「古川さんも気をつけてね」

2021年05月17日 | 日記・エッセイ・コラム

 先週、さつき園の利用者○○さんから携帯に電話がありました。

「はい、古川です」

「あー、○○じゃけどー」 「おー、○○さんかねー」

「うん、〇〇です」 「おー、元気かねー」

「うん、元気よー」 「そりゃーよかった。で、どうしたんね。何かあったんかねー」

「いいや、なんもないけど、コロナがはやっとるけー、心配じゃったけー電話したんよ」

「おーそうかそうか。そりゃーありがとね。今、コロナがえらいはやっとるけぇねー。心配してくれてありがとね」

「うん、用心しんさいね」 「はい、用心しますよ。○○さんも気をつけんさいよ。マスクしちょるかね」 

「うん、マスクしちょるよ。古川さんも気をつけてね」 「はい、気をつけるよ。電話、どうもありがとね」

「じゃーね。古川さん、気をつけてね。さいなら」 「はい、さいなら。○○さんも元気でな」

「はい、ありがとう。さいなら……」

 安心したように、○○さんは電話を切ります。

 ずっと前から、○○さんは台風が発生するたびに、「園長さん、台風が発生したよ」と言って、休みの日でもよく携帯電話で私に教えてくれていました。それも遥か遠くの南の海上に発生した台風で、その進路がまだどうなるかは分からないような時でも電話をしてくれていたのです。私は、その電話の最後の「園長さんも気をつけてね」という言葉を聞くたびに、○○さんの心根の優しさをしみじみ感じていました。

 ところがその日はもう一つ、思いがけず「しみじみ」したことがありました。

 それは、これまで私のことを「園長さん」と呼んでいた○○さんが、その電話では「古川さん」と呼んだことです。

 携帯電話の先で、○○さんが私を「古川さん」と呼ぶのを聞いて、私はこれまで長年慣れっこになっていて、私自身は園長と利用者という関係に拘泥してはいなかったけれど、○○さんたち利用者からすれば対等な関係ではなく、極端に言えば、この人の言うことは嫌でも従わなくてはならないという関係なのだ、と無意識のうちに感じていたのではないか、と思い至りました。

 ○○さんは周りの誰かから「もう園長さんじゃないんじゃけ―、園長さんちゅうて呼んじゃぁいけんのんよ。古川さんなんよ」と言われたのかもしれません。が、よくぞ「古川さん」に、これまでと同じように電話をしてくれたものだと、しみじみ○○さんに感謝したことでした。

 成人の障害者を呼ぶのに「~ちゃん」と呼んだり、名前の呼び捨ては止めよう。子ども扱いは止めて、まず名前の呼び方から直して、その人たちの人権を尊重しよう……。私はこれまで至る所で、ことあるごとにそう発言して来ました。

 今、「園長さん」から「古川さん」に戻った私と○○さんたちとの関係は、お互いに「○○さん」「古川さん」と呼び合う、一個人同士の関係になったのです。

 

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命と政治・経済

2021年05月13日 | 日記・エッセイ・コラム

 先日、インドの首相はある宗教の信者集団を自分の支持基盤としているので、大勢の信者がガンジス川で行う、遥か昔からの宗教行事を思い留まらせることをしなかった、とのテレビ報道を見ました。画面には、失礼ながら大量の茶色の泥水が流れているかと思われる川に、簡単な布しかまとわぬ裸同然の姿の夥しい人々が密集し、嬉々として沐浴と称する水浴びをしている映像が流れていました。

 いかに信心深い人々の厚い信仰心、そして信仰者の熱心な祈りとはいえ、今、コロナの感染拡大が止まらない国ですることではないだろう。他の感染症の心配もあるだろうに、とびっくりです。

 インドの首相は人間の命と人間が作り上げた政治という社会システムとを天秤にかけて、己の政治生命の延命に、より重きを置いたということでしょうか。インドでは、今では1日に40万人近い国民が新型コロナウイルス、あるいは異種のウイルスの感染に晒され続け、4千人近い死者が出続けているといいます。

 果たして、このことには政治が絡んでいるとはいえ、私たちの命以上にこうした宗教行事は大事なことなのでしょうか。

 そして今、間近に迫った東京オリンピック・パラリンピックの開催の是非について喧(かまびす)しくなってきました。

 東京オリンピック・パラリンピックの開催には世界各国の政治や経済が絡んでいますから、純粋に平和の祭典とかスポーツの祭典などとのんきには語れません。

 しかし、世界の政治や経済が絡んでいるとはいえ、果たして今、東京五輪を開催することは私たちの命以上に大事なことなのでしょうか。

 自然である私たちの命が、同じ自然によって危機に晒されているのです。そうした自然に対する私たちの行為行動は、もう少し賢明であり、謙虚でありたいと思います。

「人工物である政治や経済がなんぼのもんじゃ」と、言ってみたい心境です。

 

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呆れた物言い

2021年05月12日 | 日記・エッセイ・コラム

 今や、名の知れたアスリートと呼ばれる人たちを始め、中・高校生から一般のスポーツ選手に至るまでが、こう口にするのをテレビ、新聞などで見聞きする。

「人々に元気を与えたい」(!?)

 驚くべき発言だ。 

 彼らのパフォーマンスやその結果から、たまたま「元気」なるものを受け取った側が「元気をもらいました」というのはあり得ることと思う。

 しかし、だからと言って、結果的に元気を与えたことになる側の人間が先走って、

「元気を与えたい」

と言うのはいかがなものか。

 いったいどこに立っての物言いなのか、と呆れてしまう。

 障害者に対する“してやってる感”と同じニオイがする。

 

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毎春、新入職員諸君等に聞いてみたいこと

2021年05月01日 | 日記・エッセイ・コラム

 新年度を迎えたものの、依然新型コロナウイルス感染の勢いは収まらず、しかも変異ウイルスの出現が輪をかけて私たちの不安を掻き立てています。

 昨年に続き、そんな不安に襲われてしまっている今年の春ですが、私は今年も、この春から障害者福祉の支援現場で働き始めた新入職員諸君の心の内はどんなものかと、関心を寄せています。

 だから、私は今年も彼らに訊ねます。

「どうして君たちは障害者福祉の仕事を選んだのですか?」

 

 高齢者福祉の道はみんなが行く道。だから、誰もが関心を持つのです。

 しかし、障害者福祉の道はだれもが行く道ではありません。だから、みんなの関心は薄いのです。

 しかし、障害者福祉は図らずも「障害者」と呼ばれてしまっている人たち個々の問題ではなく、その人たちを「障害者」と呼んで何の疑問も感じない私たちの問題であり、私たちこそが克服し、解放すべき命題なのです。

 

「どうして君たちは障害者福祉の仕事を選んだのですか?」

 来年の春、3年目の春、5年目の春、10年目の春、その時、彼らはどう答えてくれるでしょうか。

 彼らに寄せる、私の期待はすこぶる大きいのです。

 

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