限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第89回目)『私の語学学習(その23)』

2010-09-28 16:32:39 | 日記
前回から続く。。。

【ドイツ語でセネカを愛読する】

レクラム文庫では、ラテン語+ドイツ語の対訳本が当時(1978年)もかなり出版されていた。もちろん現在に至るまでその出版数は牛歩の歩みではあるが着実に増加している。これには岩波文庫同様、私は感謝しきれないほどの恩恵を蒙っている。

そのレクラムにはキケロ(Cicero)の訳が多かったが、次いでセネカ(Seneca)の訳が多く出版されていた。帰国後すぐに読み始めたのが Vom glueckseligen Leben und andere Schriften (幸福な生活について、その他)であった。私はこれを読み出すまでは、ショーペンハウエル (Schopenhauer) やモンテーニュ (Mongaigne) によってローマの哲人については多少はなじみを感じていたが、セネカを直接読むというのは、そういった概要では到底感じられない迫力を感じた。先ず文章が堂々としているのだ。一見傲慢不遜に思えるような意見もセネカの筆にかかると、論理に隙がなく、反論の余地が一切ないように見える。つまり、コンテンツもさることながら、人を納得させるに適した論述のしかたでぐいぐい押してくるのが感じられた。


 【出典】Wikipedia セネカ

セネカの属する派は世間ではストア学派とよばれ、後年英語でストイックの語源となった学派である。このストア学派は紀元前後の数百年、ローマの知的エリートを完全に虜にしたいわば新興哲学であった。創始者はゼノン(Zenon)と呼ばれているギリシャ人であった。私の理解する限りでは、ゼノンの主張は、世の中の出来事の善し/悪しはその物事自体に付随しているのではなく、人々の感情に拠っている。従って、世の中に不平を抱かないようにするには、自分の精神を理性的(論理的)にコントロールすることが一番の幸福につながると考えた。つまり彼の哲学(ストア学派)のポイントは理性と克己心である、と私は理解した。ストア派を代表する哲人にセネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウスがいるが、私はセネカの表現が一番しっくりときた。

セネカの思想は、私には西洋版・荘子と写った。荘子と言えば世間の煩わしさを避ける、退嬰的思想の持ち主のように世の中では解釈されているが、私の理解では、荘子の本質は極めて論理的に世の中を解釈する点にあると思っている。彼の考える論理的な世界観があまりにも現実と乖離しているので、嫌気がさして逃避的態度を示したものだと考える。この点ではローマのエピクロス派と同じ発想だ。一方ストア派は、原則として賢人はよほどのことがない限り現実の政治に積極的に関与していく方針を取っていた。しかし、セネカの晩年がいみじくも示しているように、世の中の変化に従って隠棲する生活も必ずしも否定的には捉えられていない。

レクラム文庫にはセネカがほとんど全部ドイツ語に翻訳されて収められている。このドイツ語訳は私にとっては分かりやすく、あたかもセネカがドイツ語で直接話しかけてくれているように思えた。この場合も先のキケロを読んでいた時と同様、気にかかった語句があれば、ラテン語の部分をチェックしていた。そうこうしている内に徐々にではあるが、ラテン語をものにしたい、という欲求が強まるのを感じた。しかし、当時(1978年)、同じ下宿に文学部哲学科の博士課程に在学している人がいたので、このことを話すと、『ラテン語5年、ギリシャ語10年はかかる』と言われた。この言葉にしり込みをして、その後ずっと願望は抱きつつも、この二つの古典語には踏み出せなかった。その呪縛が取れたのはそれから20年近く経った1999年のことである。この点に関しては後日述べたい。

このようにドイツ語を一生懸命勉強したものの、いわゆるドイツ文学はヘッセやゲーテを少し読んだだけで、他の作家はほとんど読んでいない。私にとってのドイツ語というのは、結局ギリシャ・ローマの文物を読むための媒介手段であったのだ。それともう一つは、近代言語学の大きな成果である、印欧語の語源を調べるときにゲルマン語系統の単語を理解するために役立ったことである。

世の中では、『使える語学』という観点で語学を学ぶ人が多い。私もこの観点は否定しない。しかし、ただそれだけでは私にはインセンティブが足りない。私がドイツ語の学習を通して自分自身でも分からなかった私の語学学習の動機は、『その言語で読みたい本がある』という事と『語源への興味』だと分かった。この点を明確に確信してからは、私の語学の取り組みは古典語へと遡っていくことが運命づけられた。

しかし、古典語へ取り組む前に、いくつかの紆余曲折が横たわっていた。それは『漢文をすらすら読める』という事と『本格的に英語をマスターする』の2点であった。

続く。。。
コメント
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