限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

百論簇出:(第217回目)『尊厳死の権利』

2018-02-04 18:00:56 | 日記
最近(2018/01/21)、保守の評論家である西部邁氏が「自裁死」したとの報道があった。多摩川での入水自殺だそうだ。私はクリスチャンでないので、自殺が必ずしも神に対する冒涜だとか、悪徳だとは思わない。ただ、(多分)入水自殺がかなりの苦しみを伴うものだと思うので、可哀そうだとおもう。

最近のブログ
【座右之銘・105】『Mendacium neque dicebat nequepati poterat』
に、古代ローマ有徳の士・アッティクスが人生の最後において、苦しみを逃れるために尊厳死を選んだと次のように述べた。

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アッティクスは大富豪であったにも拘わらず、最後まで質素な生活スタイルを変えなかった。老年(77歳)になって直腸ガン(?)の痛みに耐えきれなくなって、家族に餓死することを宣言し、飲食を一切断って5日後に逝った。誠に潔い人であった。自分の生に尊厳を持てる限り、精一杯生き抜いた(vixit)人であった。(合掌)
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自分の人生を途中で放棄したのではなく、精一杯、生き抜き、最後の段階で、不治の病による堪えがたい苦しみと、自分が人生で果たすべき役割を勘案して死を選んだということだ。



現在、欧米諸国ではキリスト教の伝統にも拘わらず、尊厳死(death with diginity, euthanasia)が認められている国、州がある。具体的には、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、スイス、カナダ、アメリカ(カリフォルニア州、オレゴン州、ワシントン州、コロラド州、バーモント州)。この考えは、「個人の自由」が何よりも貴いという彼らの伝統に根差しているように私には思える。よく見かけるように、病床では医師が本人の意志を無視して、勝手に不要な延命手術や延命治療をするが、西部氏はそういった「個人の自由」を侵害するような医療行為に対して断固反対したのだ。もし、尊厳死が認められる国であったなら、アッティクスのように、死に行く人が後に残る家族や友人に看取られてに安らかな最後を迎えることができたはずなのに、現在の日本では本人も苦渋の決断をし、残った者も事件性の死のために、警察やマスコミに対して、手間のかかる後始末をさせられる破目となってしまう。

日本の現行法律に尊厳死の条項がないのは、邪推すれば医師の儲け口をなくすことに医師会が反対しているように私には感じられる。死刑制度にしろ、尊厳死にしろ、現在の日本には死に対しては、極力議論を避けようとする風潮がある。何かと言えば、日本人は「ほっこりした」「気配り」を大切にすると言いながら、実態はそれに反することも多い。老老介護の問題もそうだが、社会全体にどこかしら、非常に非人間的な側面を感じる。

近年の働き方改革、生活保護、教育の無償化の議論にしてもそうだが、このような問題が持ちあがる都度、何らかの既得権益者の代弁者の見えない大きな圧力をかけて、結局、問題の本筋とは無関係な制度が出来上がり、本質がほとんど改善されないまま、不要なところに莫大な税金が投入されてしまう。高橋まつりさんや西部邁氏の死が犬死に終わらないように願う次第だ。
コメント
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