第6回  障害と病気

2021年10月29日 | 日記・エッセイ・コラム

 (仮想講話 私が学んだ知的障害者と呼ばれている人たちのこと 第6回)

    障害と病気は何が違いますか。障害と病気は何が違うと思いますか。どこが違うと思いますか。

 病気には、医学や科学が進歩すると治る病気があります。もちろん中にはまだ治らない病気がありますが。でも、障害。中でも特に知的障害は治らないのです。今の医学や科学では治らない。ただ軽くはなる。一生懸命訓練すれば軽くなったと思えることはある。だけどそれは治ったとは言えない。そこが現在の病気と障害の大きな違いなのです。

 だから、ある事業所で知的障害者がある作業をしていて、どうしても出来ないことがある。すると職員はイライラして「昨日も言うたじゃろうが。ちゃんとせんかー。何べん言うても分らんのー」と大声で言う。だけど本人は障害があるから出来ないのです。努力が足りんから出来ないんじゃないのです。それを周りの人間が出来るまでやらせようとして、叱り飛ばしてやっていると、それが虐待になるのです。

 障害と病気は違うのです。お腹が痛いとかの病気は治る。治ったら元気になる。けれども障害は治らない。軽くはなる。訓練して習慣づければ軽くなったとみえることはあるが、根本的には治らない。それを私たちは理解しなくてはならない。で、いつまで経っても出来るようにならないから、子ども扱いして「ちゃん」付けで呼ぶようになる。「あ―こりゃもうだめだ。なんぼ言うてもつまらん。子どもと同じじゃなー」と言って子ども扱いする。それは私たちに障害への理解が足りないからそうなるのです。「あーこれはもうなんぼ言うてもつまらん、分からんのじゃのー。子どもと一緒じゃのー」となる。それは障害者に問題があるのではない。私たちの理解が足らないのです。私たちに問題があるのです。

 

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第5回  最も大事な名前の呼び方

2021年10月26日 | 日記・エッセイ・コラム

(仮想講話 私が学んだ知的障害者と呼ばれている人たちのこと 第5回)

 そうして本人も小さい頃からずーっと「〇〇ちゃん」と呼ばれているから、私は「〇〇ちゃん」と呼ばれているから甘えていいのだ。誰かが何でもやってくれる。そういう思いが芽生えてしまって、伸びる力も伸びなくなる。それは自分を健常者と呼んでいる私たちの責任。本人の伸びる力はちゃんと伸ばすことが大事。それを、母親でさえ、「〇〇ちゃん!」と呼ぶから、近所の人も「〇〇ちゃん!」と呼んでいるんです。本人もそれに甘えてしまっているんです。これは、絶対に本人のためにはならない。

「くん」も怪しい。「〇〇くん」これは上から目線で呼んでいるからね。だからそうではなく、私たちはみんな「〇〇さん」と「~さん」付けして呼ぶのです。支援学校の高等部を卒業したらもう社会人です。だから、みんな苗字を「さん」付けで呼ぶのです。そうすると、今まで名前で「〇〇ちゃん」とちゃん付けで呼ばれていた人が「〇〇さん」と、苗字をさん付けで呼ばれると背筋が伸びる。

 それまでは「〇〇君」と呼ばれていたのが。「〇〇さん」と呼ばれてみなさい。苗字を「〇〇さん」と、さん付けで呼ばれると、「おっ、ちょっと大人扱いされているぞ」と感じる。それは君たちと同じだ。そう感じる感性に障害はないのだから。ちゃんと感じる。

 このように言葉の使い方はたいへんに大事なのです。小さい頃から同じようにずーっと「〇〇ちゃん」と呼ばれ続けいていたら、この人の人生は子どもの人生になってしまう。大人なのに。それは私たちの責任なのです。それは改めなくてはいけない。

 

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第4回  子ども扱いする社会

2021年10月23日 | 日記・エッセイ・コラム

(仮想講話 私が学んだ知的障害者と呼ばれている人たちのこと 第4回)

 知的障害者と呼ばれている人はものごとを理解することが苦手でよくわからない。また自分の思いをうまく言葉で伝えることが出来ないなど、そうしたことが不得手な人が多いから、親の中には、そして地域社会の人の中には彼らを子ども扱いする人がいる。障害者のことを子ども扱いする人が多いのです。だから二十歳を超えていても「〇〇ちゃん」と呼ぶのです。

 しかし、そう呼ばれた本人はもう子どもじゃない。二十歳を過ぎた大人なんです。そういう人を「〇〇ちゃん」とちゃん付けで呼んでいいのか。あるいは「〇〇!」と言って名前を呼び捨てにしていいのか。そうじゃない。彼らは彼らの命を、その与えられた人生を一生懸命に生きてきている。その命、その人生を私たちは同じ人としてちゃんと受け止めなくてはいけない。

 それなのに、あれが出来ない、これが出来ない。出来るほうが賢い。出来んのはつまらんという社会の価値観に無自覚のまま浸っているから「〇〇ちゃん」と呼ぶ。

 

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第3回  私たちの命のこと

2021年10月20日 | 日記・エッセイ・コラム

(仮想講話 私が学んだ知的障害者と呼ばれている人たちのこと 第3回)

  人は誰も、お母さんのお腹の中にいる時に、「私は健常者として生まれたいです」と思って生まれて来た人はいません。ましてや好き好んで「私は障害者として生まれたいです」と思って生まれて来た人など誰一人いません。私たちは自分が努力したから健常者と呼ばれる者として生まれたのではありません。たまたま健常者として生まれた命に過ぎないのです。そして、私たちが障害者と呼んでいる人たちはその努力が足りなかったから障害者として生まれて来たのではないのです。

 それなのにどうして君たちの心の中には障害者を差別し、彼らに対する偏見の気持ちがあるのか。

 私たちから障害者と呼ばれている命の存在。そして自分たちのことを健常者と呼ぶ命の存在。そうした命の在りようについてきちんと分かっていないと、何の疑問も持たず、当たり前のように障害者を差別し、彼らに偏見を持ってしまう。それは自分たちのことを健常者と呼び、彼らのことを障害者と呼んでいる私たち、そして君たちが解決すべき、人類としての人の命に関する命題だと思います。

 

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第2回  事例

2021年10月17日 | 日記・エッセイ・コラム

(仮想講話 私が学んだ知的障害者と呼ばれている人たちのこと 第2回)

 2つほど例を挙げます。

 私が関係していた、主に知的障害者と呼ばれる人たちが通っていた障害福祉サービス事業所(以下、事業所)でのことです。

(その1)

 事業所での1日の作業が終わって、利用者(ここでは事業所に通ってくる障害者)が食堂に集まって帰りのあいさつをする。

 ある利用者は帰りのあいさつが済んで、みんなが靴を履き替えて、送迎車に乗って、さあ帰ろうという時に、必ず毎日、ほうきとちり取りを持ち出してきて、自分の作業場の掃除をする。それが終わると下駄箱に行く。で、靴を履き替えて送迎車に乗るのかと思うと、下駄箱の前でしゃがみ込んで、今度は提げていたカバンの中身を全部外に出す。そしてその出した物をまたカバンに入れ直す。そうしてやっと納得して靴を履き替えて、みんなが乗り込んで座って待っているいつもの送迎便に乗る。

 その時、私が他の利用者が偉いなあと思うのは、その利用者の一連の行動が全部終わって、本人が満足した顔で送迎便に乗って来るまで、みんながじっと黙って座席に座って待っているということです。こんな時、君たちの中にはおそらく「お前、早うせんか。何しよるんか」という人がいるかもしれない。しかし彼らは絶対そんなことなんか言わない。騒ぐこともなく、ちゃんと毎回、静かに座席に座って待ってる。

 

(その2)
 それから、発達障害があるとされている人のことです。言葉で言われてもよく理解できない人がいます。が、そういう人の中には言葉よりも絵や写真で伝えるほうが伝わりやすい、理解しやすい人がいます。昼食の前には手を洗います。昼食がすんだら歯磨きをします。その次は休憩します。昼の休憩がすんだら作業をします。そうした順番を写真やイラストで示すとそれを理解して、その順番で行動できる人がいます。但し、何らかのことで急に予定が変更されたり、行動の順序が変わると、それを受け容れることはなかなか難しく、興奮状態になることがあります。

 また、テレビなどで時折り紹介されていますが、例えばパソコンの操作は得意なのですが、人とのコミュニケーションや距離感がうまく取れないという人もいます。

 大雑把ですが、障害には大きく分けて、こうした4種類の障害があります。

 

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第1回 大まかな障害の種類

2021年10月14日 | 日記・エッセイ・コラム

(仮想講話 私が学んだ知的障害者と呼ばれている人たちのこと 第1回)  

 障害には大きく分けて4種類があります。

 身体障害。車椅子を使っている人とか目が見えない人とか、耳が聞こえない人とかですよね。これは皆さんもよく知っている。

 次に知的障害。どんな人かというと自分のことを説明することや紹介することがなかなかできにくい人。「あなたは何歳ですか」「わからん…」「誕生日はいつですか」「わからん…」。人の話も聞いているようだけど、十分には理解できない。だから得てして人は、この人は反応が悪いから、ちょっと頭がおかしいんじゃないかと思ってし  まう。でも、そうじゃない、という話をあとでします。

 次に精神障害。うつ病になったり、ストレスがかかって引きこもってしまうことがあったり、聞こえるはずのない音が聞こえたり、実際には見えるはずのないものが見える。そういう人がおります。

 それから発達障害という障害もあります。そう言われる人は例えばすごく数字へのこだわりが強い。今日はだれだれの誕生日だとか、今日はだれだれが亡くなった日だとかをよくお覚えている。それも2、3年前のことではなく10年以上前のことでもよく覚えている。それからものごとの順番にこだわる。まずこれをやって、そのあとにあれをやって、次にこれをやって……、というようにしないと落ち着かないし、次の行動に移れない。

 

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仮想講話について ―はじめに―

2021年10月12日 | 日記・エッセイ・コラム

*はじめに

 私は重症心身障害児(者)の、また知的障害者の社会福祉を推進する組織・事業所に通算で42年あまり、身を置いてきました。その間、私は何を学び、何を思い、何を感じ、またこの社会の在り方についてどう考え、どうあってほしいと思ってきたのか。そうしたことについて、これまで地域の中学校や高等学校のご理解、ご協力を得て、幾度となく中・高生に向けてお話しをさせていただいてきました。

 しかし、今後、そうした中・高生の皆さんに対してお話しする機会が私に訪れるものかどうかは分かりません。そこで、中・高生の皆さんに限らず、広く社会の皆様にも是非私の思いをお伝えしたい、そしてご一緒に障害者福祉についてお考えいただきたいと思い、突拍子もないことですが、このたび仮想の講話をこのブログでさせていただこうとする次第です。

 仮想講話のテーマは「私が学んだ知的障害者と呼ばれている人たちのこと」(仮題)としました。最後までお読みいただければ、この上ない幸せです。ご一緒に障害者について、特に今回は知的障害者と呼ばれている人たちの、その命と人生についてお考えいただければと願います。

 私の目の前には地域の中学生、あるいは高校生の皆さんが席に着いているものとしての言葉遣いをしていますので、ところどころ山口県東部辺りの方言が混じっておりますがご容赦ください。

 

*仮想講話の掲載について

 1 対象を1クラスほど(およそ20人~30人)の中学生、あるいは高校生を想定した、時間的には約1授業時間(50分)ほどの講話のつもり  

  です。

 2 その講話の内容を全20回ほど(回数未定)に分けて、基本的に毎週2回(曜日不定)、ブログとして掲載していきたいと思います。

 3 なお、途中、通常のブログとしての話題を割り込ませることがあるかもしれないことをあらかじめご承知おきください。

  では、次回から仮想講話を始めますので、どうか最後までお付き合いのほどよろしくお願いいたします。

 

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障害者とはだれのことか

2021年10月09日 | 日記・エッセイ・コラム

 皆様、お久しぶりです。

 8月末から9月上旬にかけて東京パラリンピックが開催されました。このことで私たちの社会の障害者への関心や理解は少しだけ進んだように見えます。

 東京パラリンピックに各国を代表して参加したアスリートの多くは身体障害者と呼ばれる人たちで、彼らは自分に残された他の身体機能を鍛え、研ぎ澄まし、高め、そして科学・医学・工学の粋を集めたであろう補装具をも使いこなすなどして、それぞれの競技に挑んでいました。

 そうしたパラリンピック競技のテレビ中継や録画放送を見ていると、競技の様子を伝えているアナウンサーや解説者の彼らは、「障害」という言葉を当たり前のように口にしているけれど、果たしてその言葉に例えば知的障害という障害は含まれているのだろうか、という素朴な疑問が私に残りました。

 私の知っている知的障害者と呼ばれている人たちの多くは、人の言うことがうまく理解できない、自分のこともうまく説明できない。けれどもどこまでも優しく、素直で、そして穏やかな人たちです。

 その知的障害の人たちへの差別や偏見が今日に至るまで、この社会からなくならないのは何故か。それは彼らの存在を受け容れがたいとしてきた、私たちの社会の価値観、人の命に対するこの社会に深く、無自覚に、そして連綿と続くその存在を蔑む価値観の問題だと思います。

 だから今、東京パラリンピックが開催されたことで、この社会の「障害者」への関心や理解がどんなにより進んだように見えようとも、社会の人々に芽生えたと見えるそうした関心や理解といった善なる行為が、知的障害者に対する偏見や差別を私たちの社会から取り除き、その命と存在を解放するための価値ある、あるいは意味あることとは残念ながら思えないのです。

 あなたの語る障害者とはいったいだれのことか。

 芽生え始めたかもしれない社会の善なる関心や理解を価値あるもの、意味あるものとするためには、私たちの精神が、今の時代と社会を私たちとともに生きる知的障害者の命、その人生にじかに触れ合い、彼らを実感することでしか成しえないのだと思います。

 

※ お知らせです。

 突然ですが、次回からたぶん(?)週2回ずつ、合計およそ20回に渡って、僭越ながら私の仮想講話をこのブログに載せたいと思います。テーマは「知的障害者のこと」(仮)です。詳しくは次回(近々)にこの場でご案内させていただきますので、よろしくお願いします。

 

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