続・知青の丘

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We第15号/短詩グラマトロジー 第九回:交差呼応 斎藤秀雄

2023-03-28 21:50:10 | 俳句
短詩グラマトロジー 第九回:交差呼応
                              斎藤 秀雄

 この連載の第六回で、「濫喩」を、中村明による定義を借りて《感覚の交錯や論理的な矛盾を抱えた比喩などを提示して刺激する修辞技法》(『日本語の文体・レトリック辞典』、東京堂出版)にまで拡張しておいたのだが、いま思えばこれは拡張のし過ぎであった。《感覚の交錯》(つまり共感覚的な表現)についていえば、むしろ〈異例結合〉と呼ぶべきかもしれない。例えば川端康成『雪国』には、異例結合が頻出する。「甘い丸さ」「静かな嘘」など。
 さて、これを複数のフレーズにまたがって交差させたものが〈交差呼応〉である(とはいえ、のちにあげる例においてのように、必ずしも「異例」ではないものも含める。詩的効果が生じるかにのみ、焦点を合わせたい)。中村は《彗眼で聞き、地獄耳で見る》(同前)という例をあげている。
 桃を食べる
 日が昇る
ならあまりに常識的だが、
 桃が昇る
 日を食べる
とすれば、読者の気を引くなにがしかが生まれるだろう。我々詩人は、あまりに何気なくこれをやってしまっているから、読んでいるもののなかに、改めて発見することがむしろ難しいかもしれない。
 短詩の例をみよう。大岡信の『草府にて』(一九八四年)所収の「ライフ・ストーリー」と題された二行の詩。

一羽でも宇宙を満たす鳥の声
二羽でも宇宙に充満する鳥の静寂

 一行目と二行目では、《鳥》の数が異なる。数が多い方が《声》はよく響くだろうけれど、ここではそうした常識を交差させることで、《静寂》に籠る、ある種の「すごみ」が際立つ効果を発揮している。むろん、《鳥の声》や《鳥の静寂》を《宇宙》ぜんたいに行き渡らせること事態が「異例」ではある。「一羽でも宇宙を満たす鳥の静寂」という一文を考えれば、そのことは分かる。交差はここで、一行目と二行目とのあいだに響き渡る、《声》と《静寂》の巨大な共鳴を惹起しているといえるだろう。
 謎めいたタイトルにも注目しておきたい。作中において、我々は《宇宙》ぜんたいを見渡す視点に連れ去られ、ここでの《鳥》は「ライフ(生命)」というよりもむしろ、より神秘的な存在者の地位を与えられているように感じられる。日常言語でいう「現実」とは異なる種類の〈現実〉の、《鳥》であるように思われるのだ。ところが、こうした感触とは対極を示すタイトルであったことに気づく。そのとき、我々は一息に、卑近な「現実」へと引き戻される。ここで《宇宙》とは、「ライフ(生活、人生)」のことと同義と考えてもよいだろうし、「ライフ・ストーリー」とは、《宇宙》を(より正確にいえば「世界」を。すなわち自己および自己の環境を)くまなく観察することと考えても、読みすぎにはなるまい。世界は、《声》と《静寂》の生み出すリズム、意味、運動に満ちているのだ。
 短歌の例をみよう。

冷卓に冷食の鮭薔薇いろにわがくちびるの色消えやすし                       葛原 妙子
夜をください そうでなければ永遠に冷たい洗濯物をください                  服部 真里子

 一首目。歌集『朱靈』より(なお、「消」は原文では旧字体)。「異例」というほどの「結合」ではないものの、もしも「冷食の鮭の色は消えやすく、わがくちびるは薔薇いろである」という内容だったらやはりつまらない。ここでは交差によって、家族のなかでの自己の、「消えやすさ」が強調されている。派手なモティーフ(幻視)に着目されがちが葛原だが、家族をさめた視線で観察する作品も、歌集には頻出する。例えば掲歌に続いて、《夫怒り妻うなだるるにあらざるも寂しゆふべの硝子光れる》《首のべてものをたうぶる あなさむき首ににくしみを享けてたうぶる》といった歌がは収められており、葛原に(例えば山中智恵子などと比べて)親しみやすい作家像を与えている。
 二首目。歌集『遠くの敵や硝子を』より。「洗濯物をください そうでなければ永遠に冷たい夜をください」であったとしても、詩としてのタイプは異なるものの、それなりに詩的効果を発揮するだろう。さらにいえば「夜をください」という単独のフレーズのみみると、むしろ退屈である。だが、《永遠に冷たい洗濯物》というあり得ないものと等価に置かれることで、《夜》が事後的に神秘的な相貌を呈することになる。そして永遠の冷たさが、水気を帯びた物質性として到来する。交差呼応の8の字の円環のなかで、詩的効果が永遠に高まり続ける緻密な作品。
 俳句の例をみよう。

貧しい海蹴るアイロン 赤いランプの髪立つ妻 島津 亮
鏡を剥けば林檎の起こすことすべて      未補

 一句目。島津は句集『記録』の途中から(昭和三三年以降)、いくつのラインが交差しているのか一読して判読できないような、複雑な書き方をしているが(交差というより交錯である)、そのなかにあってこれは分かりやすい。「赤いランプのアイロン」と「貧しい海蹴る髪立つ妻」の交差(いまではスチームの適温を知らせるランプがついたアイロンも少数かもしれないが)。《アイロン》は《妻》の領域(家事の領域)に属し、交差しつつも近しさが漂っている。《妻》と《海》にきているというのに、日常生活の質感が、一句に籠っている。《貧しい》はそんな彼らの生活を、総合的に表した一語なのかもしれない。
 二句目。「林檎を剥く」と「鏡の起こす」の交差。《鏡を剥けば》という異例な表現を、「鏡に林檎を映しながら、林檎を剥けば」という景の換喩表現と読むこともできるし、じっさいそのイメージも立ちのぼってくるのだが、まずは《鏡》の表面が剥がれてゆく鮮烈なイメージとして読みたい。『鏡の国のアリス』に遡るまでもなく、《鏡》のなかにもうひとつの世界が広がっているという感触は誰しも抱いたことがあるはずだ。それゆえ、「鏡が起こすことすべて」ではやはり面白さが低減してしまう。《林檎》という凝縮の感触を湛えた物体の、可能性のすべてを、《鏡》のなかではみることができるのかもしれない。(続)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
お向かいさんから筍をいただきました。
初物です。


一昨日は、
ご主人の実家から送られてきたえんどう豆をいだだき
その日のうちに豆ごはんにして頂きました。
季節のものはうれしいですね。
きょうは、私も姉のところに
新高菜の漬物を持っていきました。

3月31日でGYAO無料が終了するので1月~3月は
韓ドラ(「品位のある彼女」「キム課長とソ理事」「ホ・ジュン」「風の絵師」「奇皇后」「シンイー信義」「花より男子」「青い海の伝説」「被告人」「キルミー・ヒールミー」「医師ヨハン」)
や日本の1998年のドラマ(「神様、もう少しだけ」「めぐり逢い」)
を観まくっていました。

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WBCとこどもの絵

2023-03-23 14:03:03 | 俳句
WBCはなんともドラマチックに
出来過ぎた漫画のように
終わりました。
TV観戦はしていませんが
お隣から時々歓声が上がっていて
スマホデータで確認しつつ~

村上宗隆選手の放った凄い同点ホームランが
勝利へのきっかけになったような~
決勝で本領発揮できてよかった。

大谷の試合前の円陣声出しの言葉も
よかったですね。

「野球をやっていれば、誰しも聞いたことがある選手がいると思うんですけど、今日、一日だけは、憧れてしまったら、超えられないので、彼らへの憧れを捨てて、勝つことだけを考えていきましょう。さあ、いこう」

「憧れてしまったら、超えられない」
この言葉には説得力があります。

さて、小学校では修了式が近いので
お道具を持って帰らせたようで、
小学1年の孫ようたろうは
大きな袋に災害用の頭巾や道具箱を入れて
帰ってきました(週に一回だけジジババのとこに)。
袋には、学校でお絵かきがさせてありました。
こどもの絵はなごみますね。


We15号掲載のようたろう(小1)の俳句と歌を
鳥のうんちってどんなえねるぎい?
おかあさんめをつぶって。とりのこえだよ
かなしいなおしっこいきたいゆめのなか
あさがおのたねはつぼみみたいだね
アイスクリームただのぼうになっちゃった
せみのからがしゃがしゃふんでやわらかい
つゆのひはひとりになれるおるすばん
ようちゃんのいきたいたべたいつかまえたいうみとパンちゃんミヤマクワガタ
*パンちゃん:棒状のジュースを氷らせ、折って食べるもの。

遠くにいる次男が、
「We」に孫や甥姪などの
こども部門を設けたらどう?
なんて言ってきました。
うちの孫の作品は、少し掲載していますが
興味のある方はご連絡ください。
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俳句作品「魂を焚け」 加藤知子 (『連衆』96号/2023年1月発行より)

2023-03-15 23:06:04 | 俳句
有難いことに、
竹本仰さんから鑑賞文(全12句について)をいただいたので
折角なので、ブログにUPしておきます!

魂を焚け      加藤知子

子をあやめ他人あやめろあやめ群れ

竹本仰(以下全て)→連日のように殺人の報道があり、ドラマでも殺人ばかり。人間にとって、殺人はやはり魅力はあるのだろうか。意外と純文学では殺人が少ない。リアルに考えると、そこに想像力はいかない。生きることに向くこと。そう言えば戦争体験者はその中身を殆ど語らない。大岡昇平のように殺さないのが人間を超えた叡知と洞察した方もいた。現在はもう大量破壊兵器の使用に言及する。堕落を遥かに下回って、人類の自己放棄が着々と進む。本当の殺人は、むしろこちらか。

汚い爆弾((ダーティボム)作り広げろ昼花火

→AIは人類の滅亡をどのように予測しているだろう。本当は凄く容易なことなのかもしれない。面倒ならば、ボタン一つで事が済むだろう。しかし、プーチンだって国民の人気取りに余念はない。ゴーゴリの「検察官」当時の田舎の上級役人とすこしも変わりない。けち臭い祖国愛と名誉欲のために、ボタンを惜しんでいる。ああ、人間は限りなく卑小だと思う。そう言えば、昔、演劇の本で、「次のページにはあなたがこの世で一番憎むべきものがいます。どうぞ、開けてごらんなさい」として、そのページは銀色の表面をした紙の鏡の面になっていた。気の利いた趣向だった。

詩を書くな戦争だけをさるすべり

→新興俳句の時代を思い出させる。最近、「西部戦線異状なし」を読み、気づいたのだが、戦争も嘘だらけで、現場にいる人間だけにしかわからないことだらけのようだ。そして、真の意味の反戦とは、敵兵と心情を通わせてしまうことだという。たしかに真情を吐露すれば、戦争は無意味になってしまう。偽りなしに成り立たないのが戦争である。戦後に飢餓のように名作が生まれるのはそのせいかもしれない。逆にバブルの時代ほど偽りに満ちた世もなかった、ちょうど戦争と酷似している。

蝉のしぐれて先進国のゴミとなれ

→蝉しぐれに国境はない。人類が生きる英知は反転すれば、インチキな卑屈な所作であるかも知れない。前記「西部戦線異状なし」では、何のために戦争するのかは、王様が歴史に名を残すためだという下りがある。一発大きい戦でもしてみねえ、いっぺんに有名人よ。確かにその通りだ、ナポレオンにしてもヒトラーにしても、みな一度はその予感にふるえおののいた人達だろう。あの馬鹿を村一番と江戸で云い。先進国自体がゴミになる日。蝉しぐれは変わらない。人間はその愚かさを証明しに地上に現れた一晩のサーカス団だったのかも。

火を放て人間燃えろ桜流木

→流木を見ると、心をそそられる。或いはそこに人間との対比を読んでいるからか。吉本隆明は詩の中で、人間は木だ、と言っていたが、その通りだと思う。ただ手と足と頭のくっついた木だとすると、流木に身をつまされるのも納得できる。共食いもできる。現に枯れかけた奴に火をつけて暖をとっている。可哀そうな木だ。そして、その延長で経済的にも軍事的にも戦争が好きで好きでたまらず、地球を燃やしかけている。確かに地球は一部厚かましい木の為に全体が壊れかけている。

秋時雨どくどく途切れ魂を焚け

→愁殺ということばがある。武田泰淳だったかの随筆で『秋風秋雨人を愁殺す』だったか、読んだ記憶がある。秋の時雨はひとをひどく滅入らせる。無力感を増長させる。泰淳の随筆では男の革命家に業を煮やした秋瑾という女傑が刑死する戦前の時代の話で、要は一つの革命が成功する裏にはその呼び水に数多の失策、目を見張るべき失策があるのであり、それなしには成り立たなかったという話。秋瑾は魯迅などが日本にいる頃、夫と別離し日本に留学、別の過激な流派で故国の革命をもくろんでいたが、日本刀の切れ味をひどく愛し持ち帰って常に座右に置いていたという。が、最後は向こうの例の牛刀みたいなもので斬首刑にされた。クーデター決行直前情報が漏れたのだ。斬首された秋瑾の最期のつぶやきも、さもあらんと読んだ。

スラム子の銃の合奏秋夕焼

→これは遊びの風景であるか。ならば一攫千金の予行演習だろうか。銃によって金がつかめるなら、そんな近道はまたとあるまい。だが実際にそういうことなのだろう。そういう目を通してみれば、銃を使うまでもなくスマホであり詐欺であったって、それは可能なのだろうから、容易に犯罪は思いつける。言葉もまた本来武器であるため、情報化社会の裏を突けば、国さえ乗っ取れるものなのか。一つの行為における表と裏、悪は一途に最短距離に人類を席捲してゆくようだ。

詐欺充ちよ情報溢れ霞網

→何事にも構造があり、悪は常に最短距離で事をなしうる。善の裏には容易にその等価をはみ出すほどの悪があふれ、それは実に合理的で、善の見事な模倣犯である。旧約聖書の初めの殺人はカインとアベルの話である。十戒にある悪を組み合わせれば、殺人どころか、国家の建設や人類の破滅までもすぐに答えとして出そうだ。だが、本当に決定的な悪にいかないのは、一応人間には人間の誇りというのがどこかで作用しているからなのだろうか。という不思議を思う。

ビル横積み学校を冬海に入れ

→この句、初めはお魚のアパートのことかと読んでいた。すると、慈海に栄養満ち足りていいのだろうなと思ったが、こう解しても現代社会を横倒しにする企図がありありで面白かったというまま、いったん置いてみたところ、『連衆』誌上で目にして、また見方が次第に変わってきた。横倒しにするのはお魚たち、逃げて海中に次々飛び込むのか。と、ド氏の『悪霊』の冒頭のエピグラムに引用された聖書の句を思い出した。悪魔が降り移った豚群の集団自殺の話である。開高健の『パニック』にも似たネズミの大群の話があったが、そういう系譜で見ると、さらにこの句は楽しく見えてくる。横積みにしたのは誰か、それは考えなくともいい。誰かが必ずそうしてくるに違いないのだ。たとえばプーチンのミサイルによらずとも。ドストエフスキーの悪魔、開高健のメカニズム、ともまた違う現代の無名性。誰かがやる、必ずやる、それは可能な中で、おこなわれる。そして、お魚になる。では、どうなるのか?と、そういう問いかけで終わったところの、見事さ、面白さだろうか。人為の果てにあるそんな風景を想像させるところを感じたのだ。

アルプス毀せ土あかあかと冬の雨

→文化とは何か、と問い直すか。一敗地に塗れる、というが、そこからを問う姿勢があり、よいと思った。安吾『堕落論』をふと連想する。スターリンがアラル海一つを地上から消し去ったように、プーチンも地球一つを宇宙から消し去るのかも知れない。だが、そこまでの天才はあるまい。核ミサイルではアルプスは毀せない。摂理という神のみがなしうる。最近だんだんと、プーチンがサルに見えてきた。サル真似をする人間はサルより醜い。平田オリザの戯曲に、大学の生命科学研究室のグループが、着せ替え人形のように机上でハサミを使い色んな紙の上に動物の結合を試みるという遊びのシーンがあった。一番グロテスクなのは、サルとヒトの結合という結論だった。至上の高貴さを求める先には、人間のするサル芝居が見えてくる。人類、サルに帰るか。とそういう思いで読んだ。

全地球戒厳令を蒼々と

→誰の出す戒厳令かと思うと、指導者の恐怖とその肚が見えてくる。戒厳令のわからぬ者、一歩出よ。便利なものがあるものだ。そこが限界と言ってしまうようなもの。『西部戦線異状なし』のある会話の中にあったが、戦争をおっぱじめたモン同士殴り合いをしてりゃいいものを、という延長で現代も成り立っている。代理でしか生きられない国民。まさに国家の前にオール無名者の世界。自分が死にたくないために多くの死を要求する。我々は彼の取引の道具でしかないのか。然り。人間世界の矛盾、愚劣さはこんなにも日々を埋めている。そう考えると、フォイエルバッハ、マルクス以降、神を捨てた代償はけっこう高くついて、スターリンもヒトラーもプーチンも、おのれ一個の命は数十億にも等しいと思って生きているので、潜在的には我々も同じなのだろう。ならば核戦争という代償もまた等価と思えてくる。そういう明らかな計算をさせるものは、誰か。

メビウスの絡む戦争竹の花

→戦争があっての平和、また戦争があっての繁栄。メビウスの輪は回り続ける。実は人類の頭脳の中にそういうサイクルは先天的に埋めこまれていたのかも知れない。多分、それこそが自己の存在確認のために必要とされていたのでは、とも思う。ハンナ・アーレント『全体主義の起源』を思い出す。時おり、中にカフカやプルーストの名が出ていたのもそういうことか。ユダヤ人という存在が世界を倒立して正像としてとらえていたのか。平和の中にいる虚偽、国民として生きている欺瞞。それらはみな嗅覚の問題ではないか。覆い隠しようのない自画像を、毎日見ているのを不思議と思ってはいけないのだろう。人類の故郷はまさに戦場なのかもしれない。

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ヤクルト400を毎週届けてもらっているのですが
何だったか応募用紙が入っていたので
応募したら当たりました!

村上宗隆選手ガンバレ~

なんなんでしょう、
今年は幸先よく当たってきました~
アレでしょおー
コレでしょおー

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熊本県現代俳句協会 会報 2022年度 第3号  現代俳句くまもと 第22号

2023-03-12 12:19:06 | 俳句
 現代俳句くまもと 第22号 

俳句も守破離   熊本県現代俳句協会会長
                                  加藤 知子
宗教関連のニュースなどを見聞きしていて、思うことがあります。俳句は、宗教ではありませんが、宗教的な面があることを否定できません。私達俳句をものする者は、俳句という一つの表現方法を持った自立独立した人間です。誰それに傾倒するのは大変有意義ですが、575形式や季語に対して、教条主義的なお守りとするのは如何なものか、仲間意識は心地よいものですが、同調圧力に従ってしまうのは如何なものか、と思うのです。
俳句の師を宗教のようには妄信せず、常に自分自身に俳句とはなにかと問いかけながら、歩みたいものです。
芸事に守破離(しゅはり)という言葉があります。俳句も因襲的伝統の上に胡坐をかかず、575の音数律を鍛錬し、伝統を繋ぎながら破りながら、新しい伝統を作っていく。そのためにも、自分独自のスタイルを模索しながら歩を進めていけたらいいなと思うのです。
勿論、句座を楽しむことに異論はありません。

祝・三十年永年会員作品 
紅葉して折々捨てしものはるか     汀 圭子

2022年度総会・句会のご案内

総会及び総会後の句会を、 次のとおり実施します。議題は、活動報告・決算報告・活動報告案・決算案についてです。九州現代俳句大会に関する説明もいたします。

総会への出欠は、同封のハガキ(委任状)にてご回答下さい。ご回答がない場合、「会長に一任」とさせていただきます。同ハガキは、投句用にもなっており、句会出席の場合は5句を、不在投句の場合は3句を、ご投句下さい。

締切は、3月29日(水)消印有効


総会・句会 期日 本年4月8日 (土)

 〃    場所 くまもと森都心プラザ 6階 Ⅾ会議室


開場 午後1時  総会 午後1時10分~

総会後の句会 午後2時 ~午後4時50分頃まで

なお、句会終了後、熊本駅周辺にて、夕食会を計画しています。

参加できる方はご参加ください。 

 
第14回 九州現代俳句大会ご案内

主 催  現代俳句協会九州地区連絡会
期 日  2023年10月21日(土) 受付 午後1時~
大会場所 紅蘭亭下通本店  熊本市安政町
講演  講師:高岡 修 先生(俳人・詩人)
    演題:「詩としての俳句」 
投句締切 2023年7月20日 (木)消印有効

 ◎詳しくは、4月中旬頃、実施要項・投句用紙を郵送しますので、多くの方々の投句をお待ちします。

< ’23現代俳句年鑑参加者一句抄>
錆び針にまた提げ掛くる初暦   青島玄武
乾坤の空の青さよ終戦忌    (京鹿子)荒尾かのこ
暗(くら)河(ごう)のように母たりもがり笛 (We)加藤知子 
そぞろ寒 百鬼夜行のうわさ立つ(霏霏Ⅱ)志賀孝子
木枯しの吹き抜け母の声おぼろ (夜行) 徳山直子
郵便配達が揺らす稲穂の火傷あと(霏霏Ⅱ)中山宙虫
納豆のねばならぬかな秋の暮  (連衆) 萩  瑞枝
雲の峰その向こうから来る男  (花組) 林よしこ
保護法をしかと詠み込む寒夜かな(小熊座)右田捷明
ことは抑(そも)いのちあっての青葉旅 海原)汀 圭子

<第59回現代俳句全国大会参加作品抄
老いるとは自由研究秋休み        加藤知子
夕焼の空楽天地重信忌         佐藤惠美子
炎天の疫禍戦禍のこの世かな       徳山直子
民主主義が溶け新色のソーダ水      中山宙虫
大工らの大声ひびく大西日        西田和平
揚羽蝶プロパガンダの明るさよ      西村楊子
バッタと呼ばれ呼ばれるからに飛んでるの 林よしこ
真夏日や観覧車とて真夏日よ       右田捷明
腐草螢となる戦百日目          若松節子

<現代俳句くまもと吟行句会(2022・10・29)>
リデル、ライト両女史記念館との共催で開催。同記念館からテントと椅子を準備していただき、また俳人協会熊本県支部の応援もあり、11名の参加者があった。秋晴れのなか、賑やかに有意義に終わることができた。
今後は、こういうふうに協会を超えた吟行句会も催したい。

<第44回県民文芸賞(俳句部門)>
一席   真弓ぼたん
愚直とは佳き言葉なり蟇
黒揚羽直感のごと通り過ぐ
黒鯉のますます太る終戦日
小鳥来る指紋認証開けゴマ
仏像となる木に揺れて鬼の子は

<第59回県俳句大会> 
熊本放送賞・福永満幸選 特選
汗拭いてマスクの顔を取り戻す 生田一代(準会員)

薩摩仙台こころの文芸大会(2022年10月)
丸山真選 入選 
星月夜友の訃報を友に告ぐ    西村楊子
友と泣き子と泣き知覧晩夏光   若松節子(準会員)

<第58回滔天忌俳句大会(2022年12月)>
服部たか子選 佳作
凛凛とをとこの行路牡丹の芽     徳山直子
始まりの一枚はこの紅葉かな     荒尾かのこ
(参加者一句抄)
琉金のゆるゆる太る滔天忌      西村楊子
人はみな山河の冬を抱き立つ     林  紀子
穀倉へミサイル怒りの滔天忌     右田捷明

<第38回富澤赤黄男顕彰俳句大会(2023年2月)>
特選          
白球を掴んだままの夏の雲 林よしこ

★『現代俳句』列島春秋 ★
(2022年 掲載)
4月 ひとひらの落花に浮かむ阿蘇五岳 青島玄武
5月 パンドラの箱に隠れし麦穂波   丘 菜月
6月 江戸の香の栄枯語らず肥後菖蒲  右田捷明
7月 夏草や阿蘇の赤牛長まつげ    汀 圭子
8月 夏雲へ土偶乳房を尖らせて    林 紀子
9月 阿蘇谷や案山子一体抱えゆく   田川ひろ子
10月 百年の雑談を吾と秋の亀    吉良香織
11月 大阿蘇の風引き連れて神の旅  田中順子
12月 赤酒の園に八千代の年の暮   加藤知子
(2023年 掲載)
1月 鳥居より望む教会踏絵伝     西村楊子
2月 潮騒がゆるむ臘梅たこ街道    中山宙虫      
3月 素面(しらふ)の父らに越せない春の田原坂
                                                           西口裕美子

~~お知らせ~~
◎現代俳句協会費未納の方は、振込みをお忘れなく。
◎『現代俳句俳句年鑑 24』へのご参加をお願いします。
締切は、5月31日。5句掲載で参加費3千円。
◎皆さんの周りに、現代俳句くまもと句会へのご参加や現代俳句協会への入会を希望される方がおられましたら、事務局までご連絡ください。

熊本県現代俳句協会 会報 第22号

2023年(令和5年)3月10日 発行

発行人 会 長  加藤 知子 

編集人 事務局長 西田 和平

メール:kumamoto_gendaihaiku@yahoo.co.jp

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We第15号/前号俳句「ふたり合評」より

2023-03-07 22:41:13 | 俳句
 前号俳句 ふたり合評
  
錆びやすき男のこえよ白牡丹  野田遊三 
阪野基道 錆びて腐食しやすい男とは、身につまされるようではないか。ならば疎外感を滲ませている男の錆びが、「寂び」であることを願うばかりだ。この花は紅白どちらにせよ「立てば芍薬、座れば牡丹」といわれるしゃれ者の花、いまこの男の心の内は爛熟している、と読んでみた。
斎藤秀雄 「錆声」と言えば枯れて渋味のある声のこと。声の錆びやすさに性差があるのかどうか知らないが、《白牡丹》のイメージから、語り手は、《男のこえ》に魅了されているように感じられる。語り手の性別をどう想定するかによって、BL俳句として読むこともできるかもしれない。

かたくなに紳士つらぬく気かポスト  しまもと莱浮
早舩煙雨 あの甘噛みをしてくる銀色の癒着歯の奥は、消化液で満たされているかもしれない。この句はポストが持つ白々しさを批判しつつ、諧謔性で許しも与えている。紳士然としたある男と、その横に立つポスト、という取り合わせとして読んでも楽しい。
松永みよこ 職務に忠実で、そこから一歩もはみ出そうとしないポストをなじった作者。実際には、ポストが個性に溢れていたら困惑するだろうが。これは今の四角いタイプではなく、昔の円筒形をしたポストだろう。その形、ぷくっとした質感は人のぬくもりを感じさせていたから。

山笑うあなたはマジシャン足踏みミシン 石田真稀子
加能雅臣 《足踏みミシン》は祖母が使っていた。鉄でありながら軽快で、もしも翼があったなら、黎明期の飛行機のように滑走を始めたかもしれない。使わない時は、機械部が反転し本体に収納され、平らな机になる。いつの日かトランスフォームして、飛行機となって山を越えませう。
未補 《足踏みミシン》から繰り出される布地や布の縫い目と、《マジシャン》の奇術によって飛び出す花や鳩の姿が重なる。語り手が《足踏みミシン》に対して《あなたはマジシャン》と驚きと親しみを込めて語りかけているようにも見えた。《山笑う》という季語にふさわしい景だと思う。
   
金柑煮るそっとしてねのサインです  内野多恵子
下城正臣 私への用事もいろいろあることでしょう。私自身もあれこれ忙しいのです。でも、これから金柑を煮ます。金柑は微妙な味を醸してくれます。ですから私は、静かにその時を過ごします。この特別の時間を尊重して欲しいのです。
しまもと莱浮 「そっと」自体は静かに、というほどの意味だが、甘露煮の香りによって、やさしい、あたたかいイメージを増している。道灌に山吹を差し出すように、相手をやり込めず自分の気持ちを知らせようとする。わからないからこそ、寄り添っていくのかもしれない。
     
万愚節真実のみを聞きたい日  江良修
男波弘志 なぜ万愚節という季語をここに置いたのだろうか、嘘に対しての真実、あまりに安易な取り合わせであろう。何かに寄せる切々たる思いがあってこそ真実の在り処が顕れてくるのではないか、私はふと青天を切り裂くような声を聴いた、確かに聴いた。鵙鳴いて、在るもの。
未補 《万愚節》だからこそ《真実のみを聞きた》くなるのだろう。私はふだん「この人は嘘をついているかもしれない」と思うことは稀だが、《万愚節》はすべての人が嘘を付いている気がしてしまい、疑心暗鬼に陥る。この世はすべて《真実》である(と思いこんでいる)日常の尊さを思った。

どの指も足りない痛み春ショール  小田桐妙女
竹岡一郎 何が足りないのだろうか。愛とか恋とか温もりとか優しさとか、そんなものが足りないんだろうなと思うのは下五の「春ショール」による。春のショールはパステルカラーのような明るい優しい色だろうからだ。ショールを両手の指でかき抱いている様が浮かぶ。
松永みよこ 薄手のショールに包まれ、痛みの感情がうごめく。春の物思いを支えるのは指の記憶であった。今まで関係を持ったどの指も自分にしっくりくるものは結局みつからないまま。今後自分にあう指なんてないだろうと絶望したり、いやもしかしてとほんの少し気を取り直したり。

飛び込まずあるいて水に入る蟇   男波弘志
加能雅臣 《飛びこまず》から、芭蕉の蛙との対比を思う。芭蕉の蛙は一匹か複数かで議論のあるところだが、この《蟇》は、ただの一匹に違いない。繁殖期になると、まだ体が小さく若い雄は、先んじて水場へとやって来て、水中に潜んで雌を待つらしい。音もなく《水に入る蟇》の熱量。
竹岡一郎 体が重いのだろうか。貫禄があるのだろうか。相撲取りのように、のっしのっしと歩いて、徐に水に入ってゆく。飛び込むのは急ぐ理由がある筈で、そういう事をしないのは、どうもこの蟇の特性というか、蟇の人生観によるのだろうか。多分、一生急がないだろう。

春のZOO命の流れ我に  柏原喜久恵           
松永みよこ 見渡せばそこここに生命あふれる春の動物園で、自分も動物であることに気づき、生きていることを全身に感じとった。破調であるのが、かえって動物の命のダイナミズムを具体的に表している。太古からZOOっとつづく命の連鎖の中で「我」は今日を生きる。
しまもと莱浮 まん防が解除され、動物園は活気を取り戻そうとしていた。久しぶりの動物園。象が長い鼻を気持ちよさそうに撓らせる。その大きな姿は、春の息吹と相まって生命の力強さを象徴しているようだ。二年間静かに暮らしていたからだろうか軽い戸惑いさえ感じる。

日や濁る足占の果の渡守  斎藤秀雄           
男波弘志 これでもかと、見所を詰め込んでしまった一行詩である。濁る、足占、果、渡守、誰が主役なのだろうか、どこに焦点を絞って観ればいいのだろうか。もうこの句を一元化するとすれば、何かを削ってしまわなければすまないだろう。これは一例だが「日輪や足占の濁るとき」。
小田桐妙女 「日や」で切らずに「日や濁る」で切れをいれたい。「日や濁る」をひとつの言葉と思いたい。普通に表したら「日の濁る」であろうか。「や」が切字、の先入観を払拭したい。足で何歩歩いたのだろうか。その果には渡守がいる。舟に乗るのか?もはや、渡守が足占を続けて来たのかもしれない。

万緑の前に余生を据えてみた  島松岳          
阪野基道 万緑という語は、縄文人が急峻な川を遡上して発見した緑の新天地に感嘆する、というイメージが最も相応しいような気がする。そんな日本の黎明期から見れば、テクノロジーが高度に発達し、生身の人間が砂漠化しつつある現代は、人類(そして私)の余生と言えるのでは。
松永みよこ 万緑は、もうそれだけで生命力と躍動感に満ちている。その強烈さの前に据えられた「余生」はどんな表情でいるのだろう。「据えてみた」の措辞は謙虚にもおどけたようにもうつるが、万緑とは別の方向性で輝くはずだ。頑張る姿は見せずに頑張る「余生」に敬愛の念を抱いた。

友だちよ掌の冷たさは間近きか      下城 正臣        
しまもと莱浮 もどかしい、何か私にできることはないのか。こうして句を詠むことしかできないのか。いや、やがて私もそちらへ行こう。そんなふうに句を読んだとき突然、頭の中に♪もしも星が落ちて道に迷ったなら♪という歌が流れ始めた。むかしどこかで聴いた歌だ。
斎藤秀雄 冬が近いとも読めるが、おそらく死を思っているのではないか。《友だち》の死を思うことは、語り手自身の死を思うことでもあろう。語り手と《友だち》の年齢が近いと想定すれば「老い」がテーマとも言えようが、そのことを通じて、むしろ死というものの近さを読み取りたい。

赤山茶花溺愛のかたちに散れり  瀬角龍平
下城正臣 色町とか遊郭とかを知らない。その名残の町並みには所用で出入りした。身体を売って生きていく女性の世界があった。そこには、深い溺愛の世界、命も張るような愛の世界もあった、赤山茶花を見て想像は広がる。
阪野基道 樹下に紅を撒いたような審美的な愛情の崩れは、美しくも報われぬ愛を表現しているようだ。しかし溺愛とは自己愛の裏返しでもあり、自分自身が自分自身の愛情を享受しているとも受け取れる。山茶花の散った情景は、自らの歪みを含んだ像として、目の前に広がっている。

玉乗りの蛸を囃して蛸殴り  竹岡一郎
男波弘志 何かに絡みついて移動をしたり、捕食したりする蛸が玉に乗っている姿態をすぐに想像するのは大変むずかしい。擬人化するための何かが足りないのだ。蛸を囃したてる道具は海中にいくらでもある。ユラユラしている長い海藻、薄紫の磯巾着もほうほうと揺れている。下五を「エイの鰭」としたらどうか。
しまもと莱浮 頭韻によって玉が回転する様の描写にもなっているため、同じく押韻を用いた氏の『We』十二号の句よりシンプルな表現である。氏はまた『We』十一号十三号にも蛸の句を詠む。玉と蛸。これはソウルフードたるたこ焼き、あるいは永劫回帰のことかもしれぬ。
          
春の海人体漂流避けきれず  竹本仰
加能雅臣 一読して震災を想起した。同時にこの三年のコロナを巡る情勢を思う。出自の暗いウイルスと効果不明瞭なワクチンの出入りを許す私たちは今、「人間」というより《人体》と呼ぶにふさわしい。《春の海》の如く「ひねもすのたりのたり」とまだまだ続いてゆくのだろうか。
未補 漂流している人体を避けきることができない。人体というものは、漂流することを避けきれない。二通りの読み方ができるが、どちらであっても、海を揺蕩う生白い水死体を思わせる。《人体漂流》が避けきれない事態ならば、荒波のなかではなく、のどかな《春の海》を永遠に彷徨いたい。

秋の鳩抱く少年の背中に痣  阪野基道
早舩煙雨 少年が鳩を優しく抱く動機を思う時、彼に隠された何かを見てしまう気がして、つい眼を逸す。しかし、目を逸らした先にいる別の鳩が、「抱け」と近づいてくる。抱いたら、たがが外れる。痣が鳩を抱かせたのか、鳩が痣を生んだのか。
斎藤秀雄 乱暴者どもから《鳩》を守り《背中に痣》を負ったのか。家で虐待にあっているためか。裸でなければ見えない《痣》を知っているということは、《少年》は語り手自身(の過去)であろう。《鳩》の色・形と《痣》が不穏に呼応している。映画「Kes」のラストシーンのようだ。

はじめてのふくらんでゆく桜かな  松永みよこ
早舩煙雨 蕾がふくらみかけているのを初めて(orあらためて)しっかりと見掛けた時の嬉しさと読んだ。ゆったりとした調子で、開花を待つまでの暖かい気持ちそのままを思いだす。全てひらがなで来た直後のシンプルで力強い「桜かな」で、瞬間的に蕾をすべて脳内で開花させられてしまった。
未補 《桜》の蕾が開花しようとしているのか。すでに開いた花が満開へと、徐々に《ふくらんでゆく》のか。あるいは、《はじめて》というものが《ふくらんでゆく》のかもしれない。なにが《はじめて》なのか明示されていないことで、読み手それぞれの《はじめて》と、句の世界がリンクする。

時の日のさかさでもいいレントゲン  未補
小田桐妙女 さかさでもいいのは「時の日」か「レントゲン」か。砂時計のなかに時の日もレントゲンも入っていて、なんなら「さかさ」も入っている。すべてはことばの粒子である。それを逆さにするのは人だけとは限らない。鳥や雲や魚や風や花や月や、ゴリラかもしれない。口遊みは永遠に続く。
斎藤秀雄 言われてみれば《レントゲン》写真は上下逆でも差し支えないことが多いのだが、そうは言っても不思議である。この不思議な感触が上五へと遡り、中身の透けた時計が上下逆となって壁にかかっている景がみえる。ここからさらに漏刻が下から上へと逆流してゆく景も思われる。

揚羽蝶吾れに綺麗な刻を呉れ  宮中康雄
加能雅臣 《刻》は「とき」。「時」タイムではなく「秋」タイミングでもなく「期」ピリオドとも違う。《刻》は黒いイメージだ。「殺して呉れ」ということか。しかも《綺麗》に。汚く生きることを肯んじない魂がある。先日、数多の蝶の翅だけで出来た貼絵を見て、少したじろいだ。
小田桐妙女 真っ先に「吾れ」と「呉れ」の文字が記号のように目に入ってきた。それから意味を読んでゆく。作者は揚羽蝶が好きなのであろう。蝶が嫌いな人もいる。好きだから「吾れ」は揚羽蝶が綺麗な刻を「呉れ」たと感じたのだろう。今は画数の多い「揚羽蝶」と「綺麗」に目を奪われている。

蛍の夜やさしく殺してあげませう 森さかえ
竹岡一郎 蛍の一つ一つが各々一人の魂なのか、一人の魂が肉体の死後、幾つにも分裂したものなのか。掲句の場合、一人の魂が分裂して数多の螢になるような気がする。優しく殺すのは、じっくり殺すという事で、その殺しは、やはりお一人様限定だと思うからだ。
小田桐妙女 桂信子の「ゆるやかに着てひとと逢ふ螢の夜」、鈴木真砂女の「死なうかと囁かれしは螢の夜」、鎌倉左弓の「螢の夜何処も濡るることに慣れ」。「螢の夜」は情事の匂いがする。裸のまま丸まってものを書きたいものである。殺されるのは肉体か魂か、やさしく殺されるならそれもいい。

月並ではな梅干と古代米  森 誠             
早舩煙雨 梅干しと古代米がすばらしい二物衝撃(食べ合わせ)であること、調理も一種の詩的行為であることを気付かされる。どちらも乾物で植物の実であるという共通性も有り、梅干しと米は組み合わせとしてありふれているかもしれないが、それは良さの裏返しだと思う。
阪野基道 子どもの頃、お茶に梅干しを浸し、潰しながら食べた梅干しとお茶がとてもおいしかった。この句では古代米に添えた馥郁とした梅干しの食事が、月々の小さなハレの行事として、この家庭に息づいてきた。民俗的な歳時記のようで、いつまでも残しておきたい食事風景。

永く群れず遠く鳴かず水へ鳥  加藤知子
下城正臣 そういう鳥は多い。午前中や日中はまだいいが、夕方それらの鳥を見ると、身につまされる。遠く鳴かないならば、飛躍も難しいだろう。その鳥の習性と言えばそれまでだが、彼も老いたか。作者が詠まんとした景とは異なる拡大解釈である。
男波弘志 ふしぎな一行詩である。水の流れを只々眺めている浮遊感がある。畢りの水へ鳥が一句を完結させずに曳航している。鳥が水へ入水したとも読める。水が水へ入水している風景だとしたら、水も鳥ももうここにはない。死が死を、生が生を畢らせている。存在とはそういうものであろう。


広重 東海道五十三次のカードがやっと
当たりました!
でもね、これね
私は何度も出したのですがダメだったので
愚息の名前でだしたんですよね~
そしたら一発でした!

まだまだ永谷園のお茶漬は買うのです~
最近二枚重なりが増えてきました。



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