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限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第134回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(その69)』

2013-09-05 07:14:48 | 日記
 『6.02 仁 - 中国人の考える仁とは何か?(その2)』

本場中国もそうだが日本でも英雄が割拠し、躍動する三国志の人気が高いが、その一つ前の時代、後漢は地味ではあるが、一つの精神的にエポックを画した時代であったと私は考えている。

以前のブログ 通鑑聚銘:(第55回目)『范滂の母の一言と蘇軾の母』 で述べたように後漢の時代は理念としての儒学がまだ本当の活力を保っていた。それを招来したのが、後漢の祖・光武帝(劉秀)である。元来、人の先頭に立って活躍するような積極性には欠けていたようだ。長兄の劉縯の挙兵に参画したが、その後、兄の劉縯を含め、実力者が次々と死んだので遂には皇帝位に就くことができた。しかし、後付(afterthought)を承知で言えば、華々しさはないが、劉秀の円満な人格が帝位を呼び込んだように私には思える。

その実例をいくつか挙げてみたい。

王莽が建国した新は赤眉の乱が起こるとあっけなく瓦解した。赤眉軍は快進撃を続け、長安に入城した。漢の血筋をひく劉盆子を皇帝に擁したが、元来が理念なき寄せ集めの農民兵であったため、統率がなかった。馮異の軍に破れて放浪していると、宜陽で突然、光武帝の大軍に出会いうろたえた。

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資治通鑑(中華書局):巻41・漢紀33(P.1310)

丙午、劉盆子と丞相の徐宣以下の30万人が光武帝に降伏した。持っていた伝来の国璽を光武帝に奉った。投降した者の武器を集めて宜陽城の西に積み上げたが、ちょうど熊耳山と同じ高さになった。赤眉軍は十万人ぐらいいたが、光武帝は料理係に命じて食事を作らせた。翌朝、雒水に兵士と騎馬兵を勢揃いさせて劉盆子とその家来たちに閲兵させた。光武帝は、劉盆子の大臣である樊崇に『降伏したことを後悔していないか?君たちを元の陣地に戻して、互いに兵を集めて太鼓を打ち鳴らして戦って、決着をつけようと思うがどうか?降参の無理強いはしないつもりだ。』ともちかけた。宰相の徐宣は頭を地面に打ち付けつつ(叩頭)『私たちは、長安の東都門を出てから、内部で協議をし、帝に降伏することに決めていました。そのことを全員に話すと収拾がつかないため、黙っていた次第です。今日、このように無事降伏できたことはまさに危ない虎の口から脱して慈母の懐に入ったような思いです。誠にこれ以上のうれしいことはありません。』光武帝は『君はいわゆる、鉄の中ではちょっと切れ味が良く、凡人のなかではちょっとましな部類だな。』

丙午,劉盆子及丞相徐宣以下三十餘人肉袒降,上所得傳國璽綬。積兵甲宜陽城西,與熊耳山齊。赤眉衆尚十餘萬人,帝令縣廚皆賜食。明旦,大陳兵馬臨雒水,令盆子君臣列而觀之。帝謂樊崇等曰:「得無悔降乎?朕今遣卿歸營,勒兵鳴鼓相攻,決其勝負,不欲強相服也。」徐宣等叩頭曰:「臣等出長安東都門,君臣計議,歸命聖徳。百姓可與樂成,難與圖始,故不告衆耳。今日得降,猶去虎口歸慈母,誠歡誠喜,無所恨也!」帝曰:「卿所謂鐵中錚錚,庸中佼佼者也。」

丙午,劉盆子、及び丞相の徐宣、以下三十余人、肉袒して降る。得るところの伝国の璽綬をたてまつる。兵甲を宜陽城の西に積む。熊耳山とひとし。赤眉の衆、なお十余万人。帝、県廚に命じて皆に食を賜う。明旦、大いに兵馬を陣して雒水に臨む。盆子の君臣に命じて、列しこれを観しむ。帝、樊崇らに謂いて曰く:「降を悔いなきを得んや?朕、いま卿を遣わして営に帰らしめ、兵を勒し、鼓を鳴らして相い攻め、その勝負を決せんとす。強く相い服するを欲せず。」徐宣ら叩頭して曰く:「臣ら、長安の東都門を出て、君臣、計議し、命を聖徳に帰せんとす。百姓はともに楽を成すべきもともに始をはかり難し。故に衆に告げざるのみ。今日、降するを得るは、なお虎口を去りて慈母に帰するがごとし。誠に歓、誠に喜。恨むところ無き也!」帝、曰く:「卿はいわゆる鉄中の錚錚にして、庸中の佼佼たる者なり。」
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劉盆子を擁した赤眉軍は光武帝の軍と何度も戦っている。そして必ずしも光武帝の軍の勝ち戦ばかりではなく、かなりの痛手を蒙っている。それでも、捕えた劉盆子やその臣下に対して寛仁の心で接するのが光武帝の人柄をよく表している。徐宣の『去虎口帰慈母』(虎口を去りて慈母に帰するがごとし)とは多少のへつらいはあるにしても、実感がこもっていると言えよう。


 【出典】博物控之漢光武帝陵

光武帝の寛仁の心はかつての部下で、反旗を翻した隗囂への対応においても見ることができる。

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資治通鑑(中華書局):巻42・漢紀34(P.1352)

隗囂が光武帝からの手紙に次のように返事した。『大勢の兵隊がやってきた、と聞いて役人や庶民が大混乱したので、私としても止めようがありませんでした。戦況は私の方に有利ですが、どうして陛下の臣下である節義を裏切り、陛下の軍を追い詰めることをしましょうか。そのむかし、賢帝の舜が父につき従っていた時、父が怒って大杖を振り回した時には逃げ走ったが、小杖を振り回した時には、黙ってその罰を受けたといいます。私・隗囂は知恵が回りませんが、この教えを守っています。今、私が陛下の臣であるかぎり、死ねと仰せになれば死にますし、罰を受けよと仰せになれば罰を受けます。ますます邪念を取り除き、死んでも骨が朽ちないような心境です。』官僚たちは、隗囂の手紙を読み、傲慢も甚だしいと怒り、隗囂の子・隗恂を見せしめに殺すべしと言った。光武帝は、かわいそうだと許さなかった。

隗囂上疏謝曰:「吏民聞大兵卒至,驚恐自救,臣囂不能禁止。兵有大利,不敢廢臣子之節,親自追還。昔虞舜事父,大杖則走,小杖則受,臣雖不敏,敢忘斯義!今臣之事,在於本朝,賜死則死,加刑則刑;如更得洗心,死骨不朽。」有司以囂言慢,請誅其子。帝不忍。

隗囂、上疏して謝して曰く:「吏民、大兵卒の至るを聞き、驚恐して自ら救う。臣・囂、禁止するあたわず。兵、大利ありても、あえて臣子の節を廃して、親しく自ら追還せず。昔、虞舜の父に事えるや、大杖には則ち走り、小杖は則ち受く。臣、不敏といえども、敢えてこの義を忘れんや!今、臣の事、本朝にあるは、死を賜われば則ち死し、刑を加うれば、則ち刑す。さらに心を洗うを得て死骨の朽ちざるがごとし。」有司、囂の言をもって慢とし、その子を誅せんこと請う。帝、忍びず。
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清の歴史家・趙翼の『二十二史箚記』の巻4に『光武多くを免ず』という文がある。劉秀(光武帝)は若いころ、騒乱のどさくさに普通人がさらわれてとしてこき使われているのをしばしば目撃したという。それで自分が皇帝になってからそういった無実の人たちの苦境を救うために頻繁に奴婢の解放の詔を発令した。とりわけ、建武11年の詔には孝経の孔子の言葉を引用し、『天地の性、人を貴しとなす。そのを殺すは、罪を減ずるをえず』(天地之性人為貴。其殺、不得減罪)との人権侵害することを厳しく咎めた。(後漢書・巻1下)

論語(巻3・公治長)に、孟武伯が孔子の弟子たちが仁であるかを問うたところ3人(子路、冉有、子華)のいずれも該当せず、とそっけなく答えている。仁という徳の基準は極めて高いということだ。本来の意味の仁は英語でいうと humanity あるいは philanthropy に該当し、かなり普遍性を持っていた概念であった。この本来の意味の仁を実践したのが、劉秀(光武帝)であり、その理念の普及に努力したのが、冒頭で触れた范滂をはじめとした後漢の儒者たちであった。

しかしながら、儒学が隆盛を極め、普及するにつれて、仁の影響範囲が次第に血縁関係の内に限定されるようになった。それと同時に血縁関係のない、外部の人間に対して無慈悲に振る舞うようになってきた。そして仁もそのような限定付の道徳理念にすり替わってしまった。中国の歴史、4000年を通観してみて、これが現代中国の全ての社会悪の元凶であると私は結論するに至った。

寛仁の人、光武帝は今でいうワークホリックであったようだ。毎日、早朝から政治をとり日没まで続けた。その上、たびたび夕刻以降に個別に人を呼んで議論した。健康を心配した皇太子の明帝が『もう少し仕事を減らしたら』と忠告したのに対して、『わしはこれが楽しみで、疲れなんか感じない』(我自楽此,不為疲也)と答えたと言われる。紀元57年、62歳で崩じた。(後漢書・巻1下・光武帝紀)

【参照ブログ】
 通鑑聚銘:(第6回目)『内通した将の手紙を読まずに焼く』
 想溢筆翔:(第67回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(その2)』

目次『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(序)』
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