Chimney角屋のClimbing log

基本的にはクライミングの日記ですが、ハイキング、マウンテンバイク、スキー、スノーボードなども登場するかも・・・。

クリスマス

2011-12-26 00:43:50 | 礼拝と祈り

12月25日、日曜日です。

今朝はキリスト品川教会のクリスマス礼拝に出席しました。

喜びに満ちたクリスマス。教会でも礼拝でクリスマスを祝いました。クリスマスはイエス様の誕生日です。

 

私はこの11月で52歳になりました。家族も私の誕生日を祝ってプレゼントをくれました。

何を祝うのでしょうか?一つ歳をとったこと?

もうこの年になると、一つ歳をとることは、あまりありがたいことではありません。

では、私が息子の誕生日を祝うのは、「私の子どもとして生まれてきてくれて、私は本当にうれしい」と祝います。

妻にも「あなたが生まれてきて、私とで出合ったことが、本当にうれしい」と祝います。

神様がこのような恵みを与えてくれたことに感謝して、それぞれの誕生日を祝います。

クリスマスは父なる神様が、私たちの為にイエス様を私たちのもとに来させてくださったのです。

だから「イエス様、私たちのところに来てくださってありがとう。」

「神様、イエス様を私たちの所にお遣わし下さってありがとう。」

と感謝してクリスマスを祝います。

 

なぜ私たちのところにイエス様が来てくださったのか。そしてなぜそれが、そんなにうれしいことなのか。

本当に理解することは難しいかもしれません。

でも教会では、その喜びにあふれています。

毎週の礼拝を通して、私たちに与えられた神様の恵みに気が付いて行くからです。

私たちに与えられた恵みは、自分が元気で、何の不自由もなく過ごしているときには気がつかない。

でも自分の目の前が真っ暗になった時、その中にいくつもの光があったことに気がつくのです。

明るい太陽が地平線に沈んだとき、夜空の星が輝くように。

 

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愛・・・

2011-07-18 00:47:40 | 礼拝と祈り

「愛」・・・

「にあわねぇ〜」って言う声が聞こえてきそうですが、今日の礼拝のテーマは「愛するのは愛されているから」です。恋愛の話ではありません。「好き」とか「嫌い」というのではなく、「愛する」ということは、むしろ「好きになれない人を愛さなければいけないなあ」と思わされる説教でした。

神様は私たちを完全に愛していてくださる。つまり私たちを「信頼」してくださり、私たちに「希望」を持っていてくださる。神様は何度も私たちに裏切られても「忍耐」してくださる。つまり「愛する」とは、「信頼し、希望を持ち、忍耐すること」だというのだ。なるほど、誰かを好きになっちゃうのとは違う話だなあ。どちらかというと50歳を過ぎた夫婦の愛や、息子たちを愛するということを考えるとよ〜くわかる。妻や息子の言うことは、とりあえず「信頼」する。ちょっと期待に添わなくても「希望」を持つ。何度裏切られても「忍耐」する。これは愛しているからだ。ちょっと好きになった人に対して出来ることではない。「愛するのは愛されているから」というのは、私たちは神様に愛されているように神様を愛するということ。つまり「主なる神様の愛を信頼し、神様の愛に希望を持ち、忍耐して待つ」ということ。同様に、これは好きな人に対してよりも、むしろ「好きになれない人」に対してしなければならないことだ。

今日の夕焼けもきれいでした。だいぶ大気も安定してきて、雲がありません、夕焼けはグラデーションを描き、茜色から紫色に。我が家から見上げた空は「ホテル・カリフォルニア」みたい?写っている木はもみじだけど・・・。

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詩篇130

2011-03-24 00:58:42 | 礼拝と祈り

 

<詩篇 130>

深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。

主よ、この声を聞き取ってください。

嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。

 

主よ、あなたが罪のすべてを心にとめられるなら

主よ、誰が耐え得ましょう。

しかし、赦しはあなたのもとにあり

人はあなたを畏れ敬うのです。

 

私は主に望みをおき

わたしの魂は望みをおき

御言葉を待ち望みます。

わたしの魂は主を待ち望みます

見張りが朝を待つにもまして

見張りが朝を待つにもまして。

 

イスラエルよ、主を待ち望め。

慈しみは主のもとに

豊かな贖いも主のもとに。

主は、イスラエルを 

    全ての罪から救ってくださる。

 

<キリスト品川教会 吉村和雄牧師のメール>

この詩は嘆きの詩です。

これを詠っている詩人は、深い淵の底に落ち込んでしまっています。淵とは、沼や湖の深い所です。深淵という言い方があるように、単に深いというだけでなく、果てしない深さを意味します。決して浮かび上がれないような深さ、絶望せざるを得ないほどの深さです。そこへ落ち込んでしまったのです。

どうしてそんなになってし まったのか。三節に、罪のことが書いてありますから、自分の罪が原因であることは確かです。自分の罪のために、大切な友人を失ってしまったのでしょうか。あるいは、自分の罪のために、家庭が崩壊してしまったのでしょうか。あるいは、罪のために、周囲の人々の信頼を失い、誰からも相手にされなくなってしまったのでしょうか。悔やんでも悔やみきれない、自分の罪です。それが、取り返しのつかない結果を生んでしまった。今はまったくのひとりぼっちになってしまいました。

こういう状況になった時に、人はどのようなことを考えるものでしょうか。ふと死の誘惑にかられるかも知れません。絶望して死んでしまう。それもひとつの道です。しかし、ユダヤ人は決してそうは考えません。聖書に自殺の記録が全くないわけではありませんが(イスカリオテのユダなど)でもごくまれです。それはやはり神さまを信じているからです。この詩人も、調子のよい時には、神さまを忘れていたのかも知れません。でも、痛恨の罪を犯して、ひとりぼっちになって、神さまを思うのです。誰にも顧みられないこの穴ぐらの底も、神さまの目には見えている。そのことを思い起こすのです。それ以外に、望みはないからです。だからそこから、神さまに向かって叫ぶ。誰も聴いてくれない自分の声を、神さまは聴いてくださ ると信じるからです。主イエスが語られた、神殿から遠く離れて祈った徴税人の思いも、同じであったかも知れません(ルカ一八・一三)。


<祈り>

慈しみ深い天の父なる神様。私はあなたを畏れ敬います。私の隠されたところも、全てご存じだからです。しかし、私がどんなつらい思いをしている時でも、あなたはそれをわかっていてくださる。どんな小さな祈りでも聞いていてくださる。あなたが私たちのもとにお送りくださったイエス様は、そう教えてくださいました。だから、私がどんな暗闇の中にいても、イエス様は希望の光です。ですから私は希望を失わないでいられます。感謝します。イエス様の御名によって祈ります。アーメン

 

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メリークリスマス!

2010-12-25 02:15:08 | 礼拝と祈り

日付も変わり、今日はクリスマスですね。

「クリスマスおめでとう!」

我が家の二人の息子は、それぞれ彼女と一緒にクリスマスを祝うようです。でもクリスマスの主役、イエス様をきちんと真ん中にして祝ってほしいものです。

日本では皆がクリスマスのお祝いをします。クリスマスの意味を知らないで祝っている人は少ないと思いますが、いざ御祝いとなると、主役をそっちのけにしてしまっていることは多いのではないでしょうか。「クリスマスってなに?」と聞けば、たいていの人は「イエス様の誕生日」と答えるでしょう。その通りです。ですから誕生日のお祝いには、やっぱり主役が真ん中にいてもらわなければならないのです。誕生日というのは、誕生日を迎える本人がお祝いするものではなくて、皆が誕生日を迎える方を真ん中に招いてお祝いするものです。

私たちの教会では、19日の日曜日がクリスマス礼拝でした。皆で「イエス様、来てくださってありがとう」と声をそろえて言いました。そうです。誕生日というのは、周りのみんなが、誕生日を迎える人に「生まれてきてくれてありがとう」という気持ちで祝うものなのだと、あらためて感じたのです。妻の誕生日には「生まれてきてくれてありがとう」。息子たちにも「生まれてきてくれてありがとう」。友達にも「生まれてきてくれてありがとう」と。

イエス様は、私たちを罪から救うために十字架にかかって死ぬことを覚悟で来てくださった。私たちを許すために。特に自分なんか、人に許してもらっていなかったら、神様に許してもらっていなかったら生きてなんかいられないもの。ずいぶん人を傷つけたり、がっかりさせながら生きている。そういうことが罪なのだ。自分にそういう目に遭わされた人が「あいつは許さない」なんて言ったら、自分なんか生きてられない。許されて生きてるんだなあ。

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クリスマス

2008-12-25 02:15:19 | 礼拝と祈り

今日はクリスマスイヴ礼拝。
 礼拝の受付奉仕をしていたら、自分は礼拝に参加できなかった。残念!
でも、久しぶりに会う人がたくさんいてよかった。
 街もテレビでも、クリスマスでにぎやかだけど、クリスマスに本当の贈り物をくださった神様に感謝して過ごしたい。
 メリー・クリスマス!

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クリスマス

2008-11-30 22:08:18 | 礼拝と祈り

今日からアドベントに入りました。品川教会の礼拝堂の入り口も、クリスマスの飾りつけがされました。毎年これを見ると「ああ、こうやってクリスマスを祝うんだなあ」と、視覚的にも感じられるのです。
「エルサレムの宮殿で商売をするような」または「誕生パーティーの主人公をそっちのけで大騒ぎをするような」、そんなクリスマスにならないようにしたいものです。喜び、感謝をして過ごすときです。

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