第16回  本人の力を伸ばす

2021年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム

(仮想講話 私が学んだ知的障害者と呼ばれている人たちのこと 第16回)

 知的障害者は概して優しいです。でも、まあ優しいということは裏から言うとお節介と言うことも言える。優しいし、とにかくお節介です。

 事業所に通所し始めて間がない利用者が毎朝、通所して来ると下駄箱の前でずーっと立っているんですよ。鞄を背負ったまま。靴を履き替えなくてはいけませんが、ずーっと立ったままなんです。すると、次の送迎便で来た利用者の一人がそれを見て、「靴を履き替えようや―」と言って、しゃがんで「はい、足上げて―」とか言って靴を履き替えさせようとしていた。その時ちょうど通りかかった私は、「やめときんさい。それは時間がかかるけど自分で出来るからね。出来るまで待ってあげんさい」と言った。

 そういう時、私たちのすることは初めのうちは本人にただ声をかけるだけ。「おはようー」「靴を履き替えてねー」と言ってそこを通り過ぎるだけ。手は出さない。お世話しない。それを繰り返すと、知的障害の程度にもよるが、何日かするうちに、ゆっくりで15分くらい時間はかかるけれども、ちゃんと自分で履き替えるようになる。それが利用者の本人の力を伸ばすということです。親切な利用者は何でも人に親切にしてあげようとする。親切にすると職員から褒められるからね。「私がやっちゃげたんよ」「そうかね。えらいねー」と褒められるから、本人のことなど構わずにそういう手伝いをしようとする。でも、それはやっちゃいかん。

 

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第15回  「待つ」という支援

2021年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム

(仮想講話 私が学んだ知的障害者と呼ばれている人たちのこと 第15回)

 例えば外食する時、「カレーライスとハンバーグ、どっちがいいかね」と訊かれてしばらく考えていると、お母さんに「カレーにしんさい」と決められてしまう。「今日、出かけるのにどの服を着て行きたいかね」と訊かれて考えていると「こっちにしんさい」とお母さんに決められてしまう。そういうことが度重なると、「どうせ私のことは聞いてくれん。言うてもつまらん」となって、ついには自分の気持ちや思いを解放することが出来なくなっていく。

 だから、私たちが利用者と話をするときに大事なことは、じーっと待ってあげることなんです。それを急かせて「早うどっちかに決めんさい」というのはダメなんです。それは本人にこちらのイライラした雰囲気が伝わるのでダメなんです。そうじゃなくて、「ええよ、ええよ。よー考えんさい。またあとで訊くからね」などと言って、本人に考えさせることが大事。彼らの時間はゆっくり流れているんです。

 

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「令和の大谷」

2021年11月22日 | 日記・エッセイ・コラム

 以前、平成31年3月25日(月)付けのこのブログに「昭和の長嶋、平成のイチロー」と題した文章を載せた。今、それに「令和の大谷」を加えたい。 

 アメリカ大リーグ・メジャーの世界に飛び込んで4年目の今年、全米野球記者協会によるアメリカン・リーグのMVPに、予想通りの満票で選ばれたロサンゼルス エンゼルス大谷翔平。

 今年の彼は投手としても、打者としてもそのプレーの質の高さは群を抜いていた。日本にいた時も、アメリカに渡ってからもかまびすしかった投打二刀流挑戦への賛否。

 彼は高卒の新人として日本ハムに入団したのだが、その時の監督が栗山英樹だったことが彼の野球人生を大きく前進させた。イチローに監督仰木彬との出会いがあるように、大谷には監督栗山英樹との出会いがあった。二人の監督に共通するのは監督として偉ぶらないこと。そして選手の個性を受け容れ、それを伸ばそうとしたことだ。

 大リーグでの彼の投打二刀流の活躍ぶりは様々な報道で周知のとおりだ。それは大リーグの歴史を変え、リトルリーグからプロ野球、大リーグへと連なるすべての野球選手のプレイヤーとしての在り方を大きく変えるものとなった。

 そしてそれに加えて、彼の言動も大きな話題になっている。対戦相手選手をリスペクトし、グラウンドでのプレーを楽しみ、笑顔を忘れず、必要以上にオーバーなリアクションをせず、グラウンドのごみはさりげなく拾う。また、がたいもルックスも悪くない。それらは彼を見る私たちをワクワクさせてくれる。

 彼は私たちには想像できない果てのない高みを目指している。まだ社会や人生の、その正体を知ることのなかった少年の彼が抱いていた夢。その夢を27歳になった今も、彼は持ち続けているのだ。多くはその人生の途中で、社会の構造や育ちの環境に責任を押し付け、変更や縮小を重ねてすごすごと年齢を経ていく私たち。

 しかし、彼は大きな大谷少年となった今も、その夢にまっすぐに向かうことを止めない。

 そんな彼を見ていると、私がまだ小学生、中学生だったかの頃にテレビで見聞きした歌を思い出す。

 

 1 野球小僧に逢ったかい 男らしくて純情で

   燃える憧れスタンドで じっと見てたよ背番号

   僕のようだね 君のよう

   オオ マイ・ボーイ

   朗らかな 朗らかな野球小僧

 

 2 野球小僧はウデ自慢 凄いピッチャーでバッターで

   街の空き地じゃ売れた顔 運が良ければルーキーに

   僕のようだね 君のよう

   オオ マイ・ボーイ

   朗らかな 朗らかな野球小僧

 

 3 略

              (野球小僧 歌:灰田勝彦 作詞:佐伯孝夫 作曲:佐々木俊一)

 

 リズミカルなテンポのいい、明るい歌だ。灰田勝彦の独特のその歌声もいい。

 もちろん大谷は、いかにも昭和昭和したこの歌など知る由もないだろうが、1番の歌詞の「男らしくて純情で」と2番の「凄いピッチャーでバッターで」は彼にぴったり合っていると思う。そして繰り返される歌詞「朗らかな 朗らかな野球小僧」が常に野球を楽しんでいて、みんなをも楽しくさせている感じが何とも言えず、いい感じだ。ぜひ一度、ネットでこの歌にアクセスして聞いてみてほしいものだ。

 先日の日本記者クラブ主催の記者会見の席でも、質問者に対して常に穏やかな表情で丁寧に答える姿は、彼の育ちと性格の良さ、そして何より彼の見ている世界の大きさを感じさせていた。それはいつまでも少年の頃の夢を胸に抱く「野球小僧」大谷の面目躍如といったところだ。

 まだ終わってはいない。いや始まったばかりの彼の野球人生がどう展開していくのかは分からない。長嶋もイチローも怪我には十分注意していた。怪我や故障は大敵だ。二刀流ならなおさらのことだ。どうか心身をしっかり鍛え、怪我に気をつけて、自身の果てしない高みの夢に向かって突き進んでもらいたい。

 なお、本日、大谷は日本政府からの国民栄誉賞授与の打診を「まだ早いので」とし辞退したとのことだ。まだ始まったばかりの彼の挑戦。更なる高みへの挑戦、精進に期待しよう。

 

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第14回  自分で選びたいのに・・・

2021年11月22日 | 日記・エッセイ・コラム

(仮想講話 私が学んだ知的障害者と呼ばれている人たちのこと 第14回)

 それはね、園長(当時私は園長でした)はどっちが食べたいと思っているだろうか、と悩んでいるのよ。どうしてそうなるかというと、家でね、いろんな場面で「こっちとこっち、どっちがいいか」とお父さんやお母さんに聞かれた時に、「こっち」と言う。でもそんな時に「そっちじゃなくて、こっちにしなさい」とお父さん、お母さんに言われてしまうことがたくさんあるの。一応、本人に「どっちがいいか」と聞いて、いかにも本人に選択させた格好にするが、結局はお父さんやお母さんの思っているほうにしてしまう。

 その時、本人はどう思うかと言うと、「どうせ私がどう言うても聞いてくれん」となる。すると、本人は「私が決めんでもええんじゃ、もうお父さんお母さんが決めとる」となるの。

 で、じっと私の顔を見ているから、困った私が「園長ならうどんがええかなぁ……」と呟くと、すかさず「うどんがええ」と言う。君たちにはそういうことがないですか。

 君たちもそういうことがあるだろう。「自分の気持ちは少しも聞いてくれん。ならもういい。そっちで決めりゃええ」となる。

 

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第13回 うどんとそば

2021年11月20日 | 日記・エッセイ・コラム

(仮想講話 私が学んだ知的障害者と呼ばれている人たちのこと 第13回)

 障害者支援現場の施設や事業所では、時に給食で選択メニューという日があります。それは例えば2種類か3種類ほど用意された給食のメニューの中から、どれか食べたい給食を事前に利用者が自分で選んで、それをその日に食べるのです。

 そんな時は、事業所では一ヵ月くらい前から栄養士が利用者にどっちが食べたいかを一人ひとりに聞いて回ります。ここでは話を分かりやすくするために、うどんかそばの選択メニューということにします。

 ある日、栄養士が利用者にどっちにするかを聞いて回っていたのですが、急用ができたので、栄養士が私に代わって聞いてほしいと言ってきた。たまにそういうことがあるので、いいよと言って、私が代わりに利用者に希望を聞いて回ったのです。

「来月は選択メニューなんよ。うどんとそば、○○さんはどっちが食べたいかね」と利用者に聞いて回る。するとね、何人かの利用者は私の顔をじっーと見てるんですよ。で、悩んだような顔をしている。「どうしたん?」と言っても、いつまで待っても答えない人がいるんです。さあ、利用者は何故なかなか答えないのでしょうか? 何故? どうして? さあ、考えて。

 

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第12回  実感を語ろう

2021年11月16日 | 日記・エッセイ・コラム

(仮想講話 私が学んだ知的障害者と呼ばれている人たちのこと 第12回)

 それなのに、障害者と話したこともない、一緒に何かをしたこともないのに、「あの人は障害者だからね……」と、差別や偏見の目でその人のことを言ったり、見たりするのはおかしいだろう。人から聞いた話や感想はあなたが実際に感じたものじゃない。それはあなたの実感じゃない。

 実際に会って、そして話をして、それで「あっ、やっぱり馬鹿でよ」と思うなら、それはそう思っても構わん。それはあなた方の感性だから。あなた自身の感覚、実感だから。そう思うなら、そう思っても構わん。

 でも、そう思っていて最初はちょっと怖かったけど、頑張って話してみたら私たちと一緒だった。私たちと同じように話をするし、楽しいことは楽しいと言ってくれるし、私たちと同じだったと思えば、そういう自分の感覚、自分の実感を大事にしてほしい。他人の感想や評価をいかにも自分の感想や評価のように誤魔化して語ってはいけない。自分の感覚、実感を大事にしてほしい。

 ジュースを飲みもしないで、ほかの人に「このジュースはうまいよ」って言わんでしょう。会ったこともない、話したこともない人のことを「あー、やっぱり障害者だからつまらんでよ」とは言えんでしょう。でも君たちは言ってるんだ。頭の中で。お父さんが言いよった。お母さんが言いよった。申し訳ないけれど学校の先生も言いよったかもしれん。「やっぱりダメな人なんじゃ」というようなことを。しかし、自分で実感していない言葉を吐いちゃいけんです。そこが一番大事なとこです。

 

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第11回  ジュースの味

2021年11月13日 | 日記・エッセイ・コラム

(仮想講話 私が学んだ知的障害者と呼ばれている人たちのこと 第11回)

 というのは、いいですか。ここにジュースがあるとする。コップに入ったジュースがあるとする。オレンジジュースでも何でもいい。ジュースがあるとする。で、このジュースを飲んだAさんが「このジュースうまいよ」と言ったとする。その時、その言葉を聞いたあなたはたまたま通りかかったBさんに「Bさん、Bさん、このジュースうまいよ」って言うだろうか。Aさんが目の前のコップに入っていたジュースを飲んで、「このジュースうまいよ」と言ったのを聞いて、あなたはほかの人に「このジュースうまいよ」って言いますか。どうですか。言いますか。

 そんなことは言わんでしょう。自分が飲んでもないのにそのジュースがうまいかどうか。そんなことは言わない。まして、人に向かってそんなことは言えんだろう。だって、ジュースを飲んでもいないあなたに、どうしてそのジュースの味が分かるだろうか。飲まないジュースの味は分からないのよ。

 

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第10回  感情や感性は君たちと同じ

2021年11月10日 | 日記・エッセイ・コラム

(仮想講話 私が学んだ知的障害者と呼ばれている人たちのこと 第10回)

 体障害者は身体に障害があって不自由さはあるけれど、考えたり理解したりする力に障害はないので、自分の考えを述べたり物事を理解することは出来る。だから例えば車椅子は使っているけれども、私はこう思います、というように思いや意見などは言うことが出来る。精神障害と言われている人も自分の考えや思いは人に言うことが出来る。知的な障害はないのだから。知的障害者と言われている人は物事を理解することが苦手。思いや考えをうまく伝えるのが苦手。だけど、感情や感性は君たちと同じ。古川さんと話したら楽しかった。あるいはつまらんかったという思いは持っている。が、それをうまく外に表現することが出来ない。古川さんと話したけどつまらん、面白くなかったというようなことを口に出してうまく言えない人がいる。

 だからと言って、口に出して言わないからと言って、そういう感情はないんだと思ってはいけない。そういう誤解から広がっていく障害者に対する偏見。偏見。さっきから使っていますが、この言葉の意味は分かりますか。偏見。そうした偏見をどこかで私たちがこの社会から捨て去らないと、この社会は障害者にとってはいつまで経っても生きづらい社会のままだ。

 この社会から障害者に対する偏見がなくならなければ、障害者の人生、命は解放されないままだ。だから、私は君たちに頑張ってほしいと思う。偏見や差別に対して、「そうじゃないんだ」と。

 

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第9回  差別や偏見への無自覚

2021年11月07日 | 日記・エッセイ・コラム

(仮想講話 私が学んだ知的障害者と呼ばれている人たちのこと 第9回)

 先にも言ったが、障害者は障害者になろうと思って生まれてきたわけではない。君らも健常者になろうと思って生まれてきたわけではないだろう。たまたま健常者に生まれてきただけなのだ。それを、君たち自身が努力した結果で健常者に生まれてきたわけでもないのに、「障害者は努力しなかったから障害者として生まれて来たんだ」などという思いが君たちの心の中に宿ると、その生命観がずっーと次の世代にまでつながっていく。で、自分の子どもにも「あー、障害がなくてよかったね」と思ってしまう。

 そう思うのは君たちの自由だ。自由だけれど、障害を負った人、障害者と言われる人に対して、「障害があっても、それでも頑張って生きているね」という、それが大事なんだという価値観を持たなくてはいけない。そこをはき違えると、君たちはいつまで経っても、障害者は自分たちよりも劣っている人間、子ども扱いしてもいいんだ、馬鹿にしてもいいんだ、というように、無自覚に差別や偏見をもつ人間になってしまう。

 

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第8回  君たちの責任

2021年11月04日 | 日記・エッセイ・コラム

仮想講話 私が学んだ知的障害者と呼ばれている人たちのこと 第8回)

 そういう価値観が私たちの社会に蔓延していることに、若い世代の君たちに責任はない、と私は思う。君たちはお父さん、お母さん、そして近所のおじさん、おばさんからいつも言われている。「あそこの子には変なのがおるんで」「一緒に遊ばんほうがええで」と言われている。そうすると君たちは、「そうなんだ。そんな子とは付き合わんほうがいいんじゃ」と思うようになる。それでいいのか。

 お父さん、お母さんは世の中にはいろいろな価値観があるんだ、という価値観ではなくて、もっと頑張っていい成績を取れ、もっと速うせー、無駄なことはするな、という価値観で君らを育てる。どうしてか。

 それはお父さんお母さんは、その上の代のおじいさんやおばあさんからそういう価値観を植え付けられて育てられてきているからだ。だから、君らがそう思うのは君らには責任がないと私は思う。ただ、君らのあとに続く、例えば今の小学生などの子どもたちがそういう価値観を引き継いでしまったら、依然としてずっと障害者差別や障害者への偏見はなくならない。周りの人から言われたことをそのまま鵜吞みにして、あーそうなんだと何の疑いもなく君たちが次の世代に伝えていくと、次の世代もそう思うようになる。そういうことでいいのか。それには君たちに責任がある。

 

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第7回  差別につながる価値観

2021年11月01日 | 日記・エッセイ・コラム

(仮想講話 私が学んだ知的障害者と呼ばれている人たちのこと 第7回)

 私たちの社会には何事に依らず、遅いより速いほうがいいという価値観がある。それから無駄は省いたほうがいいという価値観がある。また効率はいいほうがいいという価値観もある。そういう価値観の中で生きていると、障害者は、特に知的障害者の人生は無視される。彼らの時間はゆっくりだから。例えば私たちは1時間に100個も200個も作ったり、あるいは処理したり出来る。だけど知的障害がある人は例えば20個か30個しか出来ない。私たちの社会は短時間でたくさん出来るほうに価値を認める。しかし、だからといって、短時間でこれだけしか出来ないのはだめなのだという価値観しかないと、障害者の生きる場所はない。そして、そういう価値観は差別につながる。「あの子は足らん子じゃからな。何も出来ん子じゃからな」となる。

 

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