一瞬の沈黙

2013年07月30日 | 日記・エッセイ・コラム

 

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毎年この時期、地元の周防大島高校福祉科の1年生がさつき園で「障害者施設実習」をします。今年も先週の火曜日(23日)から29名の高校生が4班に分かれて、1日1班(7人~8人)ずつ、全4日の予定で、利用者と一緒に作業をするなどして「さつき園」を体験してくれました。<o:p></o:p>

 

そのとき、毎年、「どうして?」と思うことがあります。<o:p></o:p>

 

それは整列した彼らと、朝と帰りにあいさつを交わす時のことです。<o:p></o:p>

 

班長の生徒が「気をつけ!」「礼!」と号令をかけると、彼らはまず一斉にお辞儀をします。そして顔を上げて、私たちと顔を見合わせて、ややあって「よろしくお願いします」とか「ありがとうございました」と声をそろえて言うのです。<o:p></o:p>

 

今、全国各地で高校野球の、いわゆる夏の甲子園の地区予選が盛んに行われていますが、そこでの対戦するチーム同士のあいさつ場面でも、また本番の甲子園球場でのホームベース付近でのそうしたあいさつの時にも、それは見られるように思います。<o:p></o:p>

 

どうして、彼らは礼をしてから言葉を発するのでしょうか。<o:p></o:p>

 

先言後礼という言葉がありますが、私たちは日常生活の習慣としてはまず言葉を発して、それから礼(お辞儀)をします。なのに高校生はどうして礼をした後に言葉を発するのでしょうか。<o:p></o:p>

 

中には言葉を発しながら礼をする、というような大人の人もよく見かけますが、私たちは元々、お礼の言い方やお辞儀の仕方をきちんと教えてもらったことがないのかもしれません。私の場合もこういった「礼義作法」に属するようなことは、中学校時代の運動部の部活を通して自然に見よう見まねで身につけたように思います。<o:p></o:p>

 

今、高校では集団であいさつをしたりお礼を言う時は、先ず礼をして、それから言葉を発せよ、と教えているのでしょうか。<o:p></o:p>

 

礼をした後で言葉を発するなんて、何とも間の抜けたことではないかと思うのですが。皆さんも、自分がそのあいさつを受ける立場を体験してみてください。お辞儀の後のあの顔を見合わせる時の一瞬の沈黙に、きっとドギマギされることと思います。一瞬、「えっ、この沈黙は何!」と内心慌ててしまうのです。私は未だにそのタイミングに慣れません。毎回、ドギマギしてしまっています。<o:p></o:p>

 

あることが終って解散などする際には、「気をつけ!」「礼」と言えば、次にくる言葉は「お疲れ様でした」とか「さようなら!」なのです。さつき園でも利用者の終礼では、当番の利用者が「気をつけ! 礼!」と号令をかけると、みんなで「さようなら!」と言って、帰って行きます。<o:p></o:p>

 

だから、周防大島高校福祉科の1年生が1日の施設実習が終わって利用者とあいさつを交わす時、例え班長の生徒がお礼を言うために自分たちに向かって「気をつけ!」「礼」と号令をかけても、すぐに続けて「ありがとうございました」と言わないものだから、その沈黙の瞬間に慣れていない利用者は、「さようーなら!」と言ってしまうのです。それは毎回のことでした。<o:p></o:p>

 

どうして、彼らは礼をした後、顔を見合わせてから言葉を発するのでしょうか。あの一瞬の沈黙に、利用者も私も面喰らっています。<o:p></o:p>

 

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いずれにしても…!?

2013年07月18日 | 日記・エッセイ・コラム

 

会議などで意見を言ったり質問したり説明したりするときに、「つまり…」とか、「要するに…」とか、「結局…」などという言葉を使って、それまでの内容を一旦整理しようとする人があります。混線しかかっているその時の議論や意見や説明などを分かりやすくまとめようとする人がいます。おそらくそれは善意からなのでしょう。いや、そう思いたい。<o:p></o:p>

 

ですから、そのことは、まあ我慢するとしましょう。<o:p></o:p>

 

しかし、会議が盛り上がってきたり、議論が白熱してきた場面で、「いずれにしてもですねー」と結論まがいのことをしたり顔で言い出す人がいます。その一言で、それまでの議論の内容や個々の発言の微妙なニュアンスの違いなどが一掃されて、一気に結論にまで持っていかれてしまうことがあります。その場に臨んでいた人たちが時間とエネルギーを費やしてその場に提示した思いや考えが、その一言で強制終了されてしまうのです。<o:p></o:p>

 

どんなに議論がこんがらがっても、どうか『いずれにしても…』とか『どちらにしても…』なんて言って、分かった風な顔をして結論めいたことを言わないでほしい、と思います。自戒も込めて。<o:p></o:p>

 

議論はある一定の結論を得るためだけにするのではないと思います。そうではない議論もあるのです。何ら結論は得られずとも、議論する過程、議論することそれ自体に意味があり価値もあるのです。<o:p></o:p>

 

先日も、ある会議で、あるテーマについてあれこれ意見を出し合っていたところに、「いずれにしても、このことは実施するということでいいんじゃないですか」と、議論を終わりにさせられてしまいました。ことを先に進めるために、そう言ってまとめざるを得ないことも理解できますが…。<o:p></o:p>

 

以前から気になっていたのですが、どうも昨今は、議論や協議の内容よりも議論した、あるいは協議したという事実を得るために、会議が仕掛けられていることが多いように思います。<o:p></o:p>

 

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夜空の星

2013年07月11日 | インポート

 

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もう40数年前のことです。<o:p></o:p>

 

浪人した夏を信州上田の近くの村で過ごしていました。<o:p></o:p>

 

ある夜。近くの村での盆踊り(だったと記憶していますが)からの滞在していたお宅への帰り道。見上げれば空は満天の星でした。<o:p></o:p>

 

以来、テレビで東京など都会の夜景を見るたびに、あの時の星空を思い出します。<o:p></o:p>

 

夜空の星をしばらく見つめていると、宇宙を感じます。しみじみ宇宙の膨大な時間と空間の広がりを感じます。<o:p></o:p>

 

今朝、長年懇意にしていただいていた、兄弟二人ともが重度の知的障害者であるお子さんのお母さんが昨夜亡くなられたと、メールが届きました。北海道在、73歳。<o:p></o:p>

 

ご主人と二人のお子さんのことがどんなにか心残りだったでしょうに……。<o:p></o:p>

 

今一度お会いしたかったけれど、それもかなわず、今夜は無念の思いで夜空の星を見上げます。<o:p></o:p>

 

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<実感>という情報

2013年07月03日 | 日記・エッセイ・コラム

 

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高度情報社会と言われて久しい現代。パソコンや携帯端末をネットにつなげばどんな情報も居ながらにして簡単に手に入る、そういう時代です。<o:p></o:p>

 

 

 

しかし、そうして得た情報の大半は発信者の恣意的な情報です。もっと言えば、責任の所在が明確ではない、出どころのはっきりしない危なっかしいものです。私たちは、その情報の正確さや価値の確かさを何によって計ればいいのでしょうか。<o:p></o:p>

 

 

 

そうした溢れる大量の情報の中から、私たちが信頼できる情報を特定するのは簡単なことではありません。私たちは情報の総体をつかみきれないまま、相手を選ばずに発信される大量の情報に振り回されるばかりです。情報の手触りがすこぶる希薄になっています。<o:p></o:p>

 

 

 

それに反して、生身の人間同士が出会う現実世界で、私たちが得るのが<実感>という情報です。ツイッターやフェイスブック、あるいは検索など、様々な携帯端末を巧みに操作して、たとえどんなに多くの情報を得たとしても、私たちが生身の人間と出会って得る実感や、あるいは一寸先の予測がつかないこの現実世界の在りようなど、それらをすくい取ることはできません。インターネットからの情報をどんなにたくさん仕入れても、生身の人間同士が出会う現実世界から得る実感には及ばないのです。現実世界を見る、現実世界を自分の肌で、五感や第六感で感じるとは、それほどのことなのです。<o:p></o:p>

 

 

 

パソコンの中の情報は、所詮どこかのだれかが頭で考えたことです。けれど現実世界はそうではありません。私たちは老いも若きも男も女も、お互いの生身を今という時代の風に晒し、懸命に己れの命と存在をかけて、日々見えない血を流しながら見えない戦いを必死に戦って生きている、それが現実世界です。お互い同士がそうした生身を晒して在るからこその、現実世界から得る実感という大切な、愛おしい情報なのです。<o:p></o:p>

 

 

 

現実世界での自分の実感を信頼せずに、いったい私たちは他の何を信頼するのか? 溢れる情報に翻弄されて、己れの実感を手放し、見失ってはいけません。<o:p></o:p>

 

 

 

どんなに多くの福祉に関する、あるいは障害者に関する情報をインターネットから得たとしても、それらは私たちが目の前の生身の利用者一人ひとりから実感として得る、利用者の<感情>や<無意識>には到底及ばないのです。私たちは実感として得た利用者の<感情>や、本人も気づかない<無意識>をしっかりと受け止め、現実世界での人間存在の価値として現実世界に提示していかねばなりません。それこそがこの情報爆発の時代、人間個人個人の存在も膨大な情報の中の単なる一つの情報にしか過ぎなくなっている今という時代に生きる、障害者福祉に携わる者の為すべきことと思います。<o:p></o:p>

 

 

 

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