続・知青の丘

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We第15号/前号俳句「ふたり合評」より

2023-03-07 22:41:13 | 俳句
 前号俳句 ふたり合評
  
錆びやすき男のこえよ白牡丹  野田遊三 
阪野基道 錆びて腐食しやすい男とは、身につまされるようではないか。ならば疎外感を滲ませている男の錆びが、「寂び」であることを願うばかりだ。この花は紅白どちらにせよ「立てば芍薬、座れば牡丹」といわれるしゃれ者の花、いまこの男の心の内は爛熟している、と読んでみた。
斎藤秀雄 「錆声」と言えば枯れて渋味のある声のこと。声の錆びやすさに性差があるのかどうか知らないが、《白牡丹》のイメージから、語り手は、《男のこえ》に魅了されているように感じられる。語り手の性別をどう想定するかによって、BL俳句として読むこともできるかもしれない。

かたくなに紳士つらぬく気かポスト  しまもと莱浮
早舩煙雨 あの甘噛みをしてくる銀色の癒着歯の奥は、消化液で満たされているかもしれない。この句はポストが持つ白々しさを批判しつつ、諧謔性で許しも与えている。紳士然としたある男と、その横に立つポスト、という取り合わせとして読んでも楽しい。
松永みよこ 職務に忠実で、そこから一歩もはみ出そうとしないポストをなじった作者。実際には、ポストが個性に溢れていたら困惑するだろうが。これは今の四角いタイプではなく、昔の円筒形をしたポストだろう。その形、ぷくっとした質感は人のぬくもりを感じさせていたから。

山笑うあなたはマジシャン足踏みミシン 石田真稀子
加能雅臣 《足踏みミシン》は祖母が使っていた。鉄でありながら軽快で、もしも翼があったなら、黎明期の飛行機のように滑走を始めたかもしれない。使わない時は、機械部が反転し本体に収納され、平らな机になる。いつの日かトランスフォームして、飛行機となって山を越えませう。
未補 《足踏みミシン》から繰り出される布地や布の縫い目と、《マジシャン》の奇術によって飛び出す花や鳩の姿が重なる。語り手が《足踏みミシン》に対して《あなたはマジシャン》と驚きと親しみを込めて語りかけているようにも見えた。《山笑う》という季語にふさわしい景だと思う。
   
金柑煮るそっとしてねのサインです  内野多恵子
下城正臣 私への用事もいろいろあることでしょう。私自身もあれこれ忙しいのです。でも、これから金柑を煮ます。金柑は微妙な味を醸してくれます。ですから私は、静かにその時を過ごします。この特別の時間を尊重して欲しいのです。
しまもと莱浮 「そっと」自体は静かに、というほどの意味だが、甘露煮の香りによって、やさしい、あたたかいイメージを増している。道灌に山吹を差し出すように、相手をやり込めず自分の気持ちを知らせようとする。わからないからこそ、寄り添っていくのかもしれない。
     
万愚節真実のみを聞きたい日  江良修
男波弘志 なぜ万愚節という季語をここに置いたのだろうか、嘘に対しての真実、あまりに安易な取り合わせであろう。何かに寄せる切々たる思いがあってこそ真実の在り処が顕れてくるのではないか、私はふと青天を切り裂くような声を聴いた、確かに聴いた。鵙鳴いて、在るもの。
未補 《万愚節》だからこそ《真実のみを聞きた》くなるのだろう。私はふだん「この人は嘘をついているかもしれない」と思うことは稀だが、《万愚節》はすべての人が嘘を付いている気がしてしまい、疑心暗鬼に陥る。この世はすべて《真実》である(と思いこんでいる)日常の尊さを思った。

どの指も足りない痛み春ショール  小田桐妙女
竹岡一郎 何が足りないのだろうか。愛とか恋とか温もりとか優しさとか、そんなものが足りないんだろうなと思うのは下五の「春ショール」による。春のショールはパステルカラーのような明るい優しい色だろうからだ。ショールを両手の指でかき抱いている様が浮かぶ。
松永みよこ 薄手のショールに包まれ、痛みの感情がうごめく。春の物思いを支えるのは指の記憶であった。今まで関係を持ったどの指も自分にしっくりくるものは結局みつからないまま。今後自分にあう指なんてないだろうと絶望したり、いやもしかしてとほんの少し気を取り直したり。

飛び込まずあるいて水に入る蟇   男波弘志
加能雅臣 《飛びこまず》から、芭蕉の蛙との対比を思う。芭蕉の蛙は一匹か複数かで議論のあるところだが、この《蟇》は、ただの一匹に違いない。繁殖期になると、まだ体が小さく若い雄は、先んじて水場へとやって来て、水中に潜んで雌を待つらしい。音もなく《水に入る蟇》の熱量。
竹岡一郎 体が重いのだろうか。貫禄があるのだろうか。相撲取りのように、のっしのっしと歩いて、徐に水に入ってゆく。飛び込むのは急ぐ理由がある筈で、そういう事をしないのは、どうもこの蟇の特性というか、蟇の人生観によるのだろうか。多分、一生急がないだろう。

春のZOO命の流れ我に  柏原喜久恵           
松永みよこ 見渡せばそこここに生命あふれる春の動物園で、自分も動物であることに気づき、生きていることを全身に感じとった。破調であるのが、かえって動物の命のダイナミズムを具体的に表している。太古からZOOっとつづく命の連鎖の中で「我」は今日を生きる。
しまもと莱浮 まん防が解除され、動物園は活気を取り戻そうとしていた。久しぶりの動物園。象が長い鼻を気持ちよさそうに撓らせる。その大きな姿は、春の息吹と相まって生命の力強さを象徴しているようだ。二年間静かに暮らしていたからだろうか軽い戸惑いさえ感じる。

日や濁る足占の果の渡守  斎藤秀雄           
男波弘志 これでもかと、見所を詰め込んでしまった一行詩である。濁る、足占、果、渡守、誰が主役なのだろうか、どこに焦点を絞って観ればいいのだろうか。もうこの句を一元化するとすれば、何かを削ってしまわなければすまないだろう。これは一例だが「日輪や足占の濁るとき」。
小田桐妙女 「日や」で切らずに「日や濁る」で切れをいれたい。「日や濁る」をひとつの言葉と思いたい。普通に表したら「日の濁る」であろうか。「や」が切字、の先入観を払拭したい。足で何歩歩いたのだろうか。その果には渡守がいる。舟に乗るのか?もはや、渡守が足占を続けて来たのかもしれない。

万緑の前に余生を据えてみた  島松岳          
阪野基道 万緑という語は、縄文人が急峻な川を遡上して発見した緑の新天地に感嘆する、というイメージが最も相応しいような気がする。そんな日本の黎明期から見れば、テクノロジーが高度に発達し、生身の人間が砂漠化しつつある現代は、人類(そして私)の余生と言えるのでは。
松永みよこ 万緑は、もうそれだけで生命力と躍動感に満ちている。その強烈さの前に据えられた「余生」はどんな表情でいるのだろう。「据えてみた」の措辞は謙虚にもおどけたようにもうつるが、万緑とは別の方向性で輝くはずだ。頑張る姿は見せずに頑張る「余生」に敬愛の念を抱いた。

友だちよ掌の冷たさは間近きか      下城 正臣        
しまもと莱浮 もどかしい、何か私にできることはないのか。こうして句を詠むことしかできないのか。いや、やがて私もそちらへ行こう。そんなふうに句を読んだとき突然、頭の中に♪もしも星が落ちて道に迷ったなら♪という歌が流れ始めた。むかしどこかで聴いた歌だ。
斎藤秀雄 冬が近いとも読めるが、おそらく死を思っているのではないか。《友だち》の死を思うことは、語り手自身の死を思うことでもあろう。語り手と《友だち》の年齢が近いと想定すれば「老い」がテーマとも言えようが、そのことを通じて、むしろ死というものの近さを読み取りたい。

赤山茶花溺愛のかたちに散れり  瀬角龍平
下城正臣 色町とか遊郭とかを知らない。その名残の町並みには所用で出入りした。身体を売って生きていく女性の世界があった。そこには、深い溺愛の世界、命も張るような愛の世界もあった、赤山茶花を見て想像は広がる。
阪野基道 樹下に紅を撒いたような審美的な愛情の崩れは、美しくも報われぬ愛を表現しているようだ。しかし溺愛とは自己愛の裏返しでもあり、自分自身が自分自身の愛情を享受しているとも受け取れる。山茶花の散った情景は、自らの歪みを含んだ像として、目の前に広がっている。

玉乗りの蛸を囃して蛸殴り  竹岡一郎
男波弘志 何かに絡みついて移動をしたり、捕食したりする蛸が玉に乗っている姿態をすぐに想像するのは大変むずかしい。擬人化するための何かが足りないのだ。蛸を囃したてる道具は海中にいくらでもある。ユラユラしている長い海藻、薄紫の磯巾着もほうほうと揺れている。下五を「エイの鰭」としたらどうか。
しまもと莱浮 頭韻によって玉が回転する様の描写にもなっているため、同じく押韻を用いた氏の『We』十二号の句よりシンプルな表現である。氏はまた『We』十一号十三号にも蛸の句を詠む。玉と蛸。これはソウルフードたるたこ焼き、あるいは永劫回帰のことかもしれぬ。
          
春の海人体漂流避けきれず  竹本仰
加能雅臣 一読して震災を想起した。同時にこの三年のコロナを巡る情勢を思う。出自の暗いウイルスと効果不明瞭なワクチンの出入りを許す私たちは今、「人間」というより《人体》と呼ぶにふさわしい。《春の海》の如く「ひねもすのたりのたり」とまだまだ続いてゆくのだろうか。
未補 漂流している人体を避けきることができない。人体というものは、漂流することを避けきれない。二通りの読み方ができるが、どちらであっても、海を揺蕩う生白い水死体を思わせる。《人体漂流》が避けきれない事態ならば、荒波のなかではなく、のどかな《春の海》を永遠に彷徨いたい。

秋の鳩抱く少年の背中に痣  阪野基道
早舩煙雨 少年が鳩を優しく抱く動機を思う時、彼に隠された何かを見てしまう気がして、つい眼を逸す。しかし、目を逸らした先にいる別の鳩が、「抱け」と近づいてくる。抱いたら、たがが外れる。痣が鳩を抱かせたのか、鳩が痣を生んだのか。
斎藤秀雄 乱暴者どもから《鳩》を守り《背中に痣》を負ったのか。家で虐待にあっているためか。裸でなければ見えない《痣》を知っているということは、《少年》は語り手自身(の過去)であろう。《鳩》の色・形と《痣》が不穏に呼応している。映画「Kes」のラストシーンのようだ。

はじめてのふくらんでゆく桜かな  松永みよこ
早舩煙雨 蕾がふくらみかけているのを初めて(orあらためて)しっかりと見掛けた時の嬉しさと読んだ。ゆったりとした調子で、開花を待つまでの暖かい気持ちそのままを思いだす。全てひらがなで来た直後のシンプルで力強い「桜かな」で、瞬間的に蕾をすべて脳内で開花させられてしまった。
未補 《桜》の蕾が開花しようとしているのか。すでに開いた花が満開へと、徐々に《ふくらんでゆく》のか。あるいは、《はじめて》というものが《ふくらんでゆく》のかもしれない。なにが《はじめて》なのか明示されていないことで、読み手それぞれの《はじめて》と、句の世界がリンクする。

時の日のさかさでもいいレントゲン  未補
小田桐妙女 さかさでもいいのは「時の日」か「レントゲン」か。砂時計のなかに時の日もレントゲンも入っていて、なんなら「さかさ」も入っている。すべてはことばの粒子である。それを逆さにするのは人だけとは限らない。鳥や雲や魚や風や花や月や、ゴリラかもしれない。口遊みは永遠に続く。
斎藤秀雄 言われてみれば《レントゲン》写真は上下逆でも差し支えないことが多いのだが、そうは言っても不思議である。この不思議な感触が上五へと遡り、中身の透けた時計が上下逆となって壁にかかっている景がみえる。ここからさらに漏刻が下から上へと逆流してゆく景も思われる。

揚羽蝶吾れに綺麗な刻を呉れ  宮中康雄
加能雅臣 《刻》は「とき」。「時」タイムではなく「秋」タイミングでもなく「期」ピリオドとも違う。《刻》は黒いイメージだ。「殺して呉れ」ということか。しかも《綺麗》に。汚く生きることを肯んじない魂がある。先日、数多の蝶の翅だけで出来た貼絵を見て、少したじろいだ。
小田桐妙女 真っ先に「吾れ」と「呉れ」の文字が記号のように目に入ってきた。それから意味を読んでゆく。作者は揚羽蝶が好きなのであろう。蝶が嫌いな人もいる。好きだから「吾れ」は揚羽蝶が綺麗な刻を「呉れ」たと感じたのだろう。今は画数の多い「揚羽蝶」と「綺麗」に目を奪われている。

蛍の夜やさしく殺してあげませう 森さかえ
竹岡一郎 蛍の一つ一つが各々一人の魂なのか、一人の魂が肉体の死後、幾つにも分裂したものなのか。掲句の場合、一人の魂が分裂して数多の螢になるような気がする。優しく殺すのは、じっくり殺すという事で、その殺しは、やはりお一人様限定だと思うからだ。
小田桐妙女 桂信子の「ゆるやかに着てひとと逢ふ螢の夜」、鈴木真砂女の「死なうかと囁かれしは螢の夜」、鎌倉左弓の「螢の夜何処も濡るることに慣れ」。「螢の夜」は情事の匂いがする。裸のまま丸まってものを書きたいものである。殺されるのは肉体か魂か、やさしく殺されるならそれもいい。

月並ではな梅干と古代米  森 誠             
早舩煙雨 梅干しと古代米がすばらしい二物衝撃(食べ合わせ)であること、調理も一種の詩的行為であることを気付かされる。どちらも乾物で植物の実であるという共通性も有り、梅干しと米は組み合わせとしてありふれているかもしれないが、それは良さの裏返しだと思う。
阪野基道 子どもの頃、お茶に梅干しを浸し、潰しながら食べた梅干しとお茶がとてもおいしかった。この句では古代米に添えた馥郁とした梅干しの食事が、月々の小さなハレの行事として、この家庭に息づいてきた。民俗的な歳時記のようで、いつまでも残しておきたい食事風景。

永く群れず遠く鳴かず水へ鳥  加藤知子
下城正臣 そういう鳥は多い。午前中や日中はまだいいが、夕方それらの鳥を見ると、身につまされる。遠く鳴かないならば、飛躍も難しいだろう。その鳥の習性と言えばそれまでだが、彼も老いたか。作者が詠まんとした景とは異なる拡大解釈である。
男波弘志 ふしぎな一行詩である。水の流れを只々眺めている浮遊感がある。畢りの水へ鳥が一句を完結させずに曳航している。鳥が水へ入水したとも読める。水が水へ入水している風景だとしたら、水も鳥ももうここにはない。死が死を、生が生を畢らせている。存在とはそういうものであろう。


広重 東海道五十三次のカードがやっと
当たりました!
でもね、これね
私は何度も出したのですがダメだったので
愚息の名前でだしたんですよね~
そしたら一発でした!

まだまだ永谷園のお茶漬は買うのです~
最近二枚重なりが増えてきました。




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2 コメント

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Unknown (クリン)
2023-03-08 09:39:14
カード当たって良かったですね!これからも全部息子さまのお名前のお力を利用するといいですよ🍀🍀✨✨
さすがに知青さまのところのみなさまは句作のレベルがひとひねり・いや、ふたひねりくらい効いた玄人な作品ばかりですね👑
クリンはしまもとさまの「かたくなに紳士つらぬく気かポスト」に勝手に一票入れさせていただきます🐻
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Unknown (知青)
2023-03-08 10:05:24
>クリンさんへ
コメントありがとうござます!

Weでは、優劣よりも多様な俳句を観たいなと思っています。

斎藤秀雄さんは、
莱浮さんのその句を川柳らしい川柳の一つに挙げて(莱浮さんのWe掲載・特別作品30句の中から)、

いっけん《ポスト》を異化しているように見えて、《紳士》という概念を異化しているようにも見える。どのような振る舞いが《紳士》であるのか。投函物を勝手に見ないとか、突っ込まれた手を舐めたりしないとかだろうか。人間椅子ならぬ人間ポストであれば、人家に侵入したりしないから、たしかに《紳士》かもしれない。

と鑑賞しました。

愚息はそういう利用の仕方しかないです(笑)
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