限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第245回目)『真夏のリベラルアーツ3回連続講演(その33)』

2014-08-03 13:17:45 | 日記
前回

 『TOEIC英語ではなく、多言語の語学を(16)』

【2.古典ギリシャ語・ラテン語の語彙と文体(その6)】

ラテン語は言わずとしれたローマの言葉であり、最終的にはローマ帝国(つまり現在のヨーロッパ全域)に通用する言葉となった。その結果、ヨーロッパでは、約1500年近くもわたり、本国のイタリアも含め、どの国もラテン語と母国語の二重言語体制下にあった。それで、ラテン語の単語や文体は、もはやかれらにとっては母国語の一部になっている。それはあたかも日本語に、本来は異分子の漢語がもはや母国語そのものとして溶け込んでいるようなものだ。

さて、以前のブログでも紹介したが、英語の単語の由来(語源)の分布を調べたものがある。(本来語と借入語の分布に出身別調べ、『現代英語学辞典』(成美堂,1973) p.993))



これをみると、英語の単語には数多くのラテン語系(ラテン語、フランス語、イタリア語、スペイン語)の単語が入っていることが分かる。ラテン語系の言語(専門的にはロマンス語という)の語彙の大半はラテン語からの借用語であるから、結果的に英語の単語の約半分はラテン語からきている。一方、ギリシャ語語源の英単語は5%にすぎない。単語の重要度を度外視して、単に数量的観点から言うと、英語におけるラテン語の比重はギリシャ語より遥かに(10倍程度)高い。

統計資料を持たないので、私の経験でしか言えないが、他の言語についてもラテン語語源の語彙はギリシャ語語源よりもかなり多い。しかし、ラテン語の語彙の占める割合は、ロマンス語の方がゲルマン語(ドイツ語、オランダ語、デンマーク語、スウェーデン語、ノルウェー語など)よりも遥かに多い。端的にその事実を表わしているのが次の表だ。


この表は私の手持ちの辞書で、いくつかのゲルマン語系の言語とロマンス語のCの項とKの項のページを比較したものである。明らかに、ロマンス語ではCの項が多く、Kの項はほとんどない。一方、ゲルマン語系ではCの項はかなり少ない。「か行」の発音をCで書くか、 Kで書くかという単純な所にも、ラテン語の影響が濃厚なロマンス語とそうでないゲルマン語系の差が垣間見える。



さて、ラテン語の文体に関していえば、以前のブログ
 沂風詠録:(第231回目)『真夏のリベラルアーツ3回連続講演(その19)』
で述べたように日本語と類似点が3つある。
 (1)否定辞が文末の近くにある。
 (2)動詞が文末にある。
 (3)冠詞(不定冠詞、定冠詞)がない。

とりわけ(3)にあるように、西洋語なのに冠詞が無い、という事実を知ると、TOEICやTOEFLなどの英語の文法テストに日夜悩まされ続けている人にとっては、「私の苦労は一体何だ?」と怒りたくもなるだろう。英文法の本では、冠詞の機能をこと細かく分析し、得々と説明しているが、冠詞のないラテン語が1500年にもわたって何らの問題もなく、ヨーロッパの学術用語として使われ続けていたことを考えると、ヨーロッパ語は本来的に冠詞など無くとも意味を充分通じることができるのだ、と分かる。私は『冠詞とは単なるアクセサリーに過ぎない』と理解すべきと考える。

これはあたかも漢文(文言)や現代中国語のように孤立語でありながら意味が充分通じることから考えると、日本語のように数多くの助詞がなくともよい、という議論に近い。確かに論理的にはその通りだが、少しニュアンスが異なるように思える。直接的に説明するのは難しいので、音楽(交響曲)を例に取って説明したい。

クラシック音楽の中で交響曲というのがある。通常はフルのオーケストラで演奏されるが、たまにピアノ1台あるいは2台用に編曲されたものが演奏されることもある。メロディラインや基本となる和音は同じなので、どの曲なのかは分かる。しかし、ピアノだけの交響曲はオーケストラバージョンに比べてやはり重厚感に欠ける。言語で言うと、漢文や中国語はピアノバージョンの演奏であり、日本語はオーケストラバージョンの演奏に匹敵しよう。この比喩でいうと、冠詞のありなし、というのはあたかも、オーケストラにピッコロのあり(冠詞あり)、無し(冠詞なし)のように、さしたる違いは感じられないように私には思える。

さて、前回まではギリシャ語の文体についていろいろと述べたので、これから暫くはラテン語の文体について述べてみたい。

上で述べたようにラテン語は日本語に近い要素はあるものの、全般的な印象からいえば漢文に近い。以前紹介したように、高津春繁氏は『ギリシャ語は柔軟であるが、ラテン語は堅苦しい』と述べていたが、実際、ギリシャ語が木組みの砦であるとするなら、ラテン語の文章は熊本城の石垣のような堅牢さと構築美を感じる。

この理由を私なりに考えてみると:
 (1)ギリシャ語には小辞(particles)があるが、ラテン語にはない。
 (2)ギリシャ語には冠詞があるが、ラテン語には冠詞がない。
 (3)ラテン語(特に古典ラテン語)では奪格を多用する。


これらの要素があるとどうして堅いと感じるのかというと:

(1)古典ギリシャ語の文というのは(散文しか知らないので韻文は対象外とするが)、書き言葉であっても非常に口語的な要素が強い。散文の最高傑作、神がプラトンの口を借りてしゃべった、と絶賛されるプラトンの対話編も実際に読んでみると、まるで落語の速記録のように、口語体丸出しの文章だ。また、万学の祖といわれるアリストテレスにしても、今我々が目にするのは講義の草稿といわれるが、これにしても、放送大学の速記録のような感じで、文語文ではなく、人に語りかけているようだ。たとえば日本語で『えーっと。。。』、『あら、まあ。。。』とか『おやおや。。。』のような口語体特有の『合いの手』があるが、がギリシャ語の文章には頻出する。実際、ほぼ全ての文に『小辞』と呼ばれる、何らかの『合いの手』の単語(例:δε,δη, γαρ,τε...)が見られる。ラテン語にはこの手の不要な語句は(私の経験では)まるっきり見かけることがない。

(2)冠詞は文法的にはあまり意味がないと述べたが、文体的観点から言うと、上の小辞同様、単語の『間』を取るのに非常に都合がよい。実際、英語なりドイツ語、フランス語のネイティブスピーカーが文章を考えながらしゃべっているときには、冠詞を言いだしてから次の単語を探している光景によく出くわす。冠詞がないラテン語にはこの『間』がなく、単語が密に詰まっている。この状態を緊迫感あり、と肯定的にとらえるか、それとも、単語がギシギシ詰まっていて息がつまりそう、と否定的にとらえるかは個人の嗜好の問題だろう。

(3)ラテン語は紀元前5世紀ごろから2000年以上にもわたって使われ続けたが、この間に文体はかなり変わっている。専門的に調べたわけではないが、キケロやセネカなどの古典作家と比較すると、近世のニュートンやデカルトのラテン文はまるで、近代の英語やフランス語のように(前置詞+名詞)を多く使う。しかし、古典作家ではそういうケースに奪格を使う場合も多い。つまり、2語が1語となる訳だが、前置詞がなく突如として名詞だけがぽつんと登場する。本来、格変化とはこうした手法を実現するためにあるのだが、奪格を多用するラテン語は固い文体のように映る。これも好き嫌いは個人の嗜好の問題だろう。

今回、ラテン語の文法を説明せずにいきなり文体の話をしたが、それは次回以降の実例で理解してもらえると期待している。

続く。。。
コメント
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