限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第259回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その102)』

2016-06-09 20:20:49 | 日記
前回

【201.報復 】P.3760、AD423年

『報復』とは、現在では「仕返しをすること」(avenge, revenge)というような悪い意味でしか用いられないが、どうもそれだけではないようだ。辞海(1978年版)の『報復』の説明には「恩や怨みあるいは人から施しを受けたものに対して報いること」(恩怨並因人所施以為報也)とある。つまり「仕返し」という意味もあるが、その一方で「恩に報いる」という良い意味もあるということだ。

その一例として、たとえば《漢書》(巻64)に、朱買臣が、高官に至ってから故郷の村を訪問して、かつての知人や友人たちを宴会に招き、かつて受けた恩に対して恩返し(報復)をしたという文が見える(悉召見故人与飲食。諸嘗有恩者、皆報復焉)。ついでに言うと『報復』の二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)での初出はこの《漢書》である。



「仕返し」の意味での『報復』が資治通鑑で使われている場面を見てみよう。

414年、五胡十六国時代、南涼の3代目の王である禿髪傉檀は西秦王の乞伏熾磐に攻められ降伏した。熾磐は当初、傉檀を自ら郊外まで出迎えて歓待し、驃騎大将軍という極めて高い位を与えた。しかし、秘かに毒を盛って殺した。

傉檀の息子の虎台と娘は熾磐に従っていたものの、いつか父の仇を討とうと計画していたのであった。

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禿髪傉檀が死亡するや、河西王の蒙遜は傉檀の息子で、元太子であった禿髪虎台に密使を送って、「番禾と西安の二郡を与える上に、兵士を貸すから、西秦(熾磐)を討って、父の仇をとり、領土を取り戻す気はないか」ともちかけた。虎台は蒙遜と密約を交わしたが、それが熾磐の知るところとなった。西秦王の熾磐の后は、虎台の妹であった。熾磐は密約を知らないふりをして、今までどおり后と接していた。后は秘かに兄の虎台と謀議を巡らした。「西秦の熾磐は我ら兄妹の仇だ。アイツとは夫婦となってはいるが、これは便宜上だけのことだ。父は毒殺された。しかし、父は毒と知りながら解毒剤を飲まなかったのは、自分が死ぬことで子孫が守られると考えたからだ。しかし、人の子として、敵に臣として、また妻として仕えていても、報復を忘れていいものか!」そこで、武衛将軍の越質洛城と熾磐の暗殺計画を練った。さて、后の妹も同じく熾磐の左夫人であったが、この陰謀を知るや直ちに熾磐に密告した。熾磐は后と虎台ら、十数人を捕えて殺した。

禿髪傉檀之死也、河西王蒙遜遣人誘其故太子虎台、許以番禾、西安二郡処之、且借之兵、使伐秦、報其父讎、復取故地。虎台陰許之、事泄而止。秦王熾磐之后、虎台之妹也、熾磐待之如初。后密与虎台謀曰:「秦本我之仇讎、雖以婚姻待之、蓋時宜耳。先王之薨、又非天命;遺令不治者、欲全済子孫故也。為人子者、豈可臣妾於仇讎而不思報復乎!」乃与武衛将軍越質洛城謀弑熾磐。后妹為熾磐左夫人、知其謀而告之、熾磐殺后及虎台等十余人。
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禿髪傉檀の娘は、自分の父親殺しの仇敵である熾磐の后となったが、あたかも、淀君と秀吉の関係のようだ。しかし、淀君と異なり、后は夫の熾磐暗殺を兄と共に企んだ。その陰謀は、妹の口から熾磐に密告されたのであった。このような、どす黒く渦巻く陰謀の数々は、小説ではありふれてはいるが、実際ともなると、いつでも見られる事象ではなさそうだ。

続く。。。
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