限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

百論簇出:(第201回目)『物(ブツ)からつかむ文化のコア』

2017-02-26 14:53:07 | 日記
私のリベラルアーツ観に関しては、すでに幾つかのブログや、一昨年(2015年)に出版した『本物の知性を磨く 社会人のリベラルアーツ』に詳しく述べている。その中でも、私が強調したいのは、次の一節だ(P.116):
 通常、日本の文化や社会問題を考える時に、神道、仏教、儒教といった思弁的なもの、つまり思想・哲学・宗教・社会科学の観点から考えがちである。しかし私はそれよりも、日本人が得意とする手を動かした工芸や技術からのほうがよく分かると考えている。その理由は、日本文化の本質は物(ブツ)に色濃く反映されているからである。

しかし、残念ながらリベラルアーツを修得しようとする人々の中でこの点に関心をもつ人はあまり多くないように思える。ところが、数年前に私のこの考えと同じ視点で各国の文化のコア(真髄)をつかまえようとしていた人がいることを知った。その人とはフランスの大歴史学者のフェルナン・ブローデル(Fernand Braudel)だ。おこがましいのを重々承知で、彼と私の視点がどのように似ているかについて紹介したい。

先日のブログ
 沂風詠録:(第280回目)『弘法に非ざれば、筆を選ぶべし』
でも書いたように、現在、ブローデルの大著『物質文明・経済・資本主義―15-18世紀』を読んでいる。
(私の読書メモは ブログ記事として沂風詠録『ブローデルの大著「物質文明」読書メモ』として現在連載している。)

読みだしてからすぐに非常な親近感を感じた。それは、彼の視点が私の視点に非常に似ているからだ。ブローデルのこの本は 15世紀から18世紀のヨーロッパの歴史について書かれているが、取り上げられているテーマはどれも人々が日常的に使っているもの(例:食物、酒、服、塩、暖炉など)がほとんどだ。通常、歴史と言えば「砂をかむように味気ない」年号や王や政治家、体制・制度などの名前のオンパレードである。暗記モノが至って苦手な私などは辟易してしまう内容のものが多い。ところがブローデルのこの本にはそういうものに関する記述は必要最低限にとどまっている。その上、生活実態を記述する態度にしても、通常の本に取り上げられているような、王侯貴族、あるいは文人のような社会のごく一部の特殊層ではなく、もっぱら一般庶民の生活実態に焦点を当てて、ヨーロッパの隅々に至るまで目が行き届いている。さらには、それ以外の地域にも言及されていることも多い。



たとえば、『日常性の構造』(日本語訳・6分冊の第1冊目)の第4章では、服装の流行について延々と述べられている(日本語訳の1-1、P.420から 30ページ分)。そこには、ヨーロッパ近代の人々が服装(それに髪形、ヒゲ)の流行をいかにやっきになって追いかけていったかに関して数多くの実例が紹介されている。彼の意図は、単に「ヨーロッパ各地には、こういう流行がありました」と紹介することではなく、ヨーロッパとそれ以外の地域(具体的にはイスラム圏、中国、インド、それに我が日本も!)と比較することで、ヨーロッパ人の流行に対する熱意のバカバカしいさを示すことにあった。

そもそも、服というのは暑さ・寒さから身を守るという主目的が達成できれば事足れり、のはずが近代のヨーロッパ人はそれに満足が出来ず、服本来の目的・用途から逸脱した服飾流行という虚像を熱心に追い求めたのだった。彼の感性の鋭さは、一見バカバカしく見える服装の流行という現象から、ヨーロッパ人のイノベーション能力(新規性・想像力)の高さを見抜いたことだ。(P.438、P.439)つまり、服という物(ブツ)を各文化圏をまたがって比較してみると、実に大きな差異が見られると指摘する。何故、そのような差異が生まれるに至ったかという点をブローデルは考察し、そこに各文化圏のもつ文化コアの本質的な差を見つけたのだ。

私は、図らずもブローデルを読むことで、従来からの私の主張である
 「物(ブツ)から文化のコアをつかむことが可能であり、同時に、文化の本質的な差を理解するためには必要不可欠の作業である」
ことを確信できた次第だ。
コメント
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