狸喰うモノ牛愛でるモノ

アラフは扇動者、教育を知らない

競争について

2010-07-05 13:07:55 | Weblog
競い合い
勝った子供が
称えられ
羨望の的
一時の花

なにやら過去の悪事、悪心を暴露することが定番になっている。
自分が詐欺系に流されないようにするための儀式とも思っているが
何より過去の悪一つ一つが、財産なのである。
過去はその人がこれからを考える上での資産なわけだが
悪事については埋めたままにし考えないようにする傾向があるわけだ。
そしてその隠蔽傾向からくる後ろめたさは
怨嗟人に対して言うべき物を言えなくもする。
つまり詐欺系、怨嗟系との距離の取り方でその人の思考の程度が判る、
そう見る事も出来る。

さて競争について。
競走馬の訓練に併せ馬というのがあるらしい。
競うと人は伸びる。 これは事実だろう。
目標が近く具体的であるほど達成意欲は湧き、
そして競争相手というのは身近で同じ事をしている、移動する目標だ。
競争があると言うことは常に目の前に目標があるということで、
達成すればさらに先があり、慢心すると抜かれる。

与えられた競争に勝つと、餌がある。
周囲から褒められる。 勝者と称えられる。
だが最大の報酬は自己肯定だろう。
努力や工夫が判りやすい形で報われる。
負けるとそれが無い。
ただそれだけのことなのだが。

「勝て」と言う親がいる。
負けるとなじる。 打つ。 食事を減らしたりする。
だが勝てば称える。
そうされて育った子供はどうなるか。
ただ勝てば良い、となる。
勝てない者には価値は無い、となる。
そういう人間は懲罰の対象なのだから。
他人が転ぶ事で勝つ。
それでも勝利。
そこに自己肯定は無い。

負けた子はどうなる、と言う人がいる。
どうもならない。
競争はあちこちにある。
どこかでなにかで勝ち、そこで努力や工夫に対する自己肯定を得る。

負け続ける子はどうなる、と言う人がいる。
競争相手、競争場所を間違えているのだろう、
好きな事で、身の丈に合った相手と競いなさいと答える。
嫌いな事で勝とうが負けようが、それは当人にとってどうでもいいことだ。

こうしてみると競争の問題点は、周囲が勝利を要求することにある、となる。
負けてもいいなら競争があっても問題にはならないのだ。
競争の害を唱える人たちが勝利の強制性を問題視してきたか。
私は否と見る。
彼らは競争が問題だ、と言い続けてきた。
彼らにある、他者への強制の見えなさはどこからきたのだろうか。

さて問題だ。
勝った事の無い人というのがいたとする。
彼はどのような人生を歩んできたのだろうか。
コメント
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