正々堂々と (東京オリンピックをテレビ観戦して)

2021年07月30日 | 日記・エッセイ・コラム

 先日、テレビのオリンピック中継で、日本対フランスのサッカーの試合を見ました。

 サッカーはラグビー同様、体と体がぶつかり合う団体競技なので、選手同士の接触が頻繁に起こります。時には接触というよりも衝突、激突と思えるほどの場面も珍しくありません。審判はそれをホイッスルやイエローカードやレッドカードで警告し命令し、試合をコントロールしていきます。

 思わぬ点差(日本ーフランス 4-0)になったのでイラついたのか、その試合ではとてもサッカーのプレーとはいえないフランスの選手の危険な行為がありました。フランスのある選手が日本の選手の背後に迫り、他の選手とボールを取り合うために踏ん張っていたその日本選手の右足のふくらはぎを思い切り踏みつけたのです。驚きました。踏まれた日本選手は「うっ!」とうめき声を上げて、その場に崩れ落ちてしまいました。

 審判が確認したビデオ映像には、その選手がボールを取り合っている日本選手の背後に近づいて、右足のふくらはぎを思い切り踏みつけているのがはっきりと映っています。それを確認した審判は即座にレッドカードを示しました。それまでは「俺が何をしたというのだ。俺は悪くない」と身振り手振りで叫んでいるように見えたその選手。何かを言いながら不貞腐れた様子で退場して行きます。

 こうした接触の瞬間の悪質なプレー。あるいは大事な局面での際どいプレー。それらの判定に今はビデオ判定が採用されています。

 けれども、数あるスポーツの中でもサッカーほど、こうしたラフプレーと思われるようなプレーに寛容な(?)スポーツはないと思います。例えば、ボールを追っている選手同士がぶつかってどちらかが倒れると倒れた選手は必ず、「すねを蹴られました。ここが痛いです」あるいは「顔を殴られました。ここが痛いです」とでも言うように、痛がって転げ回るか起き上がらないかしてアピールします。それは選手の疲労回復や試合の流れを変えるための時間稼ぎでもあります。それがうまくいって相手がファールを取られれば、自分たちに有利な流れにもっていけるのです。そんな時、審判は毎回毎回ビデオで確認することはしません。いちいち試合の流れを止めることはせずに、その場の自分の判断でジャッジしていきます。ですので、審判のジャッジが妥当かどうかは確かめられることはありません。しかし、テレビではその時のビデオ映像が出ます。それを見ると、さほどの接触や衝突でもないのに脚や顔に手を当てて痛がっているのが大半です。

 こうしたオーバーな演技も「サッカー」というスポーツなのだ、ということでしょうか。それもこれも全部含めて、サッカーではこうした味方に有利に働く行為をテクニックとして磨く必要があるということなのでしょうか。

 でも、それはちょっと危険な気がします。子どもたちへの影響が心配です。基本や技術をしっかり身につける前に、そうした小手先のラフプレーやオーバーな演技、誤解を恐れずに言えば噓事をアピールして、自分たちに有利に試合を展開することを覚えてしまって、内心「勝てばいいんだ、勝てば」とうそぶく人間にならないだろうか。「勝てば親も周りの大人もほめてくれるし……」果たして、それでいいのか……。

 子どもたちが目先の勝ち負けにこだわり続け、そして彼らがまた大人になって、同じことをその時の子どもたちに教え込み、内面に刷り込む。果たして、それでいいのか……。

 それは、障害者への差別と偏見の連鎖が止まないのと同じ構造をしています。

 残念ながら、今、私にはサッカーというスポーツ競技に「正々堂々」という精神は見えません。

 

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落丁と擬人法

2021年07月21日 | 日記・エッセイ・コラム

 先日、何年振りかで図書館に出かけて来ました。

 書棚から3冊を選んで空いたテーブルの椅子に座り、おもむろに1冊目のページを開きます。館内の静かなこと。離れたところから、小学校低学年と思われる少女たちの声が小さく聞こえては来ますが。

 1冊目を確認のために飛ばし読みして、2冊目に移りました。これも目次から気になる項目をいくつか探して飛ばし読みします。すると、落丁箇所がありました。きれいにページが抜かれていたので、最初は「文章の続き具合がおかしくないか?」程度のことだったのですが、きちんとページを確認するとちょうど表裏の21ページ目と22ページ目の1枚が跡形もなく、きれいに無くなっていたのです。

 「ひどいことをするなあ」と思いながら、それでも少しずつ飛ばし読みしていると、今度はカッターナイフか何かでギザギザに切り取られた箇所が出てきました。そこは87ページから92ページまでの6ページが無くなっていました。「これは!?」とびっくりして、その本全体を確認すると、同じような跡が残っている箇所がもう2か所(41ページから42ページと125ページから130ページの計8ページ)ありました。何と全体で16ページが無くなっており、ほかにはボールペンで書きつけたと思われる丸い印が4箇所にありました。

 この図書館には何冊の蔵書があって、そのうちの何冊がこの広いフロアーの書棚に並べられているのかは聞きそびれましたが、おそらく数万冊は優にあるかと思います。その中の1冊にこうしたいたずらによる落丁があり、その1冊と、たまたまその日、思い立ってこの図書館に来た私が遭遇したのです。それはほんとうに偶然だけど、その偶然に遭遇した私は、その時そこで読んだ数冊の本の読後感よりも、わざわざ図書館にきて、こんな悪戯?犯罪?をコソコソしてしまう輩がいることにすっかり気を取られてしまっていました。

 でも、私は世の中にはこんなことをする彼?彼女?たちは決して少なくはないと思います。それは、己の劣等感を隠して、抵抗することのない障害者を裏側で陰湿にいじめ、虐待(経済的・身体的・心理的・性的・ネグレクト 無視 放棄)する人間が少なくないことと同じなのだと思うのです。

 東京2020。東京オリンピックが開催されます。

 しかし、障害者を虐待した過去をもち、しかもそれを雑誌のインタビューで得意げ(?)に話した人間。そのインタビューを無神経に載せて商売にした人間たち。そして、その存在を他人事として、軽く見て、自分たちの価値観を貫こうとした人間たち。

 私たちの世界では、歴史を刻み始めた遠い過去から今日に至るまで、私たちの人間観、生命観、価値観そして感性は少しも変ってはいない、と今更ながら思います。

 小学生の頃、国語の授業で擬人法という描き方があるのを教わりました。私はその頃毎月読んでいた、小学生向けの月刊誌の付録を擬人化して作文を書いたのを今でも覚えています。

 楽しみにしていた月刊誌。少年が付録の入ったビニール袋を破ると、「痛い、痛い」と言ってその袋は泣き、取り出された付録は、紙で作るロボットか車かを完成させるために、はさみで切られたり、折り曲げられたり。そのたびに付録たちは「痛い、痛い」と言って泣いている。それはかわいそうだ。だから、付録は完成させるために大事にていねいに扱おう……。

 そんな内容だったと記憶しています。そして、小学生の頃にその作文を書いて以来、どういう訳か、私はふとした拍子に、物に心や感情があったら目の前のこれらの物たちは今、泣いているかもしれないなぁ、と思ってしまうのです。鉛筆も短くなる前に捨てられると悲しいだろうなぁ。靴もかかとを踏んで履かれると痛いだろうなぁ。電気も消し忘れられると疲れるだろうなぁ。コピー用紙も反故紙として使ってもらうと嬉しいだろうなぁ。本やノートもページを破られたり、切り取られたりすると痛いだろうなぁ……。

 その日、その本に何万分の1かの確率で遭遇した私。これがその時、私ではなく、他の人だったらどう思っただろうか。出来るなら、遭遇したかもしれないその人に聞いてみたい思いも湧いてきます。

 障害者の命もその存在も、そして障害者虐待も、残念ながら同じように何万分の1の確率でしか、人々の人生には登場しないのです。

 相模原市の津久井やまゆり園での障害者殺傷事件は発生から5年が経ちますー。

 

 余談ながら、その本は落丁のある個所ごとに、メモ用紙を細く千切って付箋代わりに挟んで、受付の方に状況を説明してお返ししました。

 

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熱海 土石流

2021年07月07日 | 日記・エッセイ・コラム

 東海道新幹線熱海駅。まだ1度も降りたことはない。

 つい最近まで、毎年3回ほど所用で上京するたびに「のぞみ」で通過していた。熱海駅が近くなると山側の景色が車窓間近に迫ってくるので、通過するたびに視線を上げて、その急斜面に立つ家々を追っていた。それは、ほんの20分ほど前に、雄大な富士の姿を新幹線の窓いっぱいに見ていた身からすると、途轍もなく窮屈に感じる瞬間だった。

「よくこんな窮屈な土地に住んでいるなぁー」と毎回感心していたものだ。

 けれど、海も近く、日本でも有数の有名温泉地でもあり、大都市東京からも近く、アクサスもいい。だから、海岸と道路と鉄道が狭い土地の間を並走し、住居は山側の急な斜面を背後にして建てるしかない土地であっても、人は集まって来たのか。

 私は熱海駅は通過するばかりだったから、熱海の温泉のことは分からない。熱海の海岸も尾崎紅葉『金色夜叉』の貫一がお宮を足蹴にするシーンを想像するだけだ。

 7月3日(土)。テレビ報道で、視聴者からの投稿という熱海市で起きた大規模な土石流の映像を何度も何度も見た。急こう配の坂を黒い大量の濁流が上流から土砂と木々を飲み込みながら、ぶつかるを幸いに建物をなぎ倒し、カーブしながら勢いよく下っていく。撮影者の声だろうか「うっそー!!」という悲鳴も聞こえた。

 私たちはその人生で、目の前の景色が一瞬にして予期せぬほど大きく変貌する、変貌してしまうという体験をそうそうするものではない。テレビの画面に映っていた人たち。土石流から逃れようと懸命に走る数人の姿を確認したが、どんな思いだったろうか。あっという間になぎ倒されて土石流に飲み込まれた家屋の中にも人はいたのだろう。

 長年、新幹線で通過するたびに、いつか熱海に降りてゆっくり温泉につかってみたいなぁーと思っていた。

 その思いが哀悼に変わった。

 

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