先週、さつき園の利用者○○さんから携帯に電話がありました。
「はい、古川です」
「あー、○○じゃけどー」 「おー、○○さんかねー」
「うん、〇〇です」 「おー、元気かねー」
「うん、元気よー」 「そりゃーよかった。で、どうしたんね。何かあったんかねー」
「いいや、なんもないけど、コロナがはやっとるけー、心配じゃったけー電話したんよ」
「おーそうかそうか。そりゃーありがとね。今、コロナがえらいはやっとるけぇねー。心配してくれてありがとね」
「うん、用心しんさいね」 「はい、用心しますよ。○○さんも気をつけんさいよ。マスクしちょるかね」
「うん、マスクしちょるよ。古川さんも気をつけてね」 「はい、気をつけるよ。電話、どうもありがとね」
「じゃーね。古川さん、気をつけてね。さいなら」 「はい、さいなら。○○さんも元気でな」
「はい、ありがとう。さいなら……」
安心したように、○○さんは電話を切ります。
ずっと前から、○○さんは台風が発生するたびに、「園長さん、台風が発生したよ」と言って、休みの日でもよく携帯電話で私に教えてくれていました。それも遥か遠くの南の海上に発生した台風で、その進路がまだどうなるかは分からないような時でも電話をしてくれていたのです。私は、その電話の最後の「園長さんも気をつけてね」という言葉を聞くたびに、○○さんの心根の優しさをしみじみ感じていました。
ところがその日はもう一つ、思いがけず「しみじみ」したことがありました。
それは、これまで私のことを「園長さん」と呼んでいた○○さんが、その電話では「古川さん」と呼んだことです。
携帯電話の先で、○○さんが私を「古川さん」と呼ぶのを聞いて、私はこれまで長年慣れっこになっていて、私自身は園長と利用者という関係に拘泥してはいなかったけれど、○○さんたち利用者からすれば対等な関係ではなく、極端に言えば、この人の言うことは嫌でも従わなくてはならないという関係なのだ、と無意識のうちに感じていたのではないか、と思い至りました。
○○さんは周りの誰かから「もう園長さんじゃないんじゃけ―、園長さんちゅうて呼んじゃぁいけんのんよ。古川さんなんよ」と言われたのかもしれません。が、よくぞ「古川さん」に、これまでと同じように電話をしてくれたものだと、しみじみ○○さんに感謝したことでした。
成人の障害者を呼ぶのに「~ちゃん」と呼んだり、名前の呼び捨ては止めよう。子ども扱いは止めて、まず名前の呼び方から直して、その人たちの人権を尊重しよう……。私はこれまで至る所で、ことあるごとにそう発言して来ました。
今、「園長さん」から「古川さん」に戻った私と○○さんたちとの関係は、お互いに「○○さん」「古川さん」と呼び合う、一個人同士の関係になったのです。
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