
東京の女 (ひと)





おばかさんなの私
あの日別れた人
今夜も逢えそな気がして
ひとり待つ待つ 銀座よ

悪い人でもいいの
つらくされてもいい
愛してもう一度 私を
霧に泣く泣く 赤坂

夢で終った恋を
今も探がしてるの
あなたがいないまま灯りが
消えてゆくゆく 青山

恋を失くした日から
影もうすいみたい
ひとりで踊ってもはかない
夢が散る散る 新宿

どこに行ったらいいの
夜が更けゆく街
私のため息が流れて
霧になるなる 東京






この曲の特徴として先ず思い浮かぶのは、非常に短い曲であるということです。

たった12小節しかありません。

珍しいと称していいと思います。

これだけ短いと、俳句や短歌の世界みたいなものですから、詩も曲も白眉の出来でなければ名曲となりえませんよね。

そこが辛いところです。(笑)

作詞:山上路夫 作曲:沢田研二・・・これだけで編曲:宮川 泰がなかったなら、いかにザ・ピーナッツの歌唱でも、この歌が聞き惚れられる要素があるでしょうか・・・。

実に簡単なメロディーですし、音域も狭い、ハーモニーの聞かせ処もないし、起伏がないので感情の乗せようもない、テレビでもステージでも一向に映えない歌です。

メインディッシュになりえないような前菜や洒落たデザートのイメージ?。(笑)

しかし、このお洒落感覚を精一杯活かしたのが宮川 泰の編曲での工夫ではないでしょうか。

印象的なギターのメロディーでイントロが始まります。

これは普通に4小節流れます。

次いでトランペットで続きが奏でられますが、5小節という不思議な半端さに注目。

普通は4の倍数にするのではと思うのですが、この「5」が全体に異様な感覚を与え、楽曲が不安というか虚ろというか奇妙な印象を残したのではないかと感じます。

1コーラス目と2コーラス目は続けて歌われますが、2回目は「パパヤパー」という多重録音でのスキャットが入ります。

なかなか効果的で、あれっという意外性をここに与え単調な繰り返しを避けています。

2コーラス目と3コーラス目の間はイントロのショートバージョンが使われます。

とにかく単調に流れるのを嫌い、楽曲に変化をつけようという意図が感じられますよね。

3番と4番の歌詞は、1。2番と同じパターンで歌われます。

ここでマンネリ気味のように感じられることを察知したかのように曲の先頭に戻り、今度はフルバージョンのイントロが流れますが、そこでいきなり「パパヤパー」です。

総集編のように聞かせたら、エンディングでの今迄にないメロディー、そして、新たなスキャットで大きく変化をつけて曲を終らせています。

う~ん、たった12小節しかない曲で、こんなに難しく説明を要したのは初めて。(笑)


































































































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祇園小唄

2023-03-21 06:00:34 | ザ・ピーナッツ
祇園小唄(ザ・ピーナツ)




.
月はおぼろに東山
霞む夜毎のかがり火に
夢もいざよう紅桜
しのぶ思いを振袖に
祇園恋しや だらりの帯よ

夏は河原の夕涼み
白い襟あしぼんぼりに
かくす涙の口紅も
燃えて身をやく大文字
祇園恋しや だらりの帯よ

鴨の河原の水やせて
咽(むせ)ぶ瀬音に鐘の声
枯れた柳に秋風が
泣くよ今宵も夜もすがら
祇園恋しや だらりの帯よ

.雪はしとしとまる窓に
つもる逢うせの差向(さしむか)い
灯影(ほかげ)つめたく小夜(さよ)ふけて
もやい枕に川千鳥
祇園恋しや だらりの帯よ




小学校のときだったのか、中学校のときだったのか、忘れてしまいましたが、確か、社会科の授業だったと思うのですが、「日本三大祭」ということを習ったことがあるような気がするのですが、ひと昔か、ふた昔か、ともかく、かなり昔のことなので、あまり記憶が定かではありません。

もっとも、マスター(ふうちゃん)の小学校時代か、中学校時代のことといえば、もう、かれこれ、20年以上も、前のことになりますからね。

えっ、うっそ~、20年っ、ですって?

ちょっと待って、マスターって、そんなに若くはなかったはずよ、って、そんな眉間にしわを寄せまくって、疑惑のまなざしで、マスターをにらみつけて、どうするんですか。(笑)

マスターをにらんでも、あなたの年齢は減りません。(笑)

体重計をにらんでも、体重が減らないのと同じ原理ですね。(笑)

まあ、憎まれ口は置くとして、だ・か・ら~、マスターの小中学校時代が20年以上前と言うのは、20年以上には、30年以上も、40年以上も含みますから、20年以上であることには間違いないでしょ。(笑)

「○○以上」というのは、○○を含んで、その上のことだってこと、小学校のとき、習わなかったでしょうか?。

そして、「○○以下」は○○を含んで、その下のことで、もし、○○を含まないときは、「○○未満」というのも、きっと習ったことでしょう。

応用問題としては、「友達以上、恋人未満」というのもありました。(笑)

これは、小中学生には、まだ難問かも知れませんね。

+(たす)に足せない、-(ひく)に引けない、怪しい関係ですからね。(笑)

高校生以上になると、この関係式は多少、分かるでしょうか。

ともかく、恋の×(かけ)引き、÷(わり)切れないとも言いますから。(笑)

いゃあ、我ながら、うっまいすっね!!(笑)

ともあれ、人生のさまざまなできごとについては、算数の四則演算のように、簡単に計算できて解答が導き出せるものは少ないのです。

一定の法則、方程式、定理や公式が当てはまらないものも多く、ときには、理性や常識、想像の域を超えるものがあります。

ちなみに、「○○を超える」というのは、○○を含まないで、その上のことをいうのですが、場所であったり時間であったりする場合は、一般的に「越える」という漢字を当て、単に数量や基準などの場合は、「超える」とするようですが、まとめて「超越する」という言葉もあります。(笑)

また、重さや長さの数値の場合は、「超えた」とするのが正しいのでしょうが、メタボリックシンドロームが取りざたされる昨今、体重や腹囲については、基準を「肥えた」と表記するように、厚生労働省と文部科学省は協議してみたらどうでしょう。(笑)

ともかく、ここで閑話休題して、「日本三大祭」の話題に戻ります。

もはや、後の祭りとなってるでしょうかね。(笑)

さて、「日本三大祭」とは、諸説はありますが、一般的には、東京の神田明神の「神田祭」、京都の八坂神社の「祇園祭」、そして大阪の大阪天満宮の「天神祭」とされているようです。

また、マスターの「第二のふるさと」大阪市内では、「愛染祭」、「天神祭」、「住吉祭」のことを大阪三大夏祭と称しています。

「愛染祭」は、大阪市天王寺区にある愛染堂勝鬘院(あいぜんどうしょうまんいん)の夏祭りで、6月30日から7月2日にかけて行われます。

愛染堂は、その近くにある四天王寺の施薬院別院として聖徳太子の創建とされ、その後に豊臣秀吉が再建したとされる仏教寺院ですので、寺院が祭礼である夏祭りを行うのは全国的にも珍しいそうです。

もっとも、正式には、夏祭りではなくて、勝鬘愛染会(しょうまんあいぜんえ)と言って、ご本尊の愛染明王の開帳の仏事です。

♪花も~嵐も~踏み越えて~という歌をご存知ですか。

これは1938年(昭和13年)に公開された「愛染かつら」という映画の主題歌で、霧島昇さんが歌った「旅の夜風」の一節ですが、これも諸説があって定かではないのですが、「愛染かつら」のモデルとされる、縁結びの霊木とされる愛染かつらがここにあるとされています。

ついでにいえば、♪橋の名は愛染橋~ほほえんで渡れば恋がかなう~という歌をご存知でしょうか。

これは1979年(昭和54年)に、山口百恵さんが、歌った「愛染橋」の一節なんですが、ちなみに愛染橋という橋については、愛染堂の南側の愛染坂を西に下ったところの東横堀川に実在した橋とされています。

次に、「天神祭」は、大阪市北区にある大阪天満宮の夏祭りで、一般的には7月25日の本宮の「船渡御(ふなとぎょ)」が知られています。

近畿地方の平年の梅雨明けが7月19日頃であり、京都祇園祭の宵山が14日~16日、山鉾巡行が7月17日と、梅雨の終わりの頃の雷を伴うような雨模様のさなかが多いのに比して、天神祭は、梅雨明けのもっとも暑いさなかに行われます。

「住吉祭」は大阪市住吉区の住吉大社の夏祭りで、毎年7月30日~8月1日に行われ、愛染祭、天神祭と続いた大阪の夏祭りの最後を飾るので「しめ(締め)の祭り」と言われることもあります。

ちなみに、祭礼の神事が夏祭りと定義するなら、仏事である愛染祭が外れるので、愛染堂勝鬘院から北に800メートルほどの同じく大阪市天王寺区にある難波大社(なにわのおおやしろ)の生國魂(いくたま)神社で、7月11日~12日に行われる「いくたま夏祭り」を大阪三大夏祭りに入れることもあるようです。

なお、インターネットで調べていると、昔から関西では、「愛染祭」に始まって、「天神祭」と続き、「住吉祭」で締めくくることから、これを「あい(愛)すみ(住)ません」、または「あい(愛)すみ(住)ません(天)」として、語呂合わせして覚えるとか、「相済みません」の語源であるとかの説が紹介されているのですが、マスターには、あまりこの語呂合わせ説とか語源説は聞いた記憶もなく納得できません。

大阪に住んでいれば、夏祭りが「愛染祭」に始まり、「住吉祭」で締めくくるのは、語呂合わせして覚えるまでもないことで、また、相済みませんの語源は、これも諸説がありますが、済みませんのかしこまった言い方であり、また相済は、商売上、納品と決済が完了したときなど、互いの債権債務が相済んだということ、たとえば、納品があったのに代金が未払になるときは、相済みませんとなったからともされていますが、いずれにしろ、愛染祭の「愛」と住吉祭の「住」とは関係がなさそうです。

しかしながら、やはり、おまつりといえば、新聞報道やテレビ中継されるような一大イベントであるこんな大きなおまつりよりも、子どもがひとりで行ける近隣の氏神さんの神社の夏祭りの方が、身近なものでした。

マスターの実家の方の氏神さんの夏祭りは、夏休みの初めの頃にあって、小学校の頃には同級生たちが夏祭りに申し合わせたように集まって、幼い妹や弟がいる連中は、子守の駄賃込みの小遣いをもらって連れてきていました。

しかし、いつしか同級生同士の話や遊びに夢中になってしまって、気がつけば、いつも誰かの妹や弟の姿が見当たらなくなっていて、大騒ぎとなり、人ごみの中をみんなで必死の迷子探しになります。

もっとも、案外、ひとりでさきに家に帰っていたり、同級生のお節介な女子が発見して家まで送っていたり、世話好きの金魚すくいのおばちゃんのひざの上で寝ているのを発見したりして、一段落となります。

少子化が進んだ現在、子どもの数も少なく、人付き合いもますます希薄になっていては、とうてい考えられない光景でしょうね。

祭りでは、やはりなんといっても、屋台の出店です。

たこ焼き、イカ焼き、りんご飴、焼きそば、焼き鳥、焼きとうもろこし、アイスクリンにカキ氷、金魚すくいにヨーヨーつり、射的、パチンコ、スマートボール、くじ引きなどなど、お小遣いはあっという間に減って行きます。

おまつりの屋台、出店は、いわゆる映画のフーテンの寅さんのような的屋(テキヤ)と呼ばれる露天商が仕切っているようで、彼らは、全国の縁日やおまつりを回っていくそうですので、地域の独自の商品の屋台や出店は案外少なくて、全国共通のものが多いらしいのです。

それでも、綿菓子という言い方は、関西や九州地方の言い方で、関東の方では、綿あめという言い方が一般的ということです。

そういえば、埼玉県春日部市在住の野原しんのすけくん、いわゆる、クレヨンしんちゃんは、飼い犬シロが体を丸める得技を、わたあめになったぞぉ、なんて言ってますよね。(笑)

また、イカ焼きというのは、大阪では、イカの身の小片を小麦粉と玉子の生地で鉄板で押しつけて焼いて、お好み焼きのようにソースで食べるものを指しており、イカの姿焼き、焼きイカのことではありません。

大阪人としては、たこ焼きが、タコの姿焼きではないので、イカ焼きも当然、この粉もんをイメージするのが自然と思うのですが、ともかく、これだと、原価が安い分、子どもの小遣いで十分買えます。

また、大阪でもかなり年配の人以外には、通じなくなった言葉ですが、とうもろこし(玉蜀黍)のことを、なんば(おそらくは南蛮のなまり)と言っていたことから、焼きとうもろこしは、焼きなんばと言いました。

いずれにしろ、食べ物、飲み物などで、小腹を充たしたあとは、やがて、残った小遣いで、みんなで花火を買います。

そして、近くの公園に再集合して、小さな花火大会。

最後は、いつも、線香花火。

消えない花火がないことを、うすうす感じ始めた少年時代。

それでもやはり、夢花火。





























































































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二人の高原 ザ・ピーナッツ

2023-03-18 10:08:26 | ザ・ピーナッツ
二人の高原 ザ・ピーナッツ 1962




行こう 雲流れる 山の小径を
走ろう ペダル踏んで そよ風の街へ
二人で さがしに行こう 青い鳥を
いつか いつか ほゝを染めて
愛の言葉 囁こう 山の小径
・・・




この曲は、ザ・ピーナッツ主演映画「私と私」(昭37-8公開)の挿入歌として使われました。

生き別れだった双子姉妹が出会って「ザ・ピーナッツ」として人気歌手になる、というストーリーです。

不幸な生い立ちを背負った双子歌手、という設定ですがもちろんフィクション。
 
「二人の高原」は、二人でというよりは、みんなで声高らかに合唱すべき歌かも。

恋愛は独占的・排他的に閉じる傾向があって「みんな」(たとえば友情)と矛盾するかもですが、この詞はむしろ、高原の広やかな風景の中に開かれていきます。

「行こう」「走ろう」の呼びかけから始まって、山や森や湖や牧場へ。

ことにも「昏れゆく大地の果てに燃える夕焼よ」など、恋愛歌とは思えないほど、実に壮大。
 




































































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悲しきタンゴ ザ・ピーナッツ

2023-02-20 23:13:47 | ザ・ピーナッツ
悲しきタンゴ ザ・ピーナッツ 




あなたにも私も 窓辺のリラも
今では枯れはて 風にふるえる
心に流れる 悲しい唄は
あなたと踊った ラストタンゴ

泣きながら 泣きながら
ひとりゆれて踊る タンゴ

部屋のかたすみの 小さな椅子も
あなたの帰りを 待っているの

抱きしめて 抱きしめて
私ひとり踊る タンゴ

来る日も来る日も 悲しいだけで
心に花咲く 春は遠い





「謝罪」と「賠償」という言葉があります。

もちろん、このふたつの言葉は、類語でも対語でもなく、まして四字熟語でもなく、おのおのに独立した言葉であって、また違った概念を表す言葉です。

しかし、近年は、「謝罪と賠償」という組み合わせのフレーズで聞くことが多くなりました。

そして、このフレーズについては、政治的、または外交的な問題に絡んでよく使われることが多いのは、多くの方がご承知のとおりかと思います。

しかし、現在のマスターの知識や見識でこれを語るには、あまりに難しく、ここは基本に立ち返って、もっと身近な話題や考え方を例にあげて、語ってみたいと思います。

まず、謝罪いうのは、自己の非を認めて、罪や過ちを詫びて、相手の許しを請うことです。

そして、もちろん問題なのは、まず、この非を認めて、ということにあります。

つまりは、非を認めるということが、自己に責任があると認めることとされるからです。

そして、謝罪は、相手の許しを請う、ということですから、許しを請う相手から、実際に、許しを得るに足ることをしなければ、謝罪にならない、ということになってきます。

お詫びしました、謝りました、という言葉や態度だけでは済まない、とされる所以です。

次に賠償とは、与えた損害を償うということです。

そして、損害を償うということは、損害を与える以前の状態に戻すことを意味します。

すなわち、損害を与える以前の状態、損害が無かった元の状態に戻す、回復させる、いわゆる原状回復という手法が、本来の賠償の基本となります。

もちろん、損害には、金銭では贖えないものがたくさんあります。

生命を奪われたり、身体に障害を加えられたり、健康を損なわれたり、あるいは名誉や尊厳などを傷つけられたり、これらの損害は、いちど傷つけられ、失われたならば、以前の状態に回復することは、不可能または困難に近いものがあります。

そういうことから、これらの損害を、ともかく金銭に換算して、賠償の程度を決めざるを得ませんから、いわゆる金銭賠償が法的な賠償の基本とされるところです。

ところで、いわゆる法的な紛争解決を基本とする訴訟社会においては、謝罪をすれば賠償する責任を認めたことになるとして、容易に謝罪をしてはならないとされています。

そして、このことが、安易に謝ってはいけないという、考え方につながっています。

もちろん、この考え方は、相手の勢いに押されて、無責任に、あとさきを考えずに安易に謝ったりするべきではないという意味では正当であるのですが、これをすべての事案事象に対する金科玉条にしてしまうと、さらに事態をこじらせてしまうことになります。

つまりは、謝罪せよとする相手の主張をよく聞いて、相手が何に不満を持って、何を求めているのかを把握することがなによりも大切なのに、相手の勢いに対抗するために、聞く耳を持たずに釈明だけをして、反論をするばかりで、頑なに謝罪することを拒んだりして、より関係を悪化させることがあります。

身近な例として、商品やサービスに対する苦情を考えてみましょう。

現代社会では、生活を営む上で、どうしても、日常的に、他者の作った商品を購買したり、他者からのサービスを受けたりすることが多くなるのですが、その商品に欠陥があったり、粗雑なサービスがあったりすると、それに対して苦情やクレームをつけることになります。

この場合、購入した店やメーカー、あるいはサービス事業者に、苦情やクレームを申し立てることになりますが、最近は、お問い合わせ窓口、お客様窓口、コールセンターなどを、外部委託化して、専門的に受付させる官公庁や企業なども増えてきています。

これについては、責任の所在を曖昧にし、責任逃れにするだけという批判もありますが、多くの顧客や住民といった相手方からの苦情やクレームについては、業務多忙な現場にいる店員や社員、あるいは職員などが個々に対応するよりも、迅速に対応することができて、また第三者的な立場から、より丁寧な対応ができるというメリットはあります。

もちろん、このような場合でも、商品やサービスにおける明白な欠陥や瑕疵によって、被害、損害が発生したことが争う余地がない場合にはともかくとして、商品の欠陥であるのか、もともとの商品の仕様であるのか、あるいは使い方や、使用方法の誤りによるものではないのか、あるいは、期待され提供されるべきサービスの内容や質、程度がどれくらいなのか、基準が曖昧な場合には難しい問題になります。

ともかく、憤慨し、激昂して、苦情、クレームを申し立て、性急に、謝罪と賠償を求める相手側に対して、それを執拗かつ理不尽な苦情、クレームとして受けとる側では、双方が感情的になりがちであることは、経験的にも理解するところです。

しかし、ここは受け取る側としては、落ち着いて対応する必要があります。

そして、商品を製造したり、販売したり、サービスを提供したりした側としては、相手側が有する商品やサービスへの不満や不快感に対して、その不満や不快感を持たせたことについては、申し訳ありません、ご迷惑をおかけしましたと、素直にお詫びして謝罪するのは、何も賠償責任に直結することではないと思います。

この場合の謝罪は、あくまで商品やサービスに対して、不満や不快感を持たせたことについて、そのこと自体は主観的であれ相手が主張している以上は争えない事実であり、たとえ、不満や不快感が、相手の一方的な思い込みや妄想、あるいは場合によっては、不当な、過大な要求に起因するものであっても、その不満や不快感に対して、お詫びする、謝罪するということは、決して、人として嫌うべきものではないはずです。

決して非そのものを認めるわけでなく、相手が非があると主張すること、することに至ったことに対しては、まずはお詫びして謝罪したあとで、明確にして客観的に、非はないと主張していけば良いのです。

もちろん、謝罪したのは非を認めた、責任を認めたからだろう、だから早くきちんと賠償をしろ、と主張されるおそれも十分にありますから、その点は誤解されないように、何に対しての謝罪か、要点をきちんと押さえておく必要があります。

具体的に言えば、苦情やクレームについて、わざわざ来訪していただいて、あるいはお手紙をいただいて、お忙しい中お電話をいただいて、お手数をおかけしたことについては、申し訳ありません、ご迷惑をおかけしました、と、お詫びします。

あるいは苦情やクレームなどの初期対応した者の説明や対応について、無礼な発言を受けた、横柄な態度を感じた、と主張されるような場合もありますが、無礼な発言と受け取られるようなことを申し上げたことについては、また横柄であるというような印象を与えたことについては、申し訳ありません、失礼をいたしました、と謝罪することもあります。

あくまで、なにに対してのお詫びかを明確に示しながら、真摯にお詫びすることは、紛争を早期に集結させることにもつながり、またのちの紛争を防ぐ意味でも、謝罪は大切なことだと思いますし、またその謝罪というものは、賠償の計算とは無関係であるべきと思います。

そして謝罪は、相手の状況を理解したうえで、相手の受け止め方をおもんぱかってすることこそが重要であり、そしてそれは、相手と同じ気持ちになるという意味の「同情」を踏まえたもので、その気持ちをなぐさめる、慰謝するためにしているのだという目的を意識してしなければ、謝罪は単なる上っ面の言葉だけになってしまいます。

もちろん、その場しのぎの、相手の顔色を伺うだけの謝罪であってはならないことは言うまでもなく、また相手からのともかく誠意を見せろという不当な要求に応じるものであってはならないことは言うまでもなく、まして何らかの他の意図や目的を持って謝罪をするというのはもっての外のことです。

その上で、次に賠償を考えると、賠償とは、自己の側に非があって、故意も含めてその過失ある行為によって、相手に損害を与えたことに対して、責任を認めて、真剣かつ真摯な謝罪に加えて、その損害への償いとして、賠償をするということになるのです。

つまりは賠償とは、心からの謝罪を伴った、償いのひとつの具体化であるはずです。

もちろん、過失ある行為と損害との間に、相当の因果関係が必要であり、また損害に対しての賠償の範囲や程度も相当である必要があります。

相当の因果関係とは、原因と結果に相当の関係があることが必要ということであり、無限に連鎖していく因果関係までを含めないということです。

いわゆる「風が吹けば桶屋が儲かる」というような、あることが原因となって、その影響がめぐりめぐって意外なところにで及ぶような結果にまでは、含めないということです。

だから、仏教上の思想哲学である因果応報と混同したような、永遠に永続する千年不変の因果関係というものは、存在しえないものであり、また因果応報を借意とするならば、それは業と輪廻により、責任はやがて転嫁されて跳ね返っていくものと言わざるを得ません。

また賠償の範囲や程度も、その損害を補うに足りるものであって、過少であってはならないものの、過大である必要はもちろんなく、また賠償金の多寡だけを持って、償いの意思や気持ちの強弱や大小が測られるものではありません。

ただし、哀しいことに、人は謝罪や賠償についても、自分の価値観から判断します。

価値観とは、何を持って、価値あるものとするかです。

しかし、その価値観とは、その人が生まれた時代や、生まれた場所、育った環境や受けた教育、そして生きてきた境遇によっても、人それぞれの持つ個性によっても、大きく異なるものであり、また周囲の人たちの価値観や意向にも大きく影響を受けるものです。

自分が傷ついたことを許せないのに、人を傷つけることは意に止めない人がいます。

人の過ちは徹底的に責めるのに、自己の過ちは認めようとしない人もいます。

それが哀しいかな、人の世の人の所業であり、なりわいです。

もちろん、罪や過ちについても、軽重があって、ときに、人のいのちに関わるようなもの、人の一生の人生に関わるようなものなど、とりかえしのつかない、かけがえのないものに損害を与えるような重大な罪や過ちがあります。

頭を床につけて土下座しても許されない罪というものがあるのは事実です。

どれぐらい償えば償えきれるのか、それはもちろん計算できるものではなく、またどうしても償いきれるはずもない罪というのもあります。

そして踏んだ足は痛まないけど、踏まれた足はその痛みを忘れられない。

それも事実でしょう。

そして、受けた側からはどんな軽微な罪であっても、主観的には重罪というのも事実です。

しかし、だからといって、なんどもなんども土下座の謝罪を強要し、あるいは、多額の賠償金の償いをもっても許さないことが、果たして、ほんとうに、人としての振る舞いとして、人としての生き方としてどうなのかと、考えてみるのも必要ではないでしょうか。

「謝罪と賠償」という言葉は、非常に重い言葉です。

相手の罪を問い、責任を負わせる、非常に重い重い言葉なのです。

軽々しく、安易にかつ頻繁に、使うべき言葉ではないのです。

しかし一方では、関わってはならない、無視して済ませる、言葉ではないのです。

そのままに、放置して、鎮まるべき言葉でもないのです。

人は一生という、わずかな限られた時間の中で、そして生きていく狭い限られた空間の中で、偶然に出逢えた奇跡の中で、人と接して、そして、人を理解して、人と交流し、やがてそれぞれの生死のはざまに、別れていかなければならない宿命を持っています。

ならば、執拗に反省を求めて、「謝罪と賠償」を要求し続けて、憤怒の恨みを持って一生を終わらせるより、償いを受け入れて、許すということを考えなければなりません。

人の言に左右されるのではなく、自分の意思として持たなければなりません。

許すということは辛いことでしょう。

これまでの自己を否定しなければならないこともあります。

だからといってこれからも続く人生です。

泣いて暮らすも一生、笑って暮らすも一生です。

償いとは、互いの一生を大切にするためのものなのですから。
























































































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ザ・ピーナッツ 霧のカレリア

2020-09-19 12:23:21 | ザ・ピーナッツ
ザ・ピーナッツ 霧のカレリア




タピオカは「もう映えない」 聖地・原宿で閉店ラッシュ

台湾発祥の「タピオカミルクティー」を扱う人気店がひしめき、“聖地”とも呼ばれる東京・原宿で、閉店ラッシュが起きている。「タピる?」という流行語まで生まれた大ブームは、早くも下火になったのか。(朝日新聞)

流行なんて、こんなものかも(笑)

何時まで経っても流行し続けるのが「投資詐欺」。(笑)























































































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さよならは突然に

2019-07-10 12:02:57 | ザ・ピーナッツ
さよならは突然に ザ・ピーナッツ 1972


http://blog-imgs-116.fc2.com/t/o/s/toshiichi/201710240450366c5.mp3


○○しかない・・・

最近、人気のスポーツ選手やタレントが発する言葉です。

政府は「輸出規制しかない」として発表したのが半導体の製造に必要な3品目。

この時期ですから想像したくなるのがハンセン病家族訴訟控訴せずの異例判断同様、参院選対策?

それはともかく、世界はどう見るでしょうね。

日本も安全保障や高関税を振りかざして譲歩を迫る、トランプ流の国になったのではと思われそうで心配。

近隣の国を皆、敵対国にしてしまうのでしょうか。

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恋のロンド ザ・ピーナッツ 

2017-10-24 03:51:44 | ザ・ピーナッツ
恋のロンド ザ・ピーナッツ 




ララララ…
恋はふしぎな出来事
男と女のいのち
ある日 私のもとへ
すばらしい恋の誘い
あの人の燃える
胸のぬくもりが
今も 今も 今も残るの
涙でつづる 想い出
忘れて踊りに行くわ


ある日わたしのもとへ
悲しい別れの手紙
やわらかい胸に
甘いささやきが
なぜ なぜ
しのびこむの
恋はふしぎな出来事
たちどまる私の夢
ララララ…








































































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心の窓にともし灯を ザ・ピーナッツ

2017-10-04 17:00:00 | ザ・ピーナッツ
心の窓にともし灯を - ザ・ピーナッツ (The Peanuts)


http://blog-imgs-64.fc2.com/f/o/o/footyan0214/2014080904092174e.mp3

いじわるこがらし 吹きつける
古いセーター ボロシューズ
泣けてくるよな夜だけど
ほっぺをよせて ともしましょう
心の窓に灯を
ほら えくぼが浮かんでくるでしょう

真珠に輝やく 飾り窓
うつるまずしい シンデレラ
ポッケにゃ 何にもないけれど
かじかむ指で ともしましょう
心の窓に灯を
ほら 口笛ふきたくなるでしょう

ダンロを囲んだ 歌声を
遠くきいてる 細い路地
ちっちゃな たき火は消えたけど
お空をみつめ ともしましょう
心の窓に灯を
ほら 希望がほのぼのわくでしょう



この歌のタイトルですが、・・・書き方が色々ありますよね。

初版ジャケットの「心の窓にともし灯を」を初め、「心の窓に灯火を」「心の窓に灯を」「心の窓にともしびを」など・・・・

何が正しいのでしょう?

気になると調べてみたくなります。

類語辞典によりますと、

[使い方]
〔明かり〕▽窓に明かりがともる▽室内の明かりが少し暗い
〔灯〕▽灯台の灯が海原を照らす
〔灯火〕▽灯火親しむべし(=灯火の下で読書をするのに適している)▽灯火管制
〔ライト〕▽車のライトをつける▽被写体にライトを当てる▽天守閣をライトアップする▽ヘッドライト
〔ともし火〕▽ともし火をともす
[使い分け]
【1】「明かり」は、「雪明かり」「星明かり」のようなぼんやりした光についても用いる。
【2】「灯」は、はっきりした光について用いることが多い。
【3】「灯火」は、「ともし火」の意の漢語。
【4】「ライト」は、電気照明の光、また、その器具を表わすこともある。他の語と結合して用いることも多い。

とあります。

もっとも、これは日本語でなくて「詩」なので論じても仕方がないわけですが、ちなみにJASRACのデータベースに登録されているのは、正題が「心の窓に灯を」で、副題が「心の窓にともし灯を」です。

まぁ、ふうちゃんとしてはイメージ的に「心の窓にともし灯を」かな。(笑)

レコードの発売は、1960年4月、ただ、ザ・ピーナッツ「悲しき16才」のB面としてです。

心に滲みる曲というのは、もちろん人によって違いますし、だれもが数曲あるものですが、ふうちゃんにとってもこの曲は、まさにそんな1曲です・・・・。



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