実体のない言葉

2018年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム

 例えば、

『私は 今日 一生懸命 仕事を した』

という文章から、あるいは発言から、私たちは何を知るのだろうか。
 この文章で確かなものは、「私」と「今日」だけだ。
「一生懸命」も「仕事」も「した」も確かなものではない。
 何故なら、私以外の人には、「一生懸命」も「仕事」も「した」も確認する術がない。
 しかし、「私」には「一生懸命」も「仕事」も「した」も確かなものなのだ。そして、「私」が私以外の人に伝えたいのも「一生懸命」であり「仕事」であり、「した」なのだ。
 これらは主観に属す内容を持つ。「一生懸命」は主観であり、客観ではない。一見客観に思えそうな「仕事」も、やはり主観だ。そして、「した」も主観だ。どこまでも、私自身が、「一生懸命に仕事をした」と思っているだけなのだ。私以外の人にとって、それはどんなに力説されようとも、客観にはならない。
 こうした他者にとって実体のない、しかし本人にとってはすこぶる重要な意味を持つ言葉に馴染んでいくと、本人にはあたかもそれが客観としてあるように思えてくるのか。
 自己満足感に浸り込んで、自己膨張する自意識。

『私は 今日 一生懸命 仕事を した』

「一生懸命仕事をした」ことは、私自身ではなく、私以外の他者によって確認、立証されなくてはならない。しかし、そんなことは現実には成し得ない。
 主観と客観とがぴたりと一致することは、ない。
 実体のない言葉が氾濫し、主観と客観が様々にずれる時代と社会に、私たちは生きている。


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だから、頑張るのです

2018年04月10日 | 日記・エッセイ・コラム

 毎年のことですが、去って行く人あれば、やって来る人ありの季節を迎えました。この春、さつき園でも職員の異動があり、新しい陣容で新年度を迎えました。
 年度末に去って行く人に涙した利用者も今は元気に通所して来てくれています。新しくやって来た人にもそろそろ馴染んで来たでしょうか。利用者の笑い声を耳にすると、超(?)忙しい私も元気が湧いてくるようです。
 さつき園は、その時、その時のさつき園で働く職員の仕事ぶりに支えられて、30有余年の時をこの地に刻んできました。去って行った人たちは元気でしょうか。今、何を考えているでしょうか。これからやって来る人はどこにいるのでしょうか。今、何を考えているのでしょうか。思えば、不思議な人と人の出会いと別れです。
 そうした人と人との出会いと別れを利用者も毎年、体験しています。障害者と呼ばれる人生の、ある時間をそれらの職員とともにさつき園で過ごす彼らにとって、さつき園は楽しいところでしょうか。さつき園は彼らに豊かな人生の時間を提供することが出来ているでしょうか。そして、去って行った人たちは彼らから何を得たでしょうか。
 さつき園で働く私たちにとって、さつき園は生活の糧を得る単なる労働の場ではありません。私たちにとって辛く、きつく、苦しい時もありますが、何より、利用者の明るさ、素直さ、元気の良さに救われています。無償の彼らの存在に私たちは感謝せねばなりません。だから、私たちは頑張るのです。


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