これまでの人生の中で「奇跡が起きた」という体験をしたことがあるでしょうか。一瞬は「奇跡」と思っても、良く考えると「必然」と思いなおすこともあるでしょう。でも「絶望」が「希望」に変わった瞬間を味わった人は、きっと「奇跡が起こった」ということを感じるのではないでしょうか。
私の人生の中でも、こういう「奇跡」を感じたことがあります。
一つは「東日本大震災」の直後、「自分には何もできない」と思っていたところ、妻の一言で沢山の仲間が集まって「被災地にクライマーを送る会」が出来て、今なお被災地に通っている仲間が沢山いる。この会は私が作ったのではない。出来たのだ。
二つ目は、忘れ物を拾得してしまって、それをSNSで公開したところ、「忘れ物を拾得することは犯罪」と批難を受けた。なんとかして持ち主を探そうと、Facebookで「クライマー落し物 忘れ物ネットワーク」をつくった。その結果、すぐに持ち主が見つかって、今はネットワークの参加者が900人に迫る。このネットワークも、私が作ったのではなく、出来たのだ。
どちらも「絶望」とはいえないかもしれないけど、窮地から救われた思いはある。「何もできない自分」「他人から批難される自分」から解放され、「ありがとう」といってもらえる自分に転じてしまった。
「災い転じて福となす」という言葉があるが、なぜこういうことが起きるのだろうか。窮地に陥った時に発揮できる力なのかもしれない。それなら「隠された自分の力が発揮された」ということになるけれど、私は「自分にそれだけの力がある」というよりも、「自分は神様から見放されていない」という安堵をおぼえるのです。自分に力があるのではない。自分が守られているんだ、という安心感。自分の力なんていつ無くなるかわからない。でも自分は守られていると言う安心感は、少なくとも「自分の力」よりは長続きすると思う。
「自分にどれだけの力があるか」を知るより、「自分はどれだけ守られているか」を知るほうが穏やかに平和に生きていけると思う。