二つの映像の衝撃

2022年05月29日 | 日記・エッセイ・コラム

 その日、私はテレビで立て続けに二つの映像を見ました。

 それはある脳神経外科医が脳梗塞や脳出血、くも膜下出血などの脳卒中に加え、未破裂脳動脈瘤や脳腫瘍などの中枢神経系疾患に対し、最先端の高度脳神経外科治療としての手術を施す映像でした。

 もう一つは別のチャンネルで、度重なる砲撃や銃撃によって繰り返される人間の殺戮と建物破壊の映像でした。

 そこには目の前の人間の命に向き合い、一人の人間の命を救おうとする人間がいました。片や、人間の精神を弄び、平然と老若男女の区別なく、夥しい数の人間の命を奪う人間がいました。

 その時私は、図らずも人間の命に向かって対照的な意識と価値観を持って行動する二人の人間に関する映像を一気に見ることになったのでした。

 いつの時代でも、人間の命を救おうとする人間はいる。また、反対に人間の命を奪う人間がいる。そうだろうことは分かる。分かるけれども、しかしその時、対照的な二つの衝撃的な映像を続けて見た私の精神は、言葉もなく、呆然と立ち尽くしてしまったのです。

 これは私たちの遠い祖先から続く、その出現以来、不可避的に負っている人間存在の現実なのでしょう………か。私たちはこれを超えることは出来ないのだろうか。

 

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辻井くんのあたたかさ

2022年05月13日 | 日記・エッセイ・コラム

 先日、ピアニスト辻井伸行を特集したテレビ番組を見ました。

 その番組の後半、彼のピアノ演奏の映像が流れていた時、何と演奏中のピアノの弦が1本切れてしまったのです。オレンジ色のその弦は切れた瞬間、ピアノの外へ大きな曲線となって撥ねて出て、ゆらゆら揺れていました。瞬間、私には何が起こったのか分かりませんでした。それはあまりに突然で、しかも一瞬のことで、オレンジ色をした明かりの線が画面の下方に流れたようにしか見えなかったからです。突然に撥ね出たその曲線は、しばらくぷらんぷらんと揺れていました。そこで私はピアノの弦が切れたのだとやっと悟ったのでした。

 この時のコンサートで辻井くんはアンコール曲のあとに、もう1曲演奏することを予定していて、その曲の演奏中に弦は切れたのです。もちろん彼は何事もなかったかのように最後まで演奏します。

 私はピアノ演奏中に弦が切れたのを初めてみました。弾いている人には音が変わったのが分かるのでしょうが、私にはまったく分かりませんでした。いえ、分かるはずなどありません。

 しかし、さすがに辻井くんは演奏後に戻った舞台の袖で、すぐにそのことを口にします。と、次の瞬間、彼は彼に付き添う男性の腕を促すように掴み、舞台に戻ると、予定にはなかったはずの曲を演奏し始めたのです。迎える観客の拍手がひと際は大きく会場に響きます。

 演奏後、正面席の観客と舞台背後の席の観客、その大勢の観客それぞれに、辻井くんはていねいに彼独特のお辞儀をして、付き添う男性に促されて退場します。が、その時、珍しいことに彼は客席に向かって手を振りながら、舞台の袖に下がったのです。袖に戻った辻井くんの顔は少し紅潮して見えましたが、すこぶる満足そうでした。その演奏はもちろん、その態度も仕草も、さすがの辻井くんでした。

 余談ですが、私がその名前をちゃんと言えるピアニストは、たったの二人。一人はフジコさん。そしてもう一人は辻井くんです。気になる二人なのです。

 

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街角ピアノ

2022年05月11日 | 日記・エッセイ・コラム

 駅ピアノ。空港ピアノ。街角ピアノ。好きなテレビ番組だ。

 日本各地に限らず、ピアノは世界の主だった国の鉄道の駅、空港ロビー、街角のビルの一角、等々にも「どうぞお気軽にお弾きください」とでも言うように置いてある。ピアノには弾く人を撮影するための小型のカメラが数か所設置してある。

 そこを通りがかってピアノを弾こうと思った人はピアノが空いていたら、周囲を気にしながらも黙って椅子に座って弾き始める。弾き終わると、撮影スタッフが彼や彼女にいくつかの質問をしているようだ。答える様子が音声とともに映る。スタッフの顔や声は画面には出ない。それがいい。あくまでの主役はピアノと、そのピアノを弾く人と、たまたまその演奏を気にしながらも、近くを行き交う人たちなのだ。

 そしてスタッフからの質問への受け答えで、見ている私たちは弾いた人の人生の一端を垣間見ることになる。小中学生くらいからご高齢の方まで、男女を問わず、家族の状況も、職業も、生活振りもいろいろ。その日そのピアノに出合うまでの行動も様々。ピアノを弾くようになった経緯も様々。

 残念ながらピアノが弾けない私からみると、上手と思える人も、そうでないかなと思う人もいる。でもその人たちの演奏の様子、その表情や指の動き、そしてそこで語られるこれまでのこと、今のこと、これからのこと……を見聞きしていると、しみじみ「みんな、この地球で、この世界で、懸命に生きているんだなあー」と思わせられる。

 たった15分間の番組。だけど、いい番組だと思う。

 

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「商売ですから」!?

2022年05月03日 | 日記・エッセイ・コラム

 その人は平然とそう口にしたのです。

 「私たちは商売ですから」

 先日、障害者における入所施設からの地域生活への移行を権利擁護の視点からどう考えるか、という研究会(?情報交換会?)に出席してきました。

 これはそのときの、いくつかの障害者福祉施設・事業所を経営する社会福祉法人組織の代表者の発言です。瞬間、耳を疑いました。国のカネを使って商売をしているというのか。

 規制緩和もあって、社会福祉の分野にも民間企業が参入してきています。商売の基本はコストを抑え、利潤を得るものです。コストパフォーマンスという言葉や費用対効果といった、いかにも「経営者!」と思わせるような言葉をしたり顔で口にする人をよく見聞しますが、つまりは商売は儲けるのが目的です。

 その「商売ですから」と言う言葉には障害者と呼ばれる人たち一人ひとりの、その命、その人生に対する敬意も想像も配慮も感じられません。個々の障害者のその命その人生はそこでは単なるその時々の数量としての「1」でしかないのです。定員□人・現員□人・入所者□人・退所者□人・待機者□人……。

 ことに知的障害者の場合にそれは顕著と思います。多くの物言わぬ知的障害者、物言えぬ知的障害者のその命、その人生に敬意を払い、想像し、付かず離れずの支援、寄り添いが知的障害者福祉です。

 社会福祉に関わる組織人が何のはばかりもなく社会福祉事業を「商売です」と言うのは、自分のことを健常者と言って何の違和感も感じない者の驕りなのです。それが、その組織全体、末端まで浸透していくのが恐ろしい。私たちはその組織の在り方に関心を持たねばなりません。

 価値観は健常者の価値観もありますが、障害者の価値観もあるのです。私たち人類の価値観は1つじゃない。それを認めてこそが、誰かが言っている共生社会とやらの、初めの一歩なのです。

 果たして、国のカネで商売して儲けを上げて……、それを社会は良しとするだろうか。

 

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