狸喰うモノ牛愛でるモノ

虐待放置、インチキ優先のやり方を信用出来るわけねーだろ

社会主義とはどのようなものだと見るか

2015-03-10 11:33:26 | Weblog
まず共産主義と社会主義の違い。 共産主義は生産手段の共有、社会主義は名目上、
財産結果の均等。 もっぱら後者のそれから社会主義と資本主義とは対立する思想
だとされ共産主義も社会主義に含まれるとされると。 社会主義と共産主義、この
二つで共通しているのは実現手段の必要性上政治権力をごく一部の人間が握ると
いうものでここから財産処分の自由から広範な自由が存在する資本主義側から社会
主義は自由主義と対立する思想だとされると。

私は社会主義を多数の部屋とエアコンとに例える。 例えば部屋が十あってそれ
ぞれにエアコンが付いてはいるがその半数五つが故障していると。 部屋の持ち主
がそれぞれ自分で買い換えるなり修理の手配をするなりするのが正しいとするのが
資本主義、部屋の壁を無くせば良いとするのが社会主義なのだと。 これは社会
主義の結果と一致しているつまり長期的には誰もがエアコンを直さなくなる。

社会の維持にはコストがかかる。 この最たるを私は家庭教育と見る。 家庭教育、
学校教育、社会人教育。 私は政策上、学校教育特に小学校教育を重視するがこれ
は家庭、学校、社会人の三種のうち学校が最も重要なのだ、という観点からでは
なく単に、現実問題外部から変更可能なのがそこだけだという理由によるもの。
これを既得権とするのが日本だと日教組を中心とする勢力。

社会主義で結果の均等は達成できるのか。 私は否と見る。 統計上のそれは可能
だろうだが私はそれを意味があるとはしない。 結局は金であり可処分所得つまり
労働生産性選択権である。 社会主義国家における生産性選択権の大半は国家権力
が握る。 そうした体制下で結果の均等を主張するのは簡単だろうだが現実に医者
は役人の子を先に看る。 優先権を左右する正当性を握っているのは現場を知る
人間であり医療現場の場合は医者。 優先権の不当使用の日本での実例がまさに、
日教組による学校統治。

彼ら日教組こそが社会主義の反面教師なのだ。
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革マル派?中核派?

2015-03-10 11:06:00 | Weblog
マイクロソフト社のIMEが「革マル派」を変換できなかった。 Windows7のそれで
ある。 以前、XPの頃かそれ以前だろう、から変換できる単語がキチガイサヨクの
方、もっと言うと朝鮮総連、民団系統の方に偏っているという指摘があった。 
この「革マル派」というのも「中核派」とならび、もっぱら彼らを取り締まる側
から出てきた、一般の日本人も多用する単語である。

革マル派と中核派の区別が付かない。 なんとなくネットのニュースから「ああ、
こっちが中核派なのね」といった知識を得たりはするのだが意味の在る知恵として
残らない。 深く考える理由が特に無い、それでいいのかもしれない。

一般に、である。 北京や上海、平壌、あるいは今日のソウルに繋がっている人
たちはこの革マル派だか中核派だかを「良心の勢力」と称する。 私はここに英国
人たちと北米のユダヤ人たちを加えるが、彼らが言うのならそうなのだろう、彼ら
にとっては。 ようは朝日新聞である。
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ポリティカル・コレクトネスの真価:「ああ、こいつ友人いないんだ」

2015-03-10 10:46:40 | Weblog
さて以前、冷戦終結後に出てきた旧ソ連の対日分析その正確さに驚いた、と書いた。
比較対象のアメリカ、イギリス、中国韓国あたりのちょこちょこ出てくるそれらに
見られる「偏見に引きずられる」傾向がほとんど見当たらなかった。 そしてこう
書いた。 キチガイサヨクは自分たちが本国と仰いだソ連からもゴミ扱いされて
いたのだな、と。
ここである。 気付いて愕然とした。

独メルケル首相 歴史に向き合う重要性強調
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150309/k10010009051000.html
「隣国の助けがあり、ドイツが歴史に向き合う姿勢を示したからこそ」

これまでずーっと気付かなかった。 これこのタイミングで彼が来なければ気付か
なかったものかもしれない。 ドイツの「鈍さ」である。
言い訳をさせてもらおう私他ネットウヨクの大半は、アメリカ、中国、イギリス、
それと走査範囲の広い人でもロシアあたりを通してしか「外から見たドイツ」を
知らない。 そしておそらく大半のアメリカ人、中国人あたりは本気で戦後の
ドイツを正しい国なのだと思い込んでいる。 私にとって盲点だったのはドイツの
隣人たちのうちのポリティカル・コレクトネスを知る側がそれをどう見ていただろ
うか、ある。 気付いてしまえば簡単、「不正に阿る優等生」である。

日本の戦後とドイツの戦後、その内容は圧倒的に違う。 ドイツのそれが「信用
回復に努める70年」だったのだとするなら日本のそれは「信頼回復に努める70年」
だった。 そして終戦直後の日本には、タイ、インド、インドネシア、ビルマと
いった、友人たちが居た。 ドイツにとってはアラブ諸国あたりがその地位に付く
はずであった。 いやもっと悪い。 第一次世界大戦後のドイツその国際社会復帰
に尽力した国筆頭は日本であった。

これがポリティカル・コレクトネスだったのか。 私はまったく理解していな
かった。 あちらの側とこちらの側のいずれもがポリティカル・コレクトネスを通
して同類を識別していたのかと。 これまでの私はもっと真剣に中国韓国の
「ドイツを見習え」を疑うべきだった。 まだ遅くはない、と信じたい。
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