先輩と後輩

2024年09月01日 | 日記・エッセイ・コラム

 10日前の夜、学生時代も、そして就職先でも先輩と後輩の関係だった人のご家族から、その先輩が亡くなられたと電話があった。

 台風10号の接近の恐れがあるという予報の中、通夜と葬儀に出席するために関東へ出かけて来た。

 2、3日前の電話で、「その時は弔辞をお願いしたい」と言われていた。

 上京して学生時代を過ごした私は、その大学の部活で4年生の先輩と1年生の後輩として知り合った。

 私の人生にその先輩との出会いがなかったなら、今、こうして私はここにはいない。

 もう知り合って55年が経つ。

 弔辞を考えながら、何度も何度も繰り返し、これまでの人生を思った。

 先輩であるその人との出会いがなかったら、今の私はいないのだ。

 先輩であるその人との出会いがなかったら、重症心身障害児者の世界や障害者福祉の世界など、かすりもしない人生だったろうと思う。よくぞその人が4年生を留年し、よくぞ私が一浪したものだと、その巡り合わせに、その出会いに感謝し、驚く。

 弔辞の中で、「〇〇さん いい人生でしたか」と問いかけ、「古川はいい後輩だったでしょうか」と聞いてみた。

 先週半ば、台風接近が殊の外遅いその合間を縫って、久しぶりの新幹線で岩国に帰ってきた。

 

このブログへのアクセスは、 

「さらばさつき園園長室 障害者福祉の明日を語ろう」で検索可能です。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

障害者と呼ばれる人たちの日常生活・社会生活における意思決定支援について

2024年07月06日 | 日記・エッセイ・コラム

 先日、「ご本人の思いへのアプローチ ~意思決定支援と医療同意~」をテーマとした研修会に、主催する団体の関係者として出席しました。

 意思決定支援:この人は、彼は、彼女は、どう思っているのか?何をどうしたいのか?を理解し、その実現に向かって現実を整える手助けをすること。(古川)

 当日参加しての感想は、テーマに関するあるべき方向を示した文言は幾度となく目にしますが、それはいかにも抽象的で、では支援者としては具体的には何をどうすればいいのかが判然とせず、何とも物足りないものでした。以下に、当日配付の講師資料から、「意思決定支援」に関するそれらの文言をご紹介します。

 ・障害者等の意思決定の支援に配慮するとともに……

 ・……、常に障害者等の立場に立って効果的に行うように努めなければならない。

 ・障害者の意思を尊重した質の高いサービスの提供

 ・可能な限り本人が自ら意思決定できるよう支援すること。

 ・……、支援を尽くしても本人の意思及び選好の推定が困難な場合には、最後の手段として本人の最善の利益を検討すること。

 ・(支援チームの)メンバーが他のメンバーの役割を理解し、相互に尊重する姿勢を有する。

 ・メンバーが会議参加にあたり、入念な準備を行っている。

 ・事業者は、……利用者の意思決定の支援に配慮するよう努めなければならない。

 ・……適切な支援内容の検討をしなければならない。

 ・……、当該利用者の意思及び選好並びに判断能力等について丁寧に把握しなければならない。

 ・……、適切に利用者への意思決定支援が行われるよう努めなければならない。

    などとあり、最後のほうの結論ではないかと思われる個所の文章では、以下のように述べられている。

 ・……、意思決定支援を進めるうえでは、フォーマル/インフォーマル両者の資源の充実を当時に進めていく必要があるた、社会資源の充実に向けて、自立支援協議会の活性化が求められる。

 

 今、ここにアンダーラインを引いて示した言葉にはどれも何のことか、私たちは何をすればいいのかが具体的には示されてはいません。

 配慮する? 効果的に? 尊重した? 可能な限り? 尽くしても? 最善の利益? 尊重する姿勢? 入念な? 適切な? 丁寧に? 資源の充実を? 活性化? って、それぞれどういうことなのでしょうか?

 というように、障害者に関する具体的な意思決定支援の在り方については不明だったのです。ですので、それは今のところ、意思決定支援に関わる支援者個々人の考え、判断、経験則等に依るもの? いえ、ひょっとして極論すれば、支援者それぞれの好みに依るものと言えるのかもしれません。

 ここで突然ですが、皆さんに是非、以前のこのブログの『令和4年1月13日(木)付のブログ「実事求是」への共感』をお読みいただければと思います。

 私は、誠に僭越で、おこがましいことですが、その『「実事求是」への共感』に、本日の「障害者の意思決定支援」の在り方を考える時のあるヒント、あるいは具体性があるのではないかと思ってみたりもしているのです。

 私たちは、障害者の意思の在りよう、その実現について、もっともっと真剣に取組まねばならないと思います。

 

 このブログへのアクセスは、 

 「さらばさつき園園長室 障害者福祉の明日を語ろう」で検索可能です。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

変わっていた事業所名のこと

2024年05月24日 | 日記・エッセイ・コラム

 先日、私も属しているある組織のある会議に出席した。

 中に、事業所名が変わっている事業所があった。なので、会議が終わって、その事業所から出席していた責任者の方に「事業所の名称、変わったんですね? ○○○○って、どういう意味ですか?」と尋ねた。

 その時は、立ち話で概略を教えていただいた。

 説明していただいて、「なるほど、よく考えたものだなぁー」と、その思い入れに感心した。

 すると、昨日、その方からメールが届いた。

 「先日は事業所の新しい名前についてお尋ねいただき、ありがとうございました。関心を向けられるということは嬉しいものだと感じました。命名の由来(大袈裟ですねw)について記したものを添付しますので、御一読くださると幸せます。」と添えてあった。

 「『○○○○』の由来について」という見出しで、A4用紙1枚ほどになる説明だった。

 立ち話の時の内容が分かりやすく、ていねいに紹介してあった。読んだ。

 気がつくと「むー」と唸っていた。

 その最後には、

 「障害の有無に関係なく誰でもみんな短所があり、□□□□と似た経験があるのではないでしょうか。

 しかし我々は、短所は決して長所の反対側にあるのではないと考えます。そんな思いを込めて、『□□□□』の名前を使いました。」

 と記されていた。

 しみじみ、いい人だなぁーと思った。

 そんな人が私たちの仲間にいる。

 

 このブログへのアクセスは、 

「さらばさつき園園長室 障害者福祉の明日を語ろう」で検索可能です。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小学校の運動会に出かけて来ました

2024年05月19日 | 日記・エッセイ・コラム

 昨日、「この地域の」と言うにはちょっと遠すぎるかと思われますが、しかし「大きく言えばこの地域」と言えるかもしれない、というような距離にある小学校の運動会に出かけて来ました。山あいの、さほど広くはない川幅の川の両岸に広がる土地の一角にある小学校。2階建ての校舎の2階のバルコニーの壁には「祝 創立150周年」の横断幕が掲げられています。

 ご多分に漏れず、この地区も人口減のためか、運動会は地域の保育園との合同開催です。

 朝からピーカン(今はあまり聞かない表現?)の空のもと、国旗の掲揚、あいさつ、誓いの言葉、赤白の対礼などがあり、競技が始まります。久しぶりに目の前、高く掲揚された国旗を仰ぎました。風もなく、だらんと垂れ下がってはいますが、国旗は国旗です。

 ほどなく園児と児童らのそれぞれのかけっこや練習してきた踊りやゲームが交互に始まります。号砲が鳴り、音楽が流れ、「頑張れ!」と励ます声がピーカンの空のもと、小学校のグランドに響きます……。それに促されるように観客の私たちは、日頃は見せない(?)真剣な表情の児童、園児に拍手を送ります。

 小学校児童44名、保育園園児24、25名?と聞きました。さすがに、現在からその子どもたちの将来は想像できません。令和の時代の時の速さは昭和、平成に流れていた時の速さの比ではないのです。

 全体人数が少ないので、地域の人たちが参加する競技も用意されています。客席を回って足りない参加者を募っています。高齢の方(私は遠慮しておきました)や若い人たちが恥ずかしそうに、でも楽しそうに列に入ります。

 我が国の人口動態の劇的な変化によるこの状況は、全国各地の小さな市や町、村での風景と思います。地域のこうした催しを懐かしんでばかりもおられないのです。世界の中の日本。日本の中の市町や村。その盛衰の兆しは、視界の先に霞んだ時の流れの中にあります。

 未来は自然物と人工物のせめぎ合いの中にあるのでしょうか。AIにでもその見解を聞いてみますか?

 はたして、その時、その時代の価値観はどうなっているのでしょうか。そして「福祉」という言葉は、概念はどうなっているでしょうか。

 

 このブログへのアクセスは、 

「さらばさつき園園長室 障害者福祉の明日を語ろう」で検索可能です。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元NHKTVアナウンサーの驚きの感性

2024年04月09日 | 日記・エッセイ・コラム

 知る人ぞ知る元NHKTVアナウンサーの鈴木健二さんが3月29日に亡くなられました。95歳だったとのことです。今や遠くなった昭和の時代。そのおよそ3分の2を生きてきた私にとっては、言わずもがなの有名人です。

 その鈴木さんの数多くの著書の中のある1冊を読むと、鈴木さんは昭和42年頃にあの糸賀一雄さんと会っておられます。

 その時、目の前で、今で言う知的障害の子どもたちが行うある光景を見た時の鈴木さんの発言を聞いた糸賀さんは、鈴木さんにこう言われたそうです。

 

 「鈴木さん、それはあなたの間違いです。(中略)この子達はみんな嘘をつきません。人をだましたりしません。純粋そのものです。この子達こそ人間の光なのです」

(中略)私はその時すでに二十数年前に経過していた青春の日に、雪の中で出会ったあの洗濯をする女の子を思い出しました。(後略)

 

 皆さんお分かりのように、糸賀さんの鈴木さんへの言葉は「この子らを世の光に」の原点です。

 そう言われて、20数年前の洗濯をする知的障害の女の子との出会いを瞬間的に思い出している鈴木さんの人の命、あるいはその人生に関わる感性の鋭さ、深さに、私は驚くばかりです。そして、その20数年前の、洗濯をする知的障害の女の子に出会った時に感じた衝撃は、鈴木さんのその後の人生に大きく関わっていくのです。

 

 けれども私は、もう今となっては叶うものではありませんが、鈴木さんがお元気な時に、今私が3度目のお世話になっている全国重症心身障害児(者)を守る会の全国大会での記念講演をお願いしていたら、果たして鈴木さんはどんなお話をされただろうかと思うと、残念至極でしみじみとするばかりなのです。

 

 このブログへのアクセスは、 

「さらばさつき園園長室 障害者福祉の明日を語ろう」で検索可能です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

辞令交付式にて

2024年04月02日 | 日記・エッセイ・コラム

 新年度を迎えました。

 全国的に遅かった桜の開花も始まりました。

 昨日、ある社会福祉事業組織の辞令交付式に出席してきました。

 会場の正面に向かって椅子に座っている8人の新入の人たちの緊張が伝わってきます。組織の代表から各人に辞令が渡されます。

 私には遥か49年前にあったであろう辞令交付式の記憶はまったくありません。以来、新年度初日に行われる辞令交付式は私にはありませんでした。

 組織の代表の挨拶の後、来賓の挨拶を促され、私も幾人かの来賓に混じって挨拶をさせていただきました。

 一つ。この組織を利用する人たちに敬意を払って接してほしいこと。

 一つ。その人たちの人生に関わっているという自覚をもって職務に携わってほしいこと。

 一つ。地域を意識してほしいこと。地域は私たちのことをじっと見ています。常にこの地域にある組織、団体の職員であることを忘れないでほしいこと。

 そして、最後に、この組織を利用するその人たちを虐待せぬように、と。あなた方が好むと好まざる

とに関わらず、あなた方の存在はすでにその人たちをどうにでもできる立場なのだから。

 あなた方が何年ここに勤めるのかは分からないけれど、これらのことを大事に思い、与えられた職務

に励んでほしい、と。

 すると交付式の後、ある出席者から「厳しいことを言われますなぁ」と言われました。

 厳しくはありません。私の障害福祉関係の仕事に携わってきた長年(?)の体験、経験からの実感で

あり、総括なのです。

 ブログに向かうことが少なくなっておりますが、今年度も日々の時間の中で思ったこと、感じたこと

を拙くも綴ってまいろうと思います。

 皆様、新年度もどうぞよろしくお願いいたします。

 

このブログへのアクセスは、 

「さらばさつき園園長室 障害者福祉の明日を語ろう」で検索可能です。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どうでもいいようなことだけど、ちょっと気になること

2024年03月20日 | 日記・エッセイ・コラム

 

 見出しに挙げたように、どうでもいいようなことだけど、ちょっと気になることがあります。

その1  

 「におう」という言葉があります。漢字で書くと「臭う」か「匂う」となります。

 また、「かおる」あるいは「かおり」という言葉があります。漢字で書くと「香る」「香り」となります。

 いつの頃からかははっきりしませんが(4~5年前?)、テレビやラジオでの現場取材のレポート場面などで、レポーターが女性であれ男性であれ、花のいい「におい」がするのを伝える時に、私にすれば「匂う」と言えばしっくりくるところを「花の香り」と表現しているのをよく見聞きするようになってきました。(先日は、何かの唐揚げを「いい香りがします」とも言っていました。)

 発語として単に「におい」と言うと、くさいものを表現する時の「におい・くさい/臭い」と思われがちなので、敢えて「香り」と言っているのでしょうか。

 「匂う」は「臭う」を想像させるので、放送では使われなくなっており、それがそのうち巷でも使われなくなっていくということなのでしょうか。

 どうでもいいようなことだけど、ちょっと気になります。

 

・東風(こち)吹かば 匂(にほ)ひおこせよ梅の花

                 あるじなしとて 春な忘れそ (菅原道真)

・『源氏物語』全五十四帖の中の第四十二帖には「匂宮」(におうのみや)なる人物が登場する話もあります。

  また、昭和歌謡などにはこんな歌詞もあります。(思いつくままにいくつかを)

・♪ 匂い優しい 白百合の 濡れているよな あの瞳 ……    (北上夜曲)

・♪ ぼくら フォークダンスの手をとれば 甘く匂うよ 黒髪が  (高校三年生)

・♪ 芙蓉の高嶺を雲井に望み 紫匂える武蔵野原に ……    (立教大学校歌 大正10年作)

 その一方で「残り香(のこりが)」「移り香(うつりが)」という言葉を使っている歌もあります。

・♪ よこはま たそがれ ホテルの小部屋

               くちづけ 残り香  煙草のけむり ……   (よこはま・たそがれ)

・♪ 隠しきれない 移り香が いつしかあなたに 浸みついた …… (天城越え)

 

 また、「かおり」とせずに「かほり」と表記している歌もあります。

・♪ あぁ 恋のかほり残して あなたは消えた ……        (からたちの小径)

・曲名を『シクラメンの「かほり」』とした歌もあります。

 何故、「におい」とも「かおり」ともせずに「かほり」としたのでしょうか?

 この辺りが、作詞者の言葉に関する感性を感じさせていて、おもしろいですね。

 それはともかく、我が国で古くから使われている「匂う」「匂やか」などの言葉はもっと使いたい、使ってほしい表現だと思うのですが……。皆様、いかがでしょうか。 

 言葉は単に事象を伝えるだけでなく、私たちの心象も伝え、そしてその趣やその雰囲気も伝えるのです。大事にしたいと思います。

 

その2  

 かのドリフターズは「8時だよ 全員集合!」と言っていました。

 この時の「全員」と言う時のアクセントは、「➔➔」でフラットに言っていて音の高低はありません。どこにも音を高めるアクセントはありません。

 しかし、今、「全員」(ぜんいん ➔➔)を「ぜんいん ➔➚」と発音する人が多くなっているように思います。そのアクセントは、例えば、以前、テレビ番組で男性アナウンサーが「ズーム・イン!」と言う時に、「イン」にアクセントを付けて高く(➚)発していたように、「全員」(ぜんいん ➔➔)を「ぜんいん ➔➚」と発語しているのです。テレビを見ていると、そう発語する人は比較的若い人に多い気がします。

 私(たち?)はこれまで「全員」を「ぜん➔いん➔」と高低差を付けず、フラットに発音してきました。しかし、テレビで見る限り、今、巷ではそれこそ全員と言ってもいいくらいの人たちが、「ぜんいん ➔➚」と発音していると思うほどです。

 今年は昭和にすると昭和99年とのこと。昭和25年生まれの私は、そのアクセントを耳にするとちょっと落ち着きません。

 

 これらのことなど、どうでもいいようなことですけれども、じわりと時代や社会が移ろっているのを感じます。

    

 このブログへのアクセスは、 

 「さらばさつき園園長室 障害者福祉の明日を語ろう」で検索可能です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「トットちゃん」の奇跡

2024年03月07日 | 日記・エッセイ・コラム

 何やらバタバタしていた2月が行き、もうすっかり3月になりました。久しぶりのブログです。

 

 『続 窓際のトットちゃん』を読んだ。

 著者は言わずと知れた黒柳徹子だ。

 父親は著名な音楽家で、庶民とはいいがたい、昔で言うハイソサエティーに属すと思われる家庭に生まれ、第二次世界大戦を体験し、戦後を体験し、昭和、平成、そして令和の今も現役として活躍している。

 何かを意図しているでもなく、したり顔で教訓を垂れることもなく、人を煽るでもなく、そして己の才をひけらかすでもなく、押し付けがましくもなく、ただただ天与の明るさと素直さに包まれ育まれた、独特の感性を感じさせる文章であり語りだ。90歳という今日までの自分史を明るく、生き生きと語るトットちゃんだ。

 その書き振りから、戦前、戦中、終戦。そして戦後の復興に至る時代に生きた人々の暮らしがどんなものだったのかが、他のどんな表現方法に拠るものよりも、私には我が身に沁みて、よーくわかった気がした。

 戦後まもなくNHKのテレビジョン放送が始まり、そのテレビ時代の第一期生としてNHKテレビ放送の歴史とともに歩んできているトットちゃん。その生い立ち、家庭環境、戦前・戦中・戦後の人々との日々。国際的な平和・福祉活動。そして長寿のテレビ番組となっている番組開始から49年目を迎えたという「徹子の部屋」。ページをめくるほどに、私は彼女の存在とその人生はまさに奇跡だと思った。

 そんな人生を歩く人を私は知らない。

 その天与の明るさと素直さと独特の感性で現実をちゃんと受け入れ、しかもどこまでも前を向いて人生を歩む人は、これからはもう出てこないだろうと思うくらいだ。

 90歳になるというトットちゃんにはトットちゃんのままに歩き続け、年齢を重ねても変わらぬその天与の明るさと素直さに包まれた独特の感性で、体験した時代のことをあとに続く者たちに語り尽くしてほしいと思う。

 

 このブログへのアクセスは、 

 「さらばさつき園園長室 障害者福祉の明日を語ろう」で検索可能です。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

羽田⇒岩国便で

2024年01月31日 | 日記・エッセイ・コラム

 先週末から出かけていて、昨日、羽田発の岩国便で戻りました。

 土日や3連休などでは満席の状態でしたが、昨日は3割から4割ほどといったところで、気分も幾分ゆったりとしていました。窓際の私の席の隣り2つも空席です。

 その中にあって、私(14A)の前席の13A・B・Cは子ども連れの若いご夫婦でした。お子さんは女の子で1歳半から2歳くらいかなと、思われました。

 すると、CA(キャビンアテンダント 客室乗務員)さんの機内放送が始まった頃からだったか、その子がぐずり始めたのです。一呼吸一呼吸、泣き声は大きく機内全体に聞こえるほどです。時折、前の席のお父さんの左肩越しに彼女の顔が見えますが、眉間にしわを寄せて、涙を流して、時には咳き込みながら泣いています。

 ベルト着用サインが点灯している間は機内での移動は出来ませんので、お父さんは声を出さずに、抱きしめたり、抱きながら小さくゆすってみたり。お母さんの様子はよく見えませんが、時々、手が見えたり、小さな声であやすのが聞こえてきたりしています。機内の音や気圧の関係や閉塞感などが影響しているのだろうかと、無い知識で想像したりしましたが、甲高い泣き声は止むことはありません。

 と、座ったままのお父さんに抱かれた彼女の顔が左肩越しに見えました。すると、2つの丸い黒い瞳がじっと私を見つめてきます。私は声を出すのはどうかと思い、両のまぶたをパチパチ開けたり閉じたり。それから大きく開けたり閉じたりなどを繰り返し、彼女の表情が何とか緩まないかなぁーと試みました。また、笑いかけてもみましたが、いかんせんマスクをしていますので、笑顔がうまく伝わりません。そうこうしているうちに、向き直った彼女はまた大きな声をあげて泣き始めました。私の努力(?)は効果なしでした。

 ベルト着用のサインが消えると、お父さんは彼女を抱いて、あやしながら機内を短く行ったり来たり。

 一通り、飲み物のサービスが終わります。その時、CAさんがいつもは聞かないのに「飲み物のお代わりはよろしいですか?」と、私に聞いてきます。ちょっと驚いて「いえ、結構です」と答えると、私の顔近くまで身を低くして、小声で「お席を換わられますか」と聞くのです。「いえ、大丈夫ですよ」と私。「なるほどね」心の中で呟き、納得していました。

 いっこうに泣き声が収まらないまま、飛行機は岩国錦帯橋空港に到着しました。

 ベルト着用サインが消えてから、前席のご夫婦に「お疲れさまでしたね」を声をかけました。すると、「ご迷惑をおかけしてすみませんでした」とお二人は小さく頭を下げられました。「いえいえ、大丈夫でしたよ」と私。

 その時です。今まで泣きに泣いて、泣きじゃくっていた彼女が、その2つの丸い黒い瞳で私を見つめたまま、私に向かって小さな右手を差し出してきたのです。私は驚いて、思わずその小さな右手を私の右手の5本の指で優しく包んで、「おー、ありがとね。ありがとね」と言っていました。彼女のお父さんもお母さんも、それはもうびっくりされていました。

 いったい彼女の気持ちはどんなだったのでしょうか。どうしておよそ1時間半ものあいだ泣き通していたのでしょうか。どうして私に向かって手を差し伸べてきたのでしょうか。

 荷物を下ろして、身支度を整えて、「じゃね。バイバイ。また会いましょう。元気でね」と言って、私は出口に向かいました。お父さんにもお母さんにも笑顔が戻ってよかった。私もほっとした気持ちになっていました。

 他の乗客の皆さん、CAさんたちはどんな思いだったでしょうか。

 私たちの人生、お互い様と思います。もう会うことはないだろうけれど、頑張ってほしいものです。

 

 このブログへのアクセスは、 

 「さらばさつき園園長室 障害者福祉の明日を語ろう」で検索可能です。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

被災地取材のテレビ報道で

2024年01月31日 | 日記・エッセイ・コラム

 先日のこと。テレビを点けたら、ニュースの時間だった。

 能登半島地震の被災地取材の映像が流れていた。

 反射的に画面に目を向けると、若い男性のレポーターが一人の中年かと思われる女性に、何か質問をしたところだった。

が、マイクを向けられたその女性は怯えたような目をしたまま、緊張した様子で立っていた。

 そして、何かをこらえるように、

 「さみしいわ、ふあんだわ、こわいわで……」と静かに答えて、うつむいた。

 若いレポーターはマイクを構えたまま、次の質問を噛み殺したように見えた。

 見ていて、私は、自然が裂けたとき、人間の感情は言葉に乗り切らないのだと思った。

 能登半島地震から、早、ひと月が経つ。

 

 このブログへのアクセスは、 

 「さらばさつき園園長室 障害者福祉の明日を語ろう」で検索可能です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不覚の年賀状

2024年01月07日 | 日記・エッセイ・コラム

 元旦の夕方に起こった能登半島地震に気持ちが揺さぶられています。

 私は投函した今年の年賀状の年始のあいさつの後の1行目に、こう書いてしまっていたのです。

 『心身の健康はともかく 生きている証の年賀状です』

 図らずも、不覚の年賀状となってしまいました。

 例え、年内ぎりぎりに年賀状を書き上げ、投函したとしても、それは新年に自分が生きている証にはならない。年賀状はそれを書いて送った人が新年に生きている証にはならないのです。なのに『生きている証の年賀状です』とは……。

 地震発生前、あるいは地震発生後、能登半島地震で亡くなられた方々からの年賀状を受取った方の心境はいかばかりか、と心が震えます。

 そんな年の初めを迎えています。

 

『昨年4月から 若い日の仕事先でした「全国重症心身障害児(者)を守る会」(東京)に3度目のお世話になっております 山口と時々東京という 行ったり来たりの生活ですが 皆さんとの日々から学んだたくさんのことが力になるものと思います 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます』

 

 羽田空港では飛行機の追突事故も起きて、私の東京行きも、内心、冷や冷やです。

 それでも、皆様、お互いに心身の健康に気をつけてまいりましょう。

 『本年もどうぞよろしく お願い申し上げます』

 

 このブログへのアクセスは、 

 「さらばさつき園園長室 障害者福祉の明日を語ろう」で検索可能です。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

庭にサルが

2023年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム

 今週の月曜日、我が家の庭にサルが出ました。

 先月末辺りから、この団地にもサルが出ているとの話があり、「裏が山なので、そうかもなぁ」と思ってはいましたが、まさか我が家に出るとは……。

 その日は午前中に用があって、車で出かけようとして玄関を開けたら、何と、サルが一匹、庭の小ぶりの木の葉っぱを摘まんでは食べていたのです。玄関の開く音か、人の気配かに気がついて振り向いたサルを追い払おうとして、「こらっ!」と威嚇したら、歯を剥き出しにして、私の車のボンネットや屋根に飛び移ったり、ベランダの支柱を登ろうとしたりして、少々手を焼きました。

 後日、知り合いから「サルはけっこう狂暴だから用心してください」との忠告もいただいた次第です。

 おサルさんにも生き延びるのに厳しい時代、厳しい地球環境になりました。

 

 このブログのアクセスは、 

 「さらばさつき園園長室 障害者福祉の明日を語ろう」で検索可能です。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現地住民説明会 25年前と今と

2023年12月20日 | 日記・エッセイ・コラム

 かれこれ25年ほど前になりますが、私はその頃、ある社会福祉法人の運営する障害福祉事業所の職員でした。ある時、その法人が新規に予定する障害者入居施設建設計画に伴う、建設予定地区の住民の方々に対する現地住民説明会に出席することがありました。

 その時の現地住民説明会では、のっけから「どうしてここにそんな建物を建てるのか。どうしてここなのか。他所にもっと適当な場所がいくらでもあるだろう。他所を探してもらいたい」といった厳しい意見が地域住民の方々から上がりました。しかも、その建設反対の雰囲気はその場に出席してはいるけれど発言をしない方々からも、重い無言の圧力として感じられました。結局、その雰囲気のまま説明会は終了し、その後、いろいろな経過を経た結果、私たちはその地での新規施設の建設を断念したのです。忘れもしない出来事です。

 それから25年ほど経った最近のことです。25年前とは別のある社会福祉法人が児童福祉事業として計画する入居施設の建設予定地区での、現地住民説明会が行われました。私は現在、その法人の関係者の一人ですので、2回目の説明会から出席をいたしました。

 私が所用で出席できなかった第1回目には、その法人の組織、歴史、事業内容、運営方針、職員のこと、そして新しく建設を予定している施設に関すること、そこを利用することになるだろう子どもたちのこと、等々について説明をし、その後、出席した地域の方々からのいろいろな質問を受けたとのこと。

 私が出席したその日の現地説明会(説明会としては4回目)では、これまで法人内の会議室での3回の説明会で出された質問について、建設予定の現地で具体的に確認することでした。その主なものは、例えば①幅や高さ(例えば土地の境界線からの建物の壁面までの距離・フェンスの高さなど) ②設置する物の形状や色(フェンスの形/網状かスリットがあるか・環境に馴染む色か・どの程度プライバシーが保護されるかなど) ③熱と音(主にエアコンの室外機・また施設利用者の声など) ④そこからの臭い(主にごみの集積場の場所) ⑤屋根に設置予定の太陽光パネルの反射光の角度など、についてでした。

 およそ2時間余り、現地で立ち会っていた私は、住民の方々からの質問や心配事について、一つひとつていねいに説明していく設計士や法人の責任者の話しを聞きながら、ある心配をしていました。

 果たして、住民の方々はこの法人が建築を計画しているその入居施設に、どれだけの関心と理解を持とうとしているのだろうか……と。もっとこの法人の組織や歴史、事業内容や新築予定の施設のこと、そしてそれを利用する子どもたちのことなどに関する質問をたくさんしてほしい、と思っていたのです。

 それらは1回目で十分聞いたので分かったし、納得もした、ということなのでしょうか……。

 それは、25年前の、のっけからその地区での建設に反対する声が語気強く、激しく上がった現地住民への説明会とは大違いでしたが……。

 どうか、そこに住まうことになる子どもたちのことに、そしてその子どもたちの生い立ちやこれからの人生に、もっともっと関心を持っていただきたいと思うのです。

 今、果たして私たちの社会は社会福祉をどこまで我が事として関心を持ち、理解し、支えようとしているのでしょうか。それは25年前とはどう違うのでしょうか。あるいは今もそれは変わらないのでしょうか。社会福祉は「可哀想な人たち、可哀想な子どもたち」のためだけのことではなく、過去から未来に連綿として続くこの社会の、そして私たちの、個としてではなく類としての、社会全体の課題なのです。 

 

 このブログへのアクセスは、 

 「さらばさつき園園長室 障害者福祉の明日を語ろう」で検索可能です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あゝ おまへはなにをして来たのだと……

2023年11月10日 | 日記・エッセイ・コラム

 先日、某大学での「虐待対応と意思決定支援」というテーマの講義を聞きに出かけて来ました。それは、その分野で著名なある大学教授を招いての障害者虐待と意思決定支援に関する特別講義で、その大学の社会福祉学部社会福祉学科1年生(学生数およそ100人)の授業の一環として行われたものでしたが、一般からの受講者も受け入れていたのです。

 講義開始時刻が近づくと、会場正面の左右の入り口から男女の学生が次々に入って来ます。

 講義の会場となっていた階段教室に三々五々入室して来た人たちは大半が学生諸君で、他は私が見知っている障害者福祉の支援現場の職員など10人(?)ほどと、懇意の弁護士さんで、そのほかはよく存じ上げない方々でした。日頃、大学生とのつき合いや交流がない私はちょっと新鮮な思いで、入ってくる彼らの表情や仕草を眺めていました。

 「こうした学生たちがこの国のこれからの社会福祉を担うのか……」と、胸に期待と不安が湧きます。

 今どきの大学生で、社会福祉を志す彼らはこれまでどんな人生を過ごして来たから、今ここにいるのだろうか。まだ20年足らずの人生で、社会福祉に関心を寄せて勉強しようとする彼らのこれまでとその思いを知りたいと思います。私はといえば、彼らの年齢の時には浪人しており、先のことなどまったく思いも悩みもしていませんでした。ただわずかに「教師になりたいかな!?」くらいのことでした。

 それから半世紀を経て、我が国の社会福祉はいったいどこにあるのでしょうか。ことに障害者福祉は未だに、おためごかしの優しい素振りで覆っている根深い社会の差別と偏見の中で、見て見ぬ振りをする日常に埋もれています。

 その障害者福祉の世界におよそ通算45年、この身を置いてきた私はなにをしてきたのかと、茫然とするばかりです。

 

  あゝ おまへはなにをして来たのだと……

  吹き来る風が私に云ふ      (帰郷  中原中也「山羊の歌」より)      

 

 

 このブログのアクセスは、 

 「さらばさつき園園長室 障害者福祉の明日を語ろう」で検索可能です。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

障害者福祉の始まり

2023年10月26日 | 日記・エッセイ・コラム

 書物を読んでいて、ずんと胸に響く言葉に出合いました。

 「無知は偏見を招きます」

 その言葉に出合ったのは、障害者福祉とは全く関係のない内容の書物を読んでいた時のことでしたが、それは長く(?)障害者福祉に携わっている私も思うことでした。

 「無知は偏見を招きます」

 自分の無知を棚に上げて、障害者福祉の在り方について、したり顔で語る人たちをこれまでたくさん見てきました。その多くは意識的にか無意識にか、自分の価値観を押し付けているのではないか、と思うからです。

 およそ60年前。私たちの社会は「社会の役に立たない人間に国のお金は使わない」という価値観でした。その価値観は、今の社会にも根深くあると感じます。

 障害者に対するその無知をなくさぬ限り、根本的な命題である障害者に対する差別と偏見はなくならないのではないか。

 いったい、私たちは私たちが障害者と呼ぶ彼や彼女の何を知っているのでしょうか。

 他人の印象や感想。あるいは専門家と呼ばれている人たちの報告や見解。それらをあたかも自分の実感や見解などとしてはいないだろうか。

 どうか、あなた自身が障害者に直に触れてほしい。言葉をかけてほしい。彼や彼女と名乗り合ってほしい。そして「また会いましょう」と伝えてほしい。

 そういうことから障害者福祉は始まる。いや、そこからしか障害者福祉は始まらないと思うのですが。

 

 このブログのアクセスは、 

 「さらばさつき園園長室 障害者福祉の明日を語ろう」で検索可能です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする