書くということ
① 町田康の詩から
町田康の小説はおもしろい。町田康の散文の独特な語り調のリズムの核は、彼の詩の中に込められているように見える。これを逆にたどると、はじめはたぶん音楽にのせる詩を書いていたと思われるが、音楽性を禁じられた詩(音楽にのせるとは限らない詩)を書いていく中から、その音楽性がしだいに語り調のリズムに転化し、散文化していったのではなかろうか。
「頭腐」という詩がある。
頭腐……①
頭が腐っているのじゃよ
頭が腐っているのじゃよ
頭が腐っているのじゃよ
頭が腐っているのじゃよ
頭が腐っているのじゃよ
頭が腐っているのじゃよ
頭が腐っているのじゃよ
頭が腐っているのじゃよ
頭が腐っているのじゃよ
頭が腐っているのじゃよ
頭が腐っているのじゃよ
頭が腐っているのじゃよ
頭が腐っているのじゃよ
頭が腐っているのじゃよ
頭が腐っているのじゃよ
頭が腐っているのじゃよ
頭が腐っているのじゃよ
頭が腐っているのじゃよ
頭が腐っているのじゃよ
頭が腐っているのじゃよ
頭が腐っているのじゃよ
頭が腐っているのじゃよ
頭が腐っているのじゃよ
頭が腐っているのじゃよ
頭が腐っているのじゃよ
(詩集『供花』町田康 新潮文庫)
普通、このようには詩は書かれない。ある言葉が選択され、詩の世界への入り口があり、場面が開示され、転換していく。そして詩の世界の出口から抜けていく。この詩の言葉を、例えば、現実の場面で、相手に何か言われて、それに応酬するときの言葉と見なすと、この言葉は濃い濃度の言葉、呪文のような言葉と見なすことができる。そして、詩の世界に戻すなら、その相手はこの社会という関係の錯綜した世界であり、その世界の渦中に存在している自己から分離した語り手が、自己に対して、その有り様に対して親密感(―のだ、ではなく―のじゃよ)を持ちながら断言するように繰り返しつぶやいている。それがこの詩における高濃度の強固な自己像を放出している。
これが1行の詩の場合とこの詩の行数の場合の違いは何か。まず、くり返されることにより、意味の強度が増す。また、この詩の言葉の全体が、視覚的な圧倒感をもたらす。作者がその視覚的なイメージを意識していたかどうかはわからないが、投げ出された作品の意味の畳重ねと全体の視覚的なイメージによって、わたしたち読者は、不定な呪文のような言葉に誘われるようにして、その「頭が腐っている」自己像の先の沈黙の在所を想像するほかない。これが詩かという思いが起こるが、町田康はよく繰り返しの手法を用いている。まだ彼の音楽は聴いたことがないが、たぶん音楽にのせる詩として詩を表現してきたことも関係しているだろう。この詩はいろんな強弱や旋律をもった音楽にのせると詩としての生命感をもてるのかもしれない。この詩と似た詩を偶然見つけた。山村暮鳥の詩である。
風景 純銀もざいく
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしやべり
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
やめるはひるのつき
いちめんのなのはな。
(「聖三稜玻璃」(大正4)所収)
作者は、一面の菜の花を目にしている(目にしてきた)。詩の言葉として「いちめんのなのはな」を繰り返す毎に、その視覚性は積み重ねられ、ある剰余を漂わせる。あるいは、一面の菜の花がある感受を作者にもたらしていると言ってもいい。その場面に人の気配やひばりのさえずりなどの音や場違いな月が埋め込まれるように静かに場面は転換している。あるいは、書き出す前に、モザイク画のような風景のイメージが構想として浮かんでいたのかもしれない。また、絵画のような詩を試みたのかもしれない。いずれにしても、この詩は視覚的なイメージを意識した作品になっており、読む者に「いちめんのなのはな」の視覚的イメージを強く喚起させようとする作品である。そして、ひらがな表記がその場面のイメージにある柔らかさを付け加えている。こういう言葉の表現が詩になるのは、つまり美として成立するのは、わたしたちは日々いろんなものを見、聴き、触れて生活しており、なんらかの心の揺れや高まりや異和などを感受したり放ったりしているからである。もちろん、この詩に感動するかどうかはまた別の問題である。私の場合は、詩の作りとしての面白みは感じても、ちょっと技巧的すぎる感じで、感動が湧かなかった。ただ書かれた当時としてのこの詩の新鮮さは、今のわたしは測ることができないが、別にあったのかもしれない。
町田康の①の詩とこの詩のくり返される言葉の違いは、「頭が腐っているのじゃよ」という人間の有り様という意味性と「いちめんのなのはな」という自然物への視覚性との違いであり、そこから意味の畳重ねか視覚性の畳重ねかという違いになっている。
ところで、町田康の公式サイトに①の詩と似たような詩がある。
頭が腐る……②
頭が腐っているのじゃよ
頭が腐っているのじゃよ
頭が腐っているのじゃよ
頭が腐っているのじゃよ
俺の頭の腐りまくりの
勉強できない仕事もできない
みんなに叱られ酒場の片隅
出会ったきれいな人の
心が腐っているのじゃよ
心が腐っているのじゃよ
心が腐っているのじゃよ
心が腐っているのじゃよ
君の心が腐りまくりの
性格悪すぎ、よくみりゃ不細工
おまけに嘘つき飯屋に入って
陰気に君が頼んだ
ごはんが腐っているのじゃよ
ごはんが腐っているのじゃよ
ししゃもが腐っているのじゃよ
すべてが腐っているのじゃよ
この世のすべてが腐りまくりの
(OfficialMachidaKouWebsiteより)
前の詩と同じ「じゃよ」の流れであるが、町田康は、こういう古い語りの言葉をときどき詩に散りばめている。語り手は、自画像を描く手つきで言葉を酷使する。あるいは押し殺した叫びのように言葉を超えようとする。ちょうど自分の存在の意味の強度、つまり無力感の強度と対応するように。この詩は町田康の詩の中でもわかりやすい詩である。前の①の詩と比べて、詩の入り口と出口が表現されている。「俺」は、この世界での日々の場面で、追い込まれるような無力感を感じており、その生存の有り様を「腐っている」と感受している。そして、そういう感受のまなざしからは、「君」もこの世界全体もそのようなものに反転し染め上げられていく。ストレートなこの世界への憎悪ではなく、語り調の言葉がそれを濾過して、眺められた無力感や自虐性の自己像として表現されている。
詩の言葉の繰り返しに関して、同じ言葉の繰り返しに対して、それが転調しながらうねるように表現された詩がある。
主題……③
ずんべらぼになてずんずん
ずんべらぼになてずんずん
ずんべらぼになてもてずへらかずんずん
ずんべらぼになてずべらぼになてずんずんべらぼ
ずんべらぼになてずんずん
ずんべらぼになてずんずん
ずんべらぼになてもてずへらかずんずん
ずんべらぼになてずべらぼになてずんずんべらぼ
ずべらぼらぼずべらぼらぼずうずべらべらべらぼらぼ
ずべらべらぼずべらべらずべらかぼらぼずずず
ずんべらぼになてずんずん
ずんべらぼになてずんずん
ずんべらぼになてもてずへらかずんずん
ずんべらぼになてずべらぼになてずんずんべらぼ
(詩集『供花』新潮文庫)
この詩は、詩集『土間の四十八滝』(ハルキ文庫)の「オレの場合はこんなケース」という詩にも挿入されているが、③のこの詩とまったく同じではなく別の転調がある。わたしは「ずんべらぼ」という言葉は知らなかったが、辞書によると、「ずんべらぼう」は、「(1)のっぺりしていること。のっぺらぼう。(2)行動や態度がなげやりでしまりがないこと。」とある。町田康は大阪生まれで、この言葉は京大阪の方言でもあるらしい。(2)の意味として使われているようだ。
町田康には、異和や無力感にさいなまれながらも、いわばまともな生活や生活世界への抜きがたい意志のようなものが存在する。例えば、わたしは若い頃パチンコに魅入られたことがあるが、よおしここで止めようとか、あるいはパチンコを止めようとかなんども思ったことがある。しかし、立ち上がる意志は、その現場に到ると空しくくずれて、パチンコのもたらす快楽のようなものに引きづり込まれてしまう。町田康の「ずんべらぼ」の歌は、生活世界の境界面からずり落ちるようにして、そのような異和や無力感や快楽にまみれた内面のリズムや広がりを表出しているように見える。
沈黙から発語へ到る過程で、言葉に乗れないような沈黙に向き合い、それを取り出そうとすれば、このような言葉にならないような言葉のリズムの波に乗るしかないのだろうか。言葉としては「いいかげんなやつになってしまった」という無力感と自嘲的な意味以外は無意味なように見えて、沈黙の言葉として見るとその無意味の内面がひとつのリズム(音楽性)として小さな祝祭のように繰り広げられている。面白い詩だと思う。
書くという行為は、言葉を媒介とし、文字を介して、この世界の関係につなぎとめられた自己や世界の姿をある幻想的な世界として開示・創出することだと思われるが、人はなぜそういう表現の世界に入り込んで習慣のように書き続けるかということはそんなに簡単な問題ではない。そこには曰く言い難い衝動のようなものがある。また、この世界での具体的な生活の姿の鏡のような面も持っている。
書くという行為は、当然ながら書くという具体的な過程をたどることによって実現される。書くという過程の道筋で、あるいはその終わりで、書くという行為は反作用のように沈黙の方へ帰っていくものを持っている。そしてまた書くという行為を繰り返す。書くこと、それはこの世界を絶えず新しく生き直そうとする意志のようなものに支えられているのではないか。
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② 手書きかワープロ書きかという問題
ところで、①の詩で、手書きかワープロ書きかという問題を考えてみたい。①の詩が手書きかワープロ書きかは、判定が難しいと思える。どちらでも同じだという見方もあるだろうが、この現在の高度な錯綜とした世界での生活感覚やその世界にどう反応しているかなどと対応して、微妙な差異をもたらすように見える。ワープロ書きは、この世界での浮遊的な日常の感覚と対応して、編集がわりと自在にできて便利であるが、表現の構成や強度の拡散性を内に秘めているように見える。①の詩を手書きで書いた場合の表現の強度よりも、ワープロ書きはたとえ1行書いて後はコピーして表現するということをしてなくても、表現の強度は落ちる。それはコピーして表現することが可能であるというそうしたワープロのシステムの全体的な性格からきている。そういうシステムを使いこなすということは、そのシステムの性格を無意識的にでも受容しているはずだからである。
かといって、手書きがいいとはいいきれない。この世界の変貌と対応するように、表現も重さや暗さから軽さや明るさに変貌をとげている。また、この世界の重さを抜かれた行き詰まり的な様相や浮遊感と対応するように、表現はその構成や強度の拡散性を帯びている。手書きかワープロ書きかという問題も、論じる人々の手つきは文明論的な様相を帯びている。しかし、この問題は、現在のあらゆる個々の問題と連動していて、手書きかワープロ書きかという問題は、この現在という世界の渦中に生きるわたしたちの日常的な感覚や意識の有り様と関係している。この世界への否定面から手書きが、肯定面からワープロ書きが主張されるように思える。その渦中のとまどいのような感覚から論争は湧き上がってきている。現在という世界に対してどういう位置に立つかによって二色の態度となって浮上してくる。したがって、問題は、無意識的な面も含めて現在の世界をどのように受容し、どのように否定しようとしているかという点に求められる。表現の構成や強度の拡散性は、手書きかワープロ書きかに関わらずこの世界の大気を呼吸している、表現しようとする者に共通して訪れているはずだからである。
わたしは主にワープロ書きであるが、かな漢字変換や横書きなど不満がないわけではない。しかし、わりと自然な感覚でその表現世界への媒介を使いこなしている。たぶん今、問題になっている手書きかワープロ書きかという問題は、二者択一的な問題ではなくて、手書きからワープロ書きへの過渡的な問題である。人工的なキーボードと電子画面をいかに自分の手になじませ自在に操れるように内在化していくかという問題である。それはこの現在という世界のもたらすものを半ば受け入れているということを意味してもいる。さらにそのことは、書くということや表現するということの底流を流れる、その拡張の流れに乗ることを意味していると言ってもいいかもしれない。
一つの作品が、手書きをもとにワープロ画面に載せられ、書物やホームページの画面に現れたのか、直接パソコンのキーボードを介して書物やホームページの画面に現れたのか、見分けることは難しい。いずれにしても、ある一つの作品や文章が書かれ、書物やホームページの画面に現れる過程で、現在はワープロなどの電子画面での編集が介在しているはずである。このワープロやパソコンの普及・浸透は、インターネットやホームページなどとつながって、ひとつの仮想的なシステムの空間を形成し、わたしたちが表現し、それを公表するということに大きな自由度をもたらしている。お金も手間もかかる面倒な編集・印刷・出版などの専門的な過程をくぐらなくても、素人がある表現をなし、公表するということができるようになった。このことの意義は大きいが、そしてそれらの表現への媒介がもたらす反作用、表現への浸食もあるはずだが、人が表現するということの本質にとってはたいした意義はないとも言える。太古から人は自らの出自とその旅の意味を反芻し追い求めるように表現をなしている、そしてそれを未知の読者と分かち合いたいと思っているという面では、たぶんそうたいした違いはないように思えるからだ。ただ、そのような人工的なシステムの空間にわたしたちは少しずつ慣れていって自然なものとして受けとめていくのであろうが、その人工的なシステムの空間が社会全体のシステム性と連動してどうなっていくのかは今のところよく見通すことはできない。
わたしたちが書くということはどういう行為であろうか。古今集仮名序を引いてみる。
やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。世中にある人、こと、わざ、しげきものなれば、心におもふことを、見るもの、きくものにつけて、いひいだせるなり。花になくうぐひす、水にすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける。ちからをもいれずして、あめつちをうごかし、めに見えぬおに神をもあはれとおもはせ、をとこをむなのなかをもやはらげ、たけきもののふの心をもなぐさむるは、うたなり。(古今集仮名序)
社会や言葉の様相が現在と大きく違っていても、現在の書くという行為が、古今集の仮名序の捉えた書く(詠む)という世界からそれほど隔たっているとは思えない。この世界に在ることで、わたしたちもまたいろんな感動や美への表出の欲求を抱くからである。ただし、現在は、古今集の時代よりも書く行為や表現の過程を微細化してきており、それらを内省するように書いているということは違いとしてある。また、「ちからをもいれずして、あめつちをうごかし、めに見えぬおに神をもあはれとおもはせ」には、言葉はものを動かすことのできるある力を持つものだという、言葉に呪力を持つとみなす言霊的な名残りがみうけられるが、当時では外来の仏教や儒教などの論理性の強い言葉が知識層にずいぶん浸透していて、そのような言葉への捉え方を裏打ちする意識は、実感としては薄れていたように思われる。つまり、それって本気かいということが言えるように思われる。そのような古い言霊的なものは、現在でも表現の世界に微かに潜在しているとしても、個が何ものかを表現しようとするときの、表出の意識や強度のようなものの中に解消されてしまっているようにみえる。
現在に到るまでに例えば文学的な表現の形式も、様々な変容を潜ってきている。それは人がある表現の形式を選択し、その世界でさまざまな試みをなし、踏み固め、突き抜けようとし、あるいは外来性の漢詩や近代詩を接続し、言葉に馴染み、言葉を馴染ませながら、現在の用語で言えば、内的な世界からある幻想の世界を創りだし続けてきた。表現の世界の渦中から見たら、まるで、表現し続けることが生きていくことであるかのように。
書くということは、ある幻想的な世界を現前させようとすることを本質とする。紙と筆、紙とペン、キーボードと電子画面、これらはわたしたちがその表現の世界に到る媒介として、しだいに馴染み、変化し、馴染み、変化しということを繰り返しながら、文明の度合いと対応するように転位し変貌してきているが、わたしたちが書くということの本質は、現在から見渡して古今集の時代から(それよりもっと古い時代は保留して)不変であるように思われる。
今後、人間の表現の形式の主流がどうなるか、今の段階ではなんとも言えないし言っても仕方がないが、表現の形式や書き方は変容してきたし、変容していくだろうということは確かなことである。絵画がビデオアートになり、詩や小説や音楽や舞踊などがホログラフィーの表現空間に統合されていくということもありえるかもしれない。人間がそういう新たな表現形式や書き方に徐々に慣れていって内在化するまでになり、味わう者もその人工性に美を肌で感じることができるようになれば、そうなっていくのかもしれない。ともかく、わたしたちの表現は、現在という世界が全てであるようなものにかたどられながら生きて活動しているわけだが、人間の表現の文明史的な流れを繰り込むことも表現世界を拡張する上で、大切であると思える。それと同じことだが、それは人間にとって書くことや表現とは何かという問いの拡張にも当たるはずである。
(2008.7)