限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

【麻生川語録・43】『知的関心係数』

2016-11-27 22:01:48 | 日記
良く知られているように、エンゲル係数というのは全生活費に占める食費の割合という単純な比で、家計の豊かさ/貧しさを表わすことができる。確かにこの指数は生活の状況の細部まで知ることはできないものの、家庭の状況をざっくりと知ることはできる。

この手法を流用して、人が知的に活き活きしているかどうかを示す指標を考え、「知的関心係数」と名付けた。
 知的関心係数 = (知識欲 / 蓄積された知識)



誰でも蓄積された知識は持っているので、分母がゼロになることはない。また、誰でも多かれ少なかれ何かを知りたいという欲望はあるので、この係数はゼロ以上の正の数値となる。もっとも、この係数は分母と分子の尺度(単位)が異なるので数学的に考えるとおかしいので、知識欲をたとえば過去1年間に蓄積された知識量と読み換えてもよい。(後の議論をし易しくするために、分子に適当な係数をかけて正規化しておくことにしよう。)

さて、新しいものごと(あるいは新しい恋人)に対して、始めのうちは強い関心をもつものの、知識が溜まってくるとその内に感心が薄れてくるのは人情だ。漢語では、このように徐々に減少することを「逓減」という。新しい物事だけでなく、歳をとってくると、分母の「蓄積された知識」は増えてくるので、以前と同じ知識欲であれば、この知的関心係数は相対的に小さくなる。この係数について、観念的に分母と分子の比を考えてみると、関心の度合いによって次の2つのケースが考えられる。
  知的関心係数 > 1.0  -- 歳とともにますます知識が増える
  知的関心係数 < 1.0  -- やがて物事・知識に対して不感症になる 


(上で述べたように、この係数は数学的には正しくないことを承知の上でいうと)関心係数が  1.0より小さい場合は、始めのうちは気付かないが、年とともに次第に物事に対して不感症になっていき、ついには自分の日常的な範囲以外のことに対して興味を持たなくなってくる。

それが最もよく分かるのは、何十年ぶりかで同窓会に出た時だ。学生時代には溌剌と活発な議論をしていた人でも、中年を過ぎて会ってみると、健康や年金など、老後の心配事や学生時代の昔話など、極めて陳腐な話題に終始する人がいる。上の図式でいうと本人が気付かないうちに、知的関心係数がいつの間にか 1.0 を下回っていたのだ。そういった生活を長らく続けていると、新たに知識が蓄積するどころか若い頃に蓄積した知識ですら徐々にぽろぽろと剥落して、中年になると知的には全く面白みのない、無惨な姿となってしまう。

後漢の武将・馬援の言葉に「老当益壮」(老いてはまさにますます壮(さか)んなるべし)と言うのがある。この言葉になぞらえて言えば、― 自分自身の励ましも込めて言うのであるが ―「老当益啓」(歳とともに知識が蓄積されればされるほど、より一層旺盛な知識欲を持つべし)。

本ブログのタイトルでもある「限りなき知の探訪」が看板倒れにならないように、体の健康だけに留意するのなく、知的にもいつまでも若々しく生きたいと願う。
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1 コメント

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ちょっと、違う (conny)
2016-11-28 15:46:48
もう、中年ではないですね。年金の年齢です。そこが、違う。
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