Chimney角屋のClimbing log

基本的にはクライミングの日記ですが、ハイキング、マウンテンバイク、スキー、スノーボードなども登場するかも・・・。

我が登山史1(山との出合い「甲斐駒ケ岳」)

2014-02-10 01:07:07 | 山とクライミングの話

何でもないただの登山愛好家の一人である私が、自分と登山の「自分史」を綴ったところで、これに関心を持つ人はいないと思うが、今までの山への取り組みなどを振り返ることにより、これからの自分の登山や、自分にとって山登りって何なのかを考えてみる機会にしたい。

私にとって「山との出合い」ははっきりしない。何せ生れが山の中(長野県八ヶ岳の北のはずれ)だから。子供のころから、母親と裏山で山菜を摘むことは日常生活の一部だったし、誰も知らないような沢に登り、岩魚を手づかみするのは、私と兄の遊びの一つだった。小学校や中学校では登山の行事が必ずあり、父親が林業関係の仕事をしていたので、営林署の山小屋に泊まりにつれて行ってもらったこともある。高校時代にはスキー部に所属し、夏は乗鞍岳合宿などで山頂に登ることもあった。

だからといって、そのころから山登りが好きだったわけではない。山に登ることはあっても、山そのものや山に登る行為が好きだったわけではなかったのだ。山に親しんではいたけれど、山が好きだったわけではなかったと思う。私がいつ頃山というものに興味を抱いたのかははっきりしている。それは大学に入学して東京での生活が始まって間もなくだった。大学受験を終えて大学生にはなったものの、希望をしていた勉強が出来る大学に入れたわけではなかった。いろいろな事情で希望していた大学ではないところに入学してしまったのだ。(その大学が悪いとか、滑りどめだったというのではないけれど) そこでその時点では人生の目標もなく、ただ大学生として東京での生活が始まった。今考えると自堕落な生活が始まったのだった。

その年のゴールデンウィークに帰省していた私は、父の知人の車で帰京の途についていた。出来たばかりの中央高速から甲斐駒ケ岳を眺めていた。よく晴れた暖かい日だったが、甲斐駒ケ岳の山頂には雪煙が渦巻いていた。私は「山男」というものは、こういう吹雪の中を、重い荷物を担いで岩を登るのだと想像していた。私は、なんとなくだらしのない生活を送っている自分を変えたいと思っていた。だから「そうだ!山男だ!自分はこれをやるんだ。」と思った。しかしその思いを実現させたのは4年後。大学を卒業して、社会人1年目の夏だった。なぜならば、大学時代は高価な山道具も買うことが出来ず、しっかりした装備がなくて山に登ることは死にに行くようなものだと思っていたからだ。大学の友人から「ワンゲルに入らないか」と誘われたけど、大勢で登る山はただの娯楽に思えて、仲間に入る気持ちがわかなかった。

なぜか私は、山に登ることは岩を登ることだと思っていた。だって、岩を登らない山だったら、小さいころからやっていたから。「山男」は岩を登ったり、重い荷物を担いだり、吹雪の中を登ったりするものだと信じていたからである。だから、初めて読んだ雑誌は「クライミングジャーナル」と「岩と雪」だったし、初めて一人で甲斐駒ケ岳に向かった時には、ザックにはクライミングシューズが入っていた。しかも、登山の準備をしてみたら、荷物の重さに物足りなさを感じて、必要のない色々なものを詰め込んでいたのだった。

私は真夏の「黒戸尾根」を登り、7合目を目指した。5合目から岩場が現れ、ワクワクしてきたのを今でも覚えている。やっと「山男」の世界に足を踏み入れたと思ったのだ。しかし登ってみると、岩ではなく梯子や階段ばかりだった。でも「いや、まだこの先には・・・」と思いながら登り続けた。ところが7合目に到着するまで想像していたような「山男」の世界は現れなかった。7合目にテントを張り、一人で一夜を過ごした。さびしかったし、ちょっと怖かった。でも「たった一人で山の中にいる」という、何とも言い表せないような充実感を味わった。都会で仲間とワイワイ騒いでいる夜とは比べ物にならないくらいの充実した夜だった。翌朝は山頂からの日の出を拝し、快晴の登山を続けることが出来た。山の空気の清々しさを知った。もうブランド物の靴やバッグは必要なくなってしまった。(そのころはバブルの末期)

私の山に対する想像は、全く間違っていたけれど、「山って素晴らしい」という思いは、心の奥底に焼き付いてしまった。それをきっかけに、休みといえば山に出かける日々、仕事をしている時以外は山のことばかりを考える日々に突入していったのである。しかし、心のどこかに「いや、山登りって言うのはもっと厳しいもののはずだ。」という思いも持ちながら。

続く(かもしれない)