先週末、医療的ケア児の支援を考えるフォーラムにオンラインで参加した。
いろいろ考えるところがあった。
「医療的ケア児」と呼ばれている子どもたちがいることは知っていたが、こうしたフォーラムに参加したことはなかった。私は、こうした子どもたちのことを知り始めた頃、医療的ケア児のことを関係者が略して「医ケア児」(いけあじ)と呼んでいるのを耳にして内心驚いて、不快に感じたことを覚えている。
私の経験から言えば、思えばおよそ50年前に、社会の片隅で秘かに登場した重症心身障害児と呼ばれる子どもたちは、先駆的にその医療・福祉・教育等に関わる人たちから、そして彼らの親たちからも、当時から「重症児」(じゅうしょうじ)、あるいは「重心」(じゅうしん)などと略して呼ばれていた。しかし、私は「重症児」と呼ぶのはともかく、「重心」と略すのはどうかと思っていた。ことは物理の話ではないのだから。なのに、話が早いからと思うのか、関係者の多くは彼らのことを「重心」「重心」と呼んでいた。
「重心」という言葉から、いったい社会の中の誰が「重症心身障害児」を思い起こすだろうか。
同様に今、「医ケア児」と聞いて、いったい社会の中の誰が「医療的ケア児」を思うだろうか。
社会を甘くみてはいけない。社会に馴染みのない言葉を、しかもそれを略して使い、社会に理解を求めることなどできない。
いや、それ以上に、「医ケア児」と呼ばれている当の子どもたち本人がどう感じるか、どう思うかが、もっと大事だ。ちゃんとした名称があるのだから、どんなに煩わしくとも、どんなに言いにくくとも、きちんと呼んでほしいものだ。「本人には分からないから医ケア児と呼んでも構わないさ」というのは、ほんとうのところはそう呼ばれる子どもたちの命、人権を軽く見ているからだ、と思う。
様々な場面で、様々な人たちに対して、彼らについての話をする時、私たちがきちんとそれらの名称を使うことが、社会の理解につながる第一歩なのだ。社会には分からない、通用しない言葉をどんなに使っても、真の意味は伝わらないし、ましてやその理解にはつながらない。
障害者医療・福祉・教育は常に当の本人の命を心底大事に思い、「社会」を意識して取り組むことが大事だと、私は思う。
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