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グラスをもう1つ

 ランタンに灯が点った。店名の「海神」がほのかに夜の底に浮かぶ。
 店主の鏑木は、棚のウィスキーを一本一本取り出して拭いている。小林のボトルを手に取った。今夜来るはずだ。
 キープされたボトルは、他の店では、通常、数ヶ月来店がないと処分される。鏑木の店「海神」では、その期限を一年としている。なぜ鏑木がボトルキープの期限を一年にしたのか。こういう事があった。
 五年前だった。
 小林が来店しなくなって一年たった。六年前まで、彼は毎晩のように来て、ロックでボトル半分ぐらい開ける。それまでどこかで飲んできていることが多かった。へべれけに酔って来店することもたびたび。このころの小林は酒乱だった。店の売り上げには貢献しているが、迷惑な客で警察ざたも何度かあった。
 それが六年前、パタッと来なくなった。それから一年。日も同じ五年前の十一月九日。一年ぶりにやって来た。しらふだった。しらふの小林はおとなしい紳士で、その時は水割りを二杯飲んで店を出た。ジョニ赤をキープしていった。そして鏑木に頼んだ。一年後の今日、必ず来るからボトルキープしてくれ。
 それから彼は毎年十一月九日にやって来て、おとなしく水割りを二杯だけ飲んでいく。飲み方が変わっていた。浴びるように飲んでいたのが、いつくしむようにウィスキーを飲むようになった。
 ドアが開いた。小林が入ってきた。鏑木はジョニ赤をだす。水割りを作る。
 小林の頭も白い髪が目立つようになった。「一年に一度の客ですまんな」
「いえ」
「あれから六年か」
「そうですね」
「中学生も大人になるわけだ」
 ドアが開いた。青年が入ってきた。二十歳ぐらい。小林の隣に座る。よく似ている。
「なんになさいます」
「フォアローゼス、ロック」
 青年はフォアローゼスのグラスを持った。小林もジョニ赤のグラスを持った。
「誕生日おめでとう」小林がいった。
「息子さんですか」
「そうだ。一年に一度、こいつの誕生日しか俺は会えない」
「去年まで喫茶店で会ってたね」
 六年前小林は酒が原因で離婚した。親権は妻が持った。それ以来彼は断酒した。
 妻は息子の誕生日、十一月九日だけ父と子が会うことを許してくれた。断酒した小林も息子と会った後、「海神」で水割りを二杯だけ飲んだ。一年に一度の飲酒だ。二杯の水割りが息子との、一年の別れのさみしさをまぎらわせてくれる。
 息子も今日で二十歳になった。成人した息子と酒を飲むのが小林の夢だった。夢が叶った。
「マスター、グラスをもう一つ用意して」
 息子がいった。
「だれか来るのか」
「うん。ぼくが連れてきた」 
 ドアが開いた。中年の婦人が入ってきた。
「久しぶり。あなた」
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