(前回)
【8】肉食の習慣(1-1、P.246-259)
一般的にヨーロッパ人は肉を主食とすると考えられているが、実態をみると案外そうではない。時代や地域によってかなりの差があるので、一概には言えないが、ざっくり言って、貴族や特権階級は別として、一般庶民は我々が想像するほど肉を食べていなかった。とりわけ16世紀半ばから19世紀半ばまではかなり少なかったようだ。
よく知られているように、土地の生産性を考えると肉を食べるより、穀物を食べる方が遥かに多くの人を養える。(ざっと数倍から10倍)従って、人口が増えてくると、肉は一層贅沢品となってくる。
以上の点を頭に入れて、ブローデルの記述を見てみよう
+++++++++++++++++++++++++++
1600年ごろ、高地ザクセン地方のマンスフェルトの銅山の労働者たちは、彼らの賃金をもってしては、パン・オートミール・野菜で我慢するほかなかった。そしてニュールンベルクの織物職人たちは、非常に恵まれた立場にいながら、1601年にこういう不平を漏らしている。すなわち、規定によれば毎日肉を貰えるはずなのに週に3回しか貰えなくなった、というのである。
+++++++++++++++++++++++++++
職人たちの不満の背景には、人口が増えてきたので、賃金よりも物価の上昇が激しかったということが分かる。この結果、「穀物の価格がむやみに高くなったので、余分な買い物をする金はなくなってしまった。肉の消費量はその後長期間にわたって減少の一途を辿り、それは1850年ごろまで続いたのである」とブローデルは説明する。
実際の庶民生活の様子を具体的な数値で見てみよう。
フランスでは1751年から1854年にかけて全国平均で、一人が一年に食べる肉の量は23.5Kgであったという。ただし、この数字は大目に見積もっていると考える学者もいるとのことだ。一年あたり23.5Kgの肉の消費量と言えば、下図から分かるように、日本人が昭和35年(1960年)に食べていた量より少ないぐらいだ。ちなみに、平成18年(2006年)には日本人平均の肉消費量は約140Kg。
出典:農林水産省のHPより
このような数字を裏付けるように、ブローデルは 1829年の記事から次のような文を引用している。
+++++++++++++++++++++++++++
フランスの9割の土地では、貧民と小農とが肉を ― それとて塩漬けの肉だが ― 食べるのは週に一回のことに過ぎない。
+++++++++++++++++++++++++++
フランスの隣国・ドイツでは肉の消費量は更に少なく、 19世紀初頭のドイツの全国平均では年間一人当り 20Kgに達しなかったという。ただし、ドイツも中世末期には肉を100Kgも食べていたということだが、内臓なども含んだ量を指すものと私には思える。
最後に、現在、酪農王国として世界第2の農産物輸出を誇るオランダ(ネーデルランド)の当時の状況を見てみよう。
前回(2017/04/30)のブログでオランダでは料理が文化ではなかったという留学生の率直な意見を紹介した。その情景を裏付けるような絵画をブローデルは取り上げている。そして、次のようなキャプションを付けている。
【Boerengezin aan de maaltijd(Farmer at the meal)、Egbert van Heemskerck ca. 1670】
+++++++++++++++++++++++++++
17世紀後半の農家でのこの食事には、肉抜きの料理が大皿ひとつに盛られているにすぎない。もっとひどい場合もあった。やはりオランダでも、粥の食事の情景がそれである。
エグベルト・ファン・ヘームスケルク(1610―1680)による油絵
+++++++++++++++++++++++++++
この絵画が実情を正確に描写しているなら、オランダの貧民はかなり貧しい食生活を送っていたことになる。それでは、裕福な人はどうしていたのであろうか?ブローデルの言うところによると、食事が文化でなかったオランダでは裕福な人も同じく貧しい食事内容であったようだ。
+++++++++++++++++++++++++++
オランダでは、有産市民からして質素な暮らしをしていた。もちろんオランダの民族料理である《hutsepot》(英:hodge-podge)には牛なり羊なりの肉が入っていたが、細かく刻んであって、必ず惜しみ惜しみ用いていたのである。夕食はパンの残りを牛乳に浸したスープだけという場合が多かった。
+++++++++++++++++++++++++++
ところで、幕末に幕府からオランダに派遣された軍人に赤松則良という人がいる。
赤松は若いころ(14歳)からオランダ語を学び、また長崎の海軍伝習所にて操船に習熟した。1859年には咸臨丸に乗ってアメリカを往復した。幕臣として、幕末(1862年から1868年)に幕府の給費性としてオランダに留学した。このように、欧米に関してかなりの経験と知識を有していたため、幕臣であったにも拘らず、明治政府でも重用されて海軍中将まで出世した。晩年になって体験談をまとめ『赤松則良半生談』(平凡社東洋文庫)として公刊した。オランダ滞在やヨーロッパの他国の様子がかなり淡々とした筆致で描かれている。その一節に、イギリスへ旅行した時、イギリスではあらゆる点において贅沢であることにびっくりしたようだ。赤松は心の中で、「オランダ人は何と質素な生活をしているのだろう!」と感嘆の声を上げたに違いないと想像する。
(続く。。。)
【8】肉食の習慣(1-1、P.246-259)
一般的にヨーロッパ人は肉を主食とすると考えられているが、実態をみると案外そうではない。時代や地域によってかなりの差があるので、一概には言えないが、ざっくり言って、貴族や特権階級は別として、一般庶民は我々が想像するほど肉を食べていなかった。とりわけ16世紀半ばから19世紀半ばまではかなり少なかったようだ。
よく知られているように、土地の生産性を考えると肉を食べるより、穀物を食べる方が遥かに多くの人を養える。(ざっと数倍から10倍)従って、人口が増えてくると、肉は一層贅沢品となってくる。
以上の点を頭に入れて、ブローデルの記述を見てみよう
+++++++++++++++++++++++++++
1600年ごろ、高地ザクセン地方のマンスフェルトの銅山の労働者たちは、彼らの賃金をもってしては、パン・オートミール・野菜で我慢するほかなかった。そしてニュールンベルクの織物職人たちは、非常に恵まれた立場にいながら、1601年にこういう不平を漏らしている。すなわち、規定によれば毎日肉を貰えるはずなのに週に3回しか貰えなくなった、というのである。
+++++++++++++++++++++++++++
職人たちの不満の背景には、人口が増えてきたので、賃金よりも物価の上昇が激しかったということが分かる。この結果、「穀物の価格がむやみに高くなったので、余分な買い物をする金はなくなってしまった。肉の消費量はその後長期間にわたって減少の一途を辿り、それは1850年ごろまで続いたのである」とブローデルは説明する。
実際の庶民生活の様子を具体的な数値で見てみよう。
フランスでは1751年から1854年にかけて全国平均で、一人が一年に食べる肉の量は23.5Kgであったという。ただし、この数字は大目に見積もっていると考える学者もいるとのことだ。一年あたり23.5Kgの肉の消費量と言えば、下図から分かるように、日本人が昭和35年(1960年)に食べていた量より少ないぐらいだ。ちなみに、平成18年(2006年)には日本人平均の肉消費量は約140Kg。
出典:農林水産省のHPより
このような数字を裏付けるように、ブローデルは 1829年の記事から次のような文を引用している。
+++++++++++++++++++++++++++
フランスの9割の土地では、貧民と小農とが肉を ― それとて塩漬けの肉だが ― 食べるのは週に一回のことに過ぎない。
+++++++++++++++++++++++++++
フランスの隣国・ドイツでは肉の消費量は更に少なく、 19世紀初頭のドイツの全国平均では年間一人当り 20Kgに達しなかったという。ただし、ドイツも中世末期には肉を100Kgも食べていたということだが、内臓なども含んだ量を指すものと私には思える。
最後に、現在、酪農王国として世界第2の農産物輸出を誇るオランダ(ネーデルランド)の当時の状況を見てみよう。
前回(2017/04/30)のブログでオランダでは料理が文化ではなかったという留学生の率直な意見を紹介した。その情景を裏付けるような絵画をブローデルは取り上げている。そして、次のようなキャプションを付けている。
【Boerengezin aan de maaltijd(Farmer at the meal)、Egbert van Heemskerck ca. 1670】
+++++++++++++++++++++++++++
17世紀後半の農家でのこの食事には、肉抜きの料理が大皿ひとつに盛られているにすぎない。もっとひどい場合もあった。やはりオランダでも、粥の食事の情景がそれである。
エグベルト・ファン・ヘームスケルク(1610―1680)による油絵
+++++++++++++++++++++++++++
この絵画が実情を正確に描写しているなら、オランダの貧民はかなり貧しい食生活を送っていたことになる。それでは、裕福な人はどうしていたのであろうか?ブローデルの言うところによると、食事が文化でなかったオランダでは裕福な人も同じく貧しい食事内容であったようだ。
+++++++++++++++++++++++++++
オランダでは、有産市民からして質素な暮らしをしていた。もちろんオランダの民族料理である《hutsepot》(英:hodge-podge)には牛なり羊なりの肉が入っていたが、細かく刻んであって、必ず惜しみ惜しみ用いていたのである。夕食はパンの残りを牛乳に浸したスープだけという場合が多かった。
+++++++++++++++++++++++++++
ところで、幕末に幕府からオランダに派遣された軍人に赤松則良という人がいる。
赤松は若いころ(14歳)からオランダ語を学び、また長崎の海軍伝習所にて操船に習熟した。1859年には咸臨丸に乗ってアメリカを往復した。幕臣として、幕末(1862年から1868年)に幕府の給費性としてオランダに留学した。このように、欧米に関してかなりの経験と知識を有していたため、幕臣であったにも拘らず、明治政府でも重用されて海軍中将まで出世した。晩年になって体験談をまとめ『赤松則良半生談』(平凡社東洋文庫)として公刊した。オランダ滞在やヨーロッパの他国の様子がかなり淡々とした筆致で描かれている。その一節に、イギリスへ旅行した時、イギリスではあらゆる点において贅沢であることにびっくりしたようだ。赤松は心の中で、「オランダ人は何と質素な生活をしているのだろう!」と感嘆の声を上げたに違いないと想像する。
(続く。。。)