限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第303回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その146)』

2017-04-13 21:32:46 | 日記
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【245.両雄不並立 】P.3926、AD446年

『両雄不並立』(両雄、並[なら]び立たず)とは、広辞苑によると「英雄は二人両立することはできず、必ず争って、どちらかが倒れる」とある。そして、出典として『史記』巻97の酈生伝を挙げる。しかし、史記の該当部分を見ると字句が多少異なっている。「両雄不並立」ではなく「両雄不倶立」(両雄、倶[とも]には立たず)である。広辞苑だけでなく、『日本国語大辞典』(小学館)にも同じく「両雄、並び立たず」の項目が挙げられているが、出典は同く史記という。ついでに『中国故事成語大辞典』(東京堂)を見ると、ここでは「両雄、並び立たず」の項はなく、史記の出典の通り「両雄、倶には立たず」として項を立てている。

すると一体「両雄、並び立たず」とはどこから出てきたのであろうか?資治通鑑の巻124に、この表現が表われる。その部分を見てみよう。

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仇池出身の李洪は住民を集めて「ワシは王になる」と宣言した。これを聞いた梁会は恐れて 氐王の楊文德に救けをもとめた。楊文德は「両雄は並び立たないものだ。もしお前がワシに味方するつもりなら、まず李洪を殺せ」。そこで、梁会は李洪を誘いだして斬り、首を楊文德に届けた。

仇池人李洪聚衆、自言応王;梁会求救於氐王楊文德、文德曰:「両雄不並立、若須我者、宜先殺洪。」会誘洪斬之、送首於文德。
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資治通鑑のこの部分は、『魏書』巻51に拠っているがそこでは「両雄不並、若欲須我、先殺李洪」となっていて、「立」という字が無い。結局、二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)全体を検索しても、「両雄不並立」という句はここ、資治通鑑(巻124)の一ヶ所しか見えない。



ただ、史書以外で調べると、羅貫中の『三国志演義』(中国では、三国演義という)の第13回には「両雄不并立」の語句が見える。(「并」は「並」の異字体。)

それは、楊彪が横暴極まりない2人の将軍、李傕と郭汜を仲たがいさせて、相討ちさせようとたくらむ場面。楊彪は自分の妻を郭汜の妻の所に送って、郭汜が李傕の妻と密通しているとのニセ情報を流させた。そのガセネタを真に受けた郭汜の妻が夫に李傕を用心せよと勧めた。

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楊彪の妻が帰ろうとすると、郭汜の何度もお礼を言って別れた。数日して、郭汜がまた李傕の所での宴会に出かけようとすると、郭汜の妻は「李傕は腹黒い人です。ましてや「両雄、並び立たず」というではありませんか。もし、あなたが酒に毒を盛られて暗殺されれば、私はどうすればいいの?」。郭汜は取り合わなかったが、妻がしつこく言うのでとうとう宴会に行くのを止めた。夜になって李傕が宴会の食事を届けてくれた。郭汜の妻はひそかにそれに毒を盛って差し出すと、郭汜は喜んで食べようとしたが、妻は「外から来た食事を毒見しないで食べるものでしょうか?」と言って、まず犬に与えると、犬はたちどころに死んでしまった。この後、郭汜は李傕を疑うようになった。

彪妻告帰、汜妻再三称謝而別。過了数日、郭汜又将往李傕府中飲宴。妻曰:“傕性不測、況今両雄不并立、倘彼酒后置毒、妾将奈何?”汜不肯听、妻再三勧住。至晚間、傕使人送酒筵至。汜妻乃暗置毒于中、方始献入、汜便欲食。妻曰:“食自外来、豈可便食?”乃先与犬試之、犬立死。自此汜心怀疑。
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上に書いたように「両雄不並立」は一ヶ所しかないが、同趣旨の語句は二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)を検索するといくつか見つかった。
 ○『此勢不両雄』(史記。巻75)
 ○『両雄不倶立、両賢不並世』(史記。巻113、漢書。巻95)
 ○『一栖不両雄』(後漢書。巻72、資治通鑑。巻61)
 ○『両雄不倶処、功名不並立』(晋書。巻44)

ところで、上の『三国志演義』の文を読むと、だいたい漢文の語法で理解できることが実感として分かる。『三国志演義』は明代に書かれたが、『後漢書』や『三国志』の文をベースとしているため、擬古文とでもいう文体だ。しかし、明時代の口語はすでにかなり文章文とは乖離していた。このことは、300年ほど前の南宋時代に書かれた『朱子語類』を読めばよく分かる。『朱子語類』の文は私には禅の語録以上に分かりにくい。誰か『朱子語類』をオーソドックスな漢文に翻訳してくれないかなあ、と期待しているのだが。。。

【参照ブログ】
 想溢筆翔:(第54回目)『侮ってはいけない!四字熟語は由来を理解しよう』

続く。。。
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沂風詠録:(第285回目)『ブローデルの大著「物質文明」読書メモ・その3』

2017-04-09 20:14:40 | 日記
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【4】フォーク(1-1、P.236)

インド人は指を使って食事するのが一般的だ。日本人の感覚では、固形のものであれば(パン、お菓子、果物など)は指を使って食べるも差支えないが、カレーのような液状のものは手がべたつくので、いささか抵抗を感じる。しかし、逆にインド人は食べ物は舌の味覚だけでなく、手ざわりという触覚でも味わうべきだと考えているらしい。

ずっと以前(1984年)、アメリカ留学中にインド人の学生とプロジェクトを一緒にして、親密になり、アパートに呼ばれたことがあった。その時、数人のインド人学生もいたが、非インド人は私一人であった。普段は彼らもナイフとフォークで西洋式の食べ方をしているが、内輪の食事では、皆、指を使って食べていた。私も真似をしてみたが、まるで離乳食を食べる幼児のように、顔や手がカレーでべたべたになってしまった。アメリカの大学に留学するぐらいであるから、彼らは全員カーストの高いランクに所属するが、それでも指を使う習慣の方がよいと考えていることに驚かされた。

指を使って食べるというのは、現代ではインドの専売特許のように思われるが、歴史を見てみると、ちょっと前(100年~300年)までは東アジア(日中朝)を除き、全世界的な現象であった。ブローデルはその状況を次のように説明する。

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フォーク(はっきり言うがフォーク[食卓用の])やふつうの窓ガラス ― 両者はいづれもヴェネツィア伝来の品である ― も、16世紀および17世紀にはいまだに贅沢品であった。
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フォークのような単純な食事道具でさえ、贅沢品であったいうことに驚いてしまう。

この節では、スプーンやナイフに関する説明はないが、(手元に本がないので、確かなことは言えないが)木製スプーンはもう少し前からヨーロッパにはあったようだ。しかし、食卓にはスプーンは一つで皆で回し使いしていた。ナイフはフォークと同じ時期にはあったようだが、主人だけが持っていて、使うことができた。つまり、1700年ごろまではヨーロッパ人もインド人のように指を使って食事していたということだ。

それと比べると、中国では古代にすでに箸が発明されていたことは、次の有名な話からも分かる。

殷朝最後の王で暴君(と言われている)紂王が象牙で箸を作ったとき、賢人の箕子が「爲象箸、必爲玉杯」(象牙で箸を作ったのなら、器は必ず宝玉[jade]で作るに違いない)と嘆いた。箕子は、紂王が必ずや贅沢にふけるにちがいないと直感した。残念ながらこの不吉な予感は的中した。

中国文明の影響を強く受けた東アジアの国々は日本も含め、箸は早くから使われていたと思われる。そのせいであろう、日本人には指で食事をするのを忌避する心情はかなり根強い。



【5】窓ガラス(1-1、P.236)

さて、上の文で、ブローデルは窓ガラスも贅沢品であったと述べているが、その理由は材料費というよりカリウムを含むガラスの製造方法に難があったからだ、として次のように述べる。

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15世紀には、カリウムではなくてソーダを使って、透明度が高くて伸ばしやすい素材ができるようになった。そこでつぎの世紀(17世紀)には、加熱に石炭が使えたおかげで、窓ガラス製造がイギリスに広まった。
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つまり、草木を燃やして得ることのできるカリウムを含むガラスは、展性が足りないので、大きな板ガラスは作り難かったということが分かる。上の説明ではイギリスで板ガラス製造が盛んになったと述べるが、時代は下って明治維新前後は板ガラス製造の中心はフランスであったようで、(手元に本がないので確認できないが)明治初期の『米欧回覧実記』ではフランスのガラス工場を視察していた(との記憶がある)。

ところで、化学に関係する単語であるが、ここに出てくる、カリウムという単語は原文のフランス語では potasse (英:potash)となっている。日本語のカリウムはドイツ語からの輸入語であるので、ドイツ語を読んでいるぶんには化学用語は簡単に理解できるが、仏文や英文では都度、頭の中で変換しないといけない。

これに類する話だが、アメリカのCMU(カーネギーメロン大学)に留学したてのころ、教授の部屋でいろいろと質問された時に、「ところでメイトリックスは知っているだろうな?」と聞かれた。「メイトリックス?」初めて聞く単語なので、知らないと答えると、教授はとたんに失望した表情を浮かべ、「メイトリックスを知らないと、苦労するぞ」と小言を言いながら、黒板で説明してくれた。見ていると、行列のことなので、「それはマトリックスですね!」と私が言ったところ、同席していたもう一人の、オーストリア生まれの教授は膝を叩いて、「そう、我々はドイツ語でマトリックスと言っている」と助け舟を出してくれた。

普段は気づかないが、意外なところで学術用語は今なおドイツ語が健在なのである。

続く。。。
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想溢筆翔:(第302回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その145)』

2017-04-06 22:19:18 | 日記
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【244.徴発 】P.812、BC67年

『徴発』を「他人から物を強制的に取り立てること」と広辞苑は説く。しかし、辞海(1978年版)や辞源(1987年版)には「向民間徴集夫役及物品、以給公用」 (民間から夫役や物品を集め、公のために用いる)と説明する。つまり「官憲」が「強制力」を伴って徴収する意味であることが分かる。

二十四史では史記に一例あるが、本格的には漢書から使われていることが分かる。



資治通鑑で使われている場面は、武帝の時に法を勝手に解釈して、罪なき人をも陥れた、いわゆる酷吏の「舞文曲筆」の様を描いたもの。

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当初、武帝の治世下では、民から物品や賦役を徴発することがたびたびあって、庶民は落ちぶれ、疲弊してしまった。それで、食うにこまった民は已むにやまれず、犯罪を犯したが、その数甚だ多かった。それで、張湯や趙禹のような酷吏連中は法令の条文を追加した。例えば「見知故縦」(知人が犯罪を犯したのを見たにもかかわらず通告しなかった者を罰する)や「監臨部主」(監督不行き届きで犯罪者を見逃したものは、連連座させる)法律を作った。「深故之罪」(微罪にも拘わらず投獄された者)には罪を緩くしたが、その一方で、「縦出之誅」(取調べもせずに釈放された者)は厳しくした。

それからというもの、法の抜け穴を使って姦詐を働くものが増大した。禁止事項がやたらと増え、条文が複雑になった。それで、文書が役所に満ち溢れ、役人はとても全てに目を通すわけにはいかなくなった。いろいろな事件に対して、地方の役所の判断がばらばらで、ある地方ではOKでも、別のところでは罰せられるといったありさまだ。この混乱に乗じて、狡猾な役人は、賄賂を受け取り、裁判の結果を左右するようになった。この商売は結構繁盛した。賄賂を出せば、生きて出獄できるが、賄賂を渋ると死刑にされた。識者の中には冤罪だと嘆く人もいた。

初、孝武之世、徴発煩数、百姓貧耗、窮民犯法、姦軌不勝。於是使張湯、趙禹之属、条定法令、作見知故縦、監臨部主之法、緩深、故之罪、急縦、出之誅。

其後姦猾巧法転相比況、禁罔寖密、律令煩苛、文書盈於几閣、典者不能睹。是以郡国承用者駮、或罪同而論異、姦吏因縁為市、所欲活則傅生議、所欲陥則予死比、議者咸冤傷之。
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先ごろ(と言ってもすでに50年にもなるが)、文化大革命時に、冤罪に泣いた人が何百万人もいたことだろうが、その根源がすでに紀元前から延々と続く中国の伝統であることがこの文からも分かる。法の抜け穴を利用して、賄賂や甘い汁を吸うといった、いわゆる「腐敗官僚」も何も最近になってでてきたわけでもない、

中国の史書とともに、共産党内部の実態を生々しく描いたドキュメンタリー(例:『毛沢東の私生活』『周恩来秘録』『趙紫陽 極秘回想録』)を合わせて読むと、なぜ毛沢東が資治通鑑を17回も熟読したか、その心がよく分かる。今回の文に見るように、資治通鑑に現れる姦計・術数は 20世紀においても立派に通用するのだ。ビスマルクが言ったように歴史に学んだのはなにも「賢者」だけではないのだ。
(注:ビスマルクの言葉の正しい解釈については『社会人のリベラルアーツ』P.60 を参照のこと。)

続く。。。
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百論簇出:(第203回目)『リベラルアーツの取り組み方について』

2017-04-02 22:45:06 | 日記
ライフネット生命の出口会長と私が共同開催している「リベラルアーツ教育によるグローバルリーダー育成フォーラム」は先日(2017/2/11日) 18回目を迎えた。共同開催とはいえ、私も出口さんもそれぞれ講演スタイルに関しては自己流を貫いている。出口さんの講演テーマは紀元前3000年から現代までの「人類5000年史」だし、私はリベラルアーツに関して、そのつどトピックを変えて話をしている。また、出口さんは話すテーマのPPT資料を会場の入り口で配布しているが、私は、当日は何も配布せず、後日PPT資料をサイトにアップしてダウンロードできるようにしている。私も出口さんもどちらも方式を統一しようと言い出したことはなく、それぞれが自由(リベラル)にやりたいようにしている。

ありがたいことに毎回、80人~100人が参加されている。数多くの熱心な方々に出席して頂いて、開催者としては、うれしいと同時に責任感も感じている。さらに感謝しないといけないのは、フォーラムの最後に配布するアンケートにかなり多くの人がしっかりとコメントを書いて頂いていることだ。いろいろと要望はあるが、その一つに私の講演についての要望で、講演資料をあらかじめ配布して欲しいというものだ。この意見は、通常の教育現場であれば、確かにもっともなことだろう。実際、私もかつて、京都大学や他の大学で教えていた時には必ず、資料は事前配布していた。しかし、現在行っているこの種の講演や企業研修では、資料を事後配布することにしている。

何故か?その理由は、リベラルアーツというものの本質と密接に拘わっている。

世間の一般の理解ではリベラルアーツとは「教養的な知識をつけること」と理解されているようであるが、これでは中高校の詰め込み教育の延長に過ぎない。私が考えるリベラルアーツの心髄とは、まさしく「リベラル」という単語に重心がある。リベラルとは、自由の意味とともに「自立」というニュアンスを強く持つ。さらに「自立」的になるには、「健全な懐疑心」を持つということも非常に重要なファクターとなる。「健全な懐疑心」とはやみくもに人の揚げ足とりをしたり、逆に、人の言うことを無批判的に受け入れるるのではなく、「本当にそうなのだろうか?」「どうしてそう言えるのか?」「他に考えられないのだろうか?」など、人の意見をベースに自分なりに疑問を抱いて、自らの頭で考え、最終的に自分自身の意見をしっかり確立することだ。この「健全な懐疑心」を持つようにすることこそがリベラルアーツ教育の心髄なのだ。



現在の日本の中高校生の勉強は、勉強本来の意味を逸脱し、高校や大学の合格に焦点を当てた受験勉強になっている。そこでは短期間にたくさん覚えた者が勝者となる。その結果、余計なことは考えず、好き嫌いは度外視して、有用な情報をたくさん覚え込む、という習性が身にこびりついてしまっている人が多い。しかし、リベラルアーツの修得に際しては、このような習性は悪癖なのだ。覚えるという受動的な態度ではなく、個人個人がもつ目的意識、あるいは志向性に応じて、見聞きするものの中から、自分の感性にあったテーマを取捨選択すべきなのだ。

ところが、講演で資料が事前配布されていると、話を聞くよりも、得てして手元の資料を読んだり、メモをしっかり取ることに精神が集中されてしまいがちになる。そうなると、「メモは残ったが、心には何も残っていない」になりかねない。私が資料を事前配布しないのは、まさにこういったことがリベラルアーツの本質に抵触(contradict)すると考えているからだ。私が希望するのは、参加者が下を向いてメモをとることではなく、前を見て、私の話をじっくり聞いてもらうことだ。その結果、聞いたことの大半は忘れてもらっても構わないから、各人が自分の琴線(ハート)に響くものを掬いあげてもらいたい。

1時間足らずの講演のなかで、心に響くことがたとえ一言であったとしても、その一言でその人がある方向に動きだすことがあれば、それで私の使命は果たしているのではないかと思っている。一言でも各人が自分なりにしっかりと咀嚼し、その後の人生が有意義になる方が、たくさんの知識を詰め込んでみたものの未消化でいるよりもずっと良いことだと私は思っている。論語に、「過猶不及」(過ぎたるは猶[なお]及ばざるがごとし)という言葉あるが、知識においても活用せず死蔵している量だけを誇ることは問題がある。

【参照ブログ】
百論簇出:(第139回目)『チャート式脳の弊害』
百論簇出:(第187回目)『チャート式脳の弊害(補遺)』
百論簇出:(第194回目)『リベラルアーツ修得には仮説構築力』
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