「腕のよい外科医とは人を一番多く殺した人だ」というフレーズがある。真理だと思うが、いかにも剣呑な表現だ!しかし、このフレーズのいわんとする真意を理解するために、人殺しを「金脈探し」と読み替えてみることにしよう。そうすると、「金脈を探す名人とは一番多く失敗した人だ」となる。つまり、金脈を探す名人は、誰よりも一番多くカスの鉱山を掘った人である、ということが分かる。
なぜ、カスの鉱山を沢山掘ると、金脈名人になれるのか?それは、鉱山を掘る時には、やみくもに掘るのではなく、一応、金脈のありそうな場所を掘るだろう。つまり、「金脈がある場所にはこれこれの特徴がある」と、一応の仮説を立てて掘る。しかし、当たったらよいが、外れると、どこがまずかったのかを真剣に考える。当たった場合、外れた場合のそれぞれのケースを比べながら、考えると、その内に帰納的に金脈のありかが分かるようになるのだろう。
ここまでを前振りとして:
私は、現在リベラルアーツに関する講演や企業研修を数多く行っているが、そこで気づくのは、小学校から大学までの学校教育での優等生は必ずしもリベラルアーツの修得においては優等生ではないということだ。
学校教育では基本的には、教えられた範囲で理解し、記憶すればよい点が取れる。つまり、既に解答・結論が出ているテーマに関する記憶力が勝負の世界だ。一方、広大無辺の知識を対象とするリベラルアーツでは、何を覚えればよいかという手がかりすらつかめない。早朝に地元の漁師が砂浜にアサリやハマグリを撒いたものを掘りだす潮干狩りではなく、大海で本マグロを釣るようなものだ。獲物がどこに出没するのか予測がつかないのがリベラルアーツの学習だ。
とりわけ、私が提唱する「リベラルアーツとは、先ずは文化のコアをつかむこと」を目指そうとすると、各テーマに関して、正解は示されていないので、自分でいくつもの仮説を立ててみる必要がある。こうではないか、ああではないかとの仮説を考えて、その仮説の妥当性を自分でチェックする必要がある。つまり、文化のコアをつかむとは、科学や技術のように、万人共通の道具が存在しないなか、自分自身の勘と知識で解答を掘りだすことが求められている。
平たく言えば、リベラルアーツにおける優等生、あるいは進歩がみられる人というのは、いわばSF作家に近い性格や能力を持っている。小説家のように情緒的な空想(フィクション)ではダメだ。かといって、がちがちの論理思考でもダメだ。半ば空想、半ば論理の世界で、自分の持っている知識から妥当性のある仮説を構築し、その妥当性を探究する強い意欲を持っていなければならない。それも一回限りのまぐれあたりではなく、継続できなければならない。
その為には、強い好奇心と、はずれてもはずれても挫けずに次々と仮説を構築することを楽しみとする気持ちのゆとりがないと長くは続かない。この際、センター入試に満点をとるようなIQは全く必要ではない。そこそこのIQ(つまり、普通に社会生活がおくれる程度)があれば、あとは「好奇心・意欲」だけがリベラルアーツを修得できるかどうかを決める。喩えていえば、車で言うと貧弱なエンジンでも、ガソリンさえ満タンに積んでいれば、どこまでも走れるのと同じだ。
「リベラルアーツを征服できる人は、人より数多く仮説を作った人だ」と、このごろ思う。
【参照ブログ】
百論簇出:(第203回目)『リベラルアーツの取り組み方について』
なぜ、カスの鉱山を沢山掘ると、金脈名人になれるのか?それは、鉱山を掘る時には、やみくもに掘るのではなく、一応、金脈のありそうな場所を掘るだろう。つまり、「金脈がある場所にはこれこれの特徴がある」と、一応の仮説を立てて掘る。しかし、当たったらよいが、外れると、どこがまずかったのかを真剣に考える。当たった場合、外れた場合のそれぞれのケースを比べながら、考えると、その内に帰納的に金脈のありかが分かるようになるのだろう。
ここまでを前振りとして:
私は、現在リベラルアーツに関する講演や企業研修を数多く行っているが、そこで気づくのは、小学校から大学までの学校教育での優等生は必ずしもリベラルアーツの修得においては優等生ではないということだ。
学校教育では基本的には、教えられた範囲で理解し、記憶すればよい点が取れる。つまり、既に解答・結論が出ているテーマに関する記憶力が勝負の世界だ。一方、広大無辺の知識を対象とするリベラルアーツでは、何を覚えればよいかという手がかりすらつかめない。早朝に地元の漁師が砂浜にアサリやハマグリを撒いたものを掘りだす潮干狩りではなく、大海で本マグロを釣るようなものだ。獲物がどこに出没するのか予測がつかないのがリベラルアーツの学習だ。
とりわけ、私が提唱する「リベラルアーツとは、先ずは文化のコアをつかむこと」を目指そうとすると、各テーマに関して、正解は示されていないので、自分でいくつもの仮説を立ててみる必要がある。こうではないか、ああではないかとの仮説を考えて、その仮説の妥当性を自分でチェックする必要がある。つまり、文化のコアをつかむとは、科学や技術のように、万人共通の道具が存在しないなか、自分自身の勘と知識で解答を掘りだすことが求められている。
平たく言えば、リベラルアーツにおける優等生、あるいは進歩がみられる人というのは、いわばSF作家に近い性格や能力を持っている。小説家のように情緒的な空想(フィクション)ではダメだ。かといって、がちがちの論理思考でもダメだ。半ば空想、半ば論理の世界で、自分の持っている知識から妥当性のある仮説を構築し、その妥当性を探究する強い意欲を持っていなければならない。それも一回限りのまぐれあたりではなく、継続できなければならない。
その為には、強い好奇心と、はずれてもはずれても挫けずに次々と仮説を構築することを楽しみとする気持ちのゆとりがないと長くは続かない。この際、センター入試に満点をとるようなIQは全く必要ではない。そこそこのIQ(つまり、普通に社会生活がおくれる程度)があれば、あとは「好奇心・意欲」だけがリベラルアーツを修得できるかどうかを決める。喩えていえば、車で言うと貧弱なエンジンでも、ガソリンさえ満タンに積んでいれば、どこまでも走れるのと同じだ。
「リベラルアーツを征服できる人は、人より数多く仮説を作った人だ」と、このごろ思う。
【参照ブログ】
百論簇出:(第203回目)『リベラルアーツの取り組み方について』