日本史入門(29) 西郷隆盛
1 西郷隆盛、1826年薩摩の下級藩士の長男として鹿児島に出生。郡奉行書役、藩主島津斉彬の殊遇をえる。斉彬は一橋慶喜の14代将軍就任をもくろむ運動の旗頭。西郷は斉彬に伴い京都江戸に随行、斉彬の命を受け藩間外交に奔走、多くの処士藩士と交際面識を持つ、西郷の大きな政治資産。斉彬は突然死去。後継者はお由羅騒動で斉彬と藩主の地位を争った久光の子忠義、実権は実父久光に。安政の大獄。西郷にも嫌疑、幕吏に追われ僧月照と鹿児島湾に投身、西郷は助かり流罪。許されて帰参。久光との折り合いは悪く再び流罪。西郷と久光の外交方針が一致せず、西郷の独断を久光は憎む、西郷も久光を無視。
2 政局は流動的。藩内外の人望と外交能力を無視できず、大久保利通の勧めで久光は再び西郷を起用。久光は藩内では実権者、が田舎者、幕府諸藩の有識者実力者に面識がない。以後の政局は西郷主導。幕府からの離反、薩長同盟、王政復古、戊辰戦争はすべて西郷の筋書き。1871年有司専制政権成立。西郷は長州の木戸と共に薩長連合政権の首班に。大久保木戸が条約改正のため渡米している間、政府は事実上西郷政権。多くの制度改革はこの時期企てられる。征韓論に敗れて下野、鹿児島に。萩、秋月、佐賀、神風連の乱にも超然。1876年西南戦争。翌年鹿児島城外城山で自刃。享年53歳。
3 西郷は人の意見をよく聴き取り入れる。西郷の最初の師は島津斉彬、開明的君主斉彬は薩摩藩を西欧の文化技術のモデルにした。藤田東湖は西郷に勤皇思想を吹き込む。幕府の命脈の限界を教唆したのは勝海舟。薩長同盟は坂本竜馬による斡旋。廃藩置県は長州藩士が提案し西郷の強力な首肯で実行。西郷政権下諸改革の実務者は江藤新平大隈重信。西郷には佐久間象山、勝海舟、横井小楠のような鋭い天才性は表面からは見られない。
4 西郷は情で動く。斉彬を敬慕するあまり久光を無視、月照との心中、維新政府に絶望し薩摩に隠棲、征韓論の政変で殺されてもいい朝鮮へ行くと思いつめる、岩倉具視の背信には淡々。最後の極めつけが西南戦争、私学校の生徒に担がれ、望みのない戦に参加、非合理的な行動も多い。だから西郷には人望が集まる、西郷のためなら命を捨てるという輩はごろごろ、藩内外の多くの知己友人は彼の最大の政治資産。
5 反面彼は徹底した現実政治家。西郷が本領を発揮するのは、幕府を追い詰め崩壊させるくだり。薩長同盟を秘密裏に結び、倒幕の密勅なるものを下し、慶喜に大政奉還させて朝廷に帰順を誓わせ、越前尾張両藩を強引に引きこんで宮中を軍事的に制圧、ク-デタ-を起こして朝廷から親幕勢力を駆逐、慶喜に辞官納地を要求、要人暗殺をほのめかし山内容堂を沈黙させ、最後は江戸市内を撹乱挑発、幕臣を激高させ戦争に引きずり込む、慶喜を朝敵に仕立て上げ、鳥羽伏見で勝つと慶喜の切腹を主張、などの一連の行動。開戦は乾坤一擲の試み、傍目には幕府の方が圧倒的に有利に見えた。あえて押し切り戦争までもっていったのは一重に西郷の意志と指導力。彼は戦争の中から新しい政府を創ると考えた。信念も凄まじいが、遂行するに手段を選ばないところはそれ以上に凄まじい。桜田門外の変以後、政局の大勢は公武合体。倒幕を主張する勢力は少数。西郷と久光の反目もここにある。西郷は敵長州と組み、主君島津久光を無視し騙して、公武合体派という多数を押し切る。鳥羽伏見や戊辰戦争がなければ新政権はあいまいなものに、旧大名中心の緩やかな諸藩連合政権が関の山。大改革はできない。流動する政局を煮詰め維新回天を為すために,幕府に与えた強攻強打の主導者が西郷。維新以前の3年間一貫して倒幕を考えていたのは西郷ただ一人。討幕、軍兵士の役割、政治の主体は民衆へ。
6 西郷は人の言をよく聴く。思い切ってやる時は人の意表に出る。そうなると人の言うことは聴きかない。優しく寛容な反面、強靭な現実主義者。彼の腹の中は誰にも解らない、西郷自身にも解らない。西郷と連合政権を組んだ木戸は西郷を信用できなかった。西郷とは気質思想ともにあわない大村益次郎は、西郷の叛乱を予測し大阪に軍事施設を集中。西郷を憎み嫌った島津久光も同様の西郷観。
7 西南戦争。征韓論政変後西郷は鹿児島に。薩摩系士官の大半は彼に従い辞職帰郷。薩摩は叛乱の火薬庫。県令の任命権は政府になく、鹿児島は治外法権。公費を使って軍事教育機関私学校を作る。西郷は弟子や子分のやるに任せた。
政府も安閑とはしておれない。薩摩の叛乱は政府崩壊の危機に直結。首班大久保は密偵を使って挑発。私学校の生徒は暴発し、政府に押収された武器弾薬を奪い取る、叛乱は自然発生的に。西郷は8000人の薩摩兵とともに北上。最初の関門は熊本城、薩軍は攻めあぐねる。政府の援軍が到着して熊本城外の田原坂で激戦。政府は熊本南方に第二戦線を形成、同時に士族からなる警視庁抜刀隊を投入。薩軍は崩れ、球磨地方を迂回して豊後に退却。敗北必至となった時、それまで作戦には一切口を出さず傍観していた西郷の指導力が突然発揮される。薩軍全員政府軍包囲網を突破、九州山脈を縦走し薩摩に帰国、城山にたてこもる。西郷の指導力はこの時のみ発揮される。西郷は自分の死に所をえるためにのみ戦う。西郷は政府軍に向かって進み、銃弾を浴び別府晋介の介錯で自刃。付き従う軍士も桐野利秋以下闘死自決。
8 西郷は西南戦争で何をしたのか。勝つために何もしていない。自らは望むところではないが、自分につき従う弟子達の熱意にほだされやむにやまれず、自分の体はあんたがたにくれてやりましょう、というのが一般の解説。そうかな。彼らに死に場所を与えたのか、彼らを自分の死に場所に連れていったのか。西郷が載せられたのか、西郷が載せたのか。西南戦争は武士の集団自決。黒船来航から西南戦争までの四半世紀、西郷はあらゆる立場で奔走。幕府を倒し、新政府を樹立し、幾多の改革を手がけ、征韓論に敗れて下野。明治6年(1873年)の政変以後、彼には為すべき事はない。ただ一つ仕事が残る、戦士としての武士階層の消滅。秩禄処分、武士階層の生活基盤剥奪は彼の政権の時着手された。政策の総決算が西南戦争。武士の中の武士、薩摩武士団の壊滅は、武士階層全体の消滅。西郷はそこまで読んで自分の死の道づれに薩摩士族を連れて行ったのか。武士が武士身分成立時から持つ暴勇をいかんなく発揮せしめ、戦士としての死を全うさせたのか。戦争は個人戦闘に終始し、作戦らしい作戦は立てられていない。西南戦争は武士の犠牲葬送鎮魂の儀式、西郷は儀式の神祭司生贄。西郷の腕につかまれ8000の薩摩健児は嬉々として地獄の釜の中に飛び込んでゆく。西南戦争でもって武士の叛乱は終結。維新といわれる時代は終り新しい時代が始まる。
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行
1 西郷隆盛、1826年薩摩の下級藩士の長男として鹿児島に出生。郡奉行書役、藩主島津斉彬の殊遇をえる。斉彬は一橋慶喜の14代将軍就任をもくろむ運動の旗頭。西郷は斉彬に伴い京都江戸に随行、斉彬の命を受け藩間外交に奔走、多くの処士藩士と交際面識を持つ、西郷の大きな政治資産。斉彬は突然死去。後継者はお由羅騒動で斉彬と藩主の地位を争った久光の子忠義、実権は実父久光に。安政の大獄。西郷にも嫌疑、幕吏に追われ僧月照と鹿児島湾に投身、西郷は助かり流罪。許されて帰参。久光との折り合いは悪く再び流罪。西郷と久光の外交方針が一致せず、西郷の独断を久光は憎む、西郷も久光を無視。
2 政局は流動的。藩内外の人望と外交能力を無視できず、大久保利通の勧めで久光は再び西郷を起用。久光は藩内では実権者、が田舎者、幕府諸藩の有識者実力者に面識がない。以後の政局は西郷主導。幕府からの離反、薩長同盟、王政復古、戊辰戦争はすべて西郷の筋書き。1871年有司専制政権成立。西郷は長州の木戸と共に薩長連合政権の首班に。大久保木戸が条約改正のため渡米している間、政府は事実上西郷政権。多くの制度改革はこの時期企てられる。征韓論に敗れて下野、鹿児島に。萩、秋月、佐賀、神風連の乱にも超然。1876年西南戦争。翌年鹿児島城外城山で自刃。享年53歳。
3 西郷は人の意見をよく聴き取り入れる。西郷の最初の師は島津斉彬、開明的君主斉彬は薩摩藩を西欧の文化技術のモデルにした。藤田東湖は西郷に勤皇思想を吹き込む。幕府の命脈の限界を教唆したのは勝海舟。薩長同盟は坂本竜馬による斡旋。廃藩置県は長州藩士が提案し西郷の強力な首肯で実行。西郷政権下諸改革の実務者は江藤新平大隈重信。西郷には佐久間象山、勝海舟、横井小楠のような鋭い天才性は表面からは見られない。
4 西郷は情で動く。斉彬を敬慕するあまり久光を無視、月照との心中、維新政府に絶望し薩摩に隠棲、征韓論の政変で殺されてもいい朝鮮へ行くと思いつめる、岩倉具視の背信には淡々。最後の極めつけが西南戦争、私学校の生徒に担がれ、望みのない戦に参加、非合理的な行動も多い。だから西郷には人望が集まる、西郷のためなら命を捨てるという輩はごろごろ、藩内外の多くの知己友人は彼の最大の政治資産。
5 反面彼は徹底した現実政治家。西郷が本領を発揮するのは、幕府を追い詰め崩壊させるくだり。薩長同盟を秘密裏に結び、倒幕の密勅なるものを下し、慶喜に大政奉還させて朝廷に帰順を誓わせ、越前尾張両藩を強引に引きこんで宮中を軍事的に制圧、ク-デタ-を起こして朝廷から親幕勢力を駆逐、慶喜に辞官納地を要求、要人暗殺をほのめかし山内容堂を沈黙させ、最後は江戸市内を撹乱挑発、幕臣を激高させ戦争に引きずり込む、慶喜を朝敵に仕立て上げ、鳥羽伏見で勝つと慶喜の切腹を主張、などの一連の行動。開戦は乾坤一擲の試み、傍目には幕府の方が圧倒的に有利に見えた。あえて押し切り戦争までもっていったのは一重に西郷の意志と指導力。彼は戦争の中から新しい政府を創ると考えた。信念も凄まじいが、遂行するに手段を選ばないところはそれ以上に凄まじい。桜田門外の変以後、政局の大勢は公武合体。倒幕を主張する勢力は少数。西郷と久光の反目もここにある。西郷は敵長州と組み、主君島津久光を無視し騙して、公武合体派という多数を押し切る。鳥羽伏見や戊辰戦争がなければ新政権はあいまいなものに、旧大名中心の緩やかな諸藩連合政権が関の山。大改革はできない。流動する政局を煮詰め維新回天を為すために,幕府に与えた強攻強打の主導者が西郷。維新以前の3年間一貫して倒幕を考えていたのは西郷ただ一人。討幕、軍兵士の役割、政治の主体は民衆へ。
6 西郷は人の言をよく聴く。思い切ってやる時は人の意表に出る。そうなると人の言うことは聴きかない。優しく寛容な反面、強靭な現実主義者。彼の腹の中は誰にも解らない、西郷自身にも解らない。西郷と連合政権を組んだ木戸は西郷を信用できなかった。西郷とは気質思想ともにあわない大村益次郎は、西郷の叛乱を予測し大阪に軍事施設を集中。西郷を憎み嫌った島津久光も同様の西郷観。
7 西南戦争。征韓論政変後西郷は鹿児島に。薩摩系士官の大半は彼に従い辞職帰郷。薩摩は叛乱の火薬庫。県令の任命権は政府になく、鹿児島は治外法権。公費を使って軍事教育機関私学校を作る。西郷は弟子や子分のやるに任せた。
政府も安閑とはしておれない。薩摩の叛乱は政府崩壊の危機に直結。首班大久保は密偵を使って挑発。私学校の生徒は暴発し、政府に押収された武器弾薬を奪い取る、叛乱は自然発生的に。西郷は8000人の薩摩兵とともに北上。最初の関門は熊本城、薩軍は攻めあぐねる。政府の援軍が到着して熊本城外の田原坂で激戦。政府は熊本南方に第二戦線を形成、同時に士族からなる警視庁抜刀隊を投入。薩軍は崩れ、球磨地方を迂回して豊後に退却。敗北必至となった時、それまで作戦には一切口を出さず傍観していた西郷の指導力が突然発揮される。薩軍全員政府軍包囲網を突破、九州山脈を縦走し薩摩に帰国、城山にたてこもる。西郷の指導力はこの時のみ発揮される。西郷は自分の死に所をえるためにのみ戦う。西郷は政府軍に向かって進み、銃弾を浴び別府晋介の介錯で自刃。付き従う軍士も桐野利秋以下闘死自決。
8 西郷は西南戦争で何をしたのか。勝つために何もしていない。自らは望むところではないが、自分につき従う弟子達の熱意にほだされやむにやまれず、自分の体はあんたがたにくれてやりましょう、というのが一般の解説。そうかな。彼らに死に場所を与えたのか、彼らを自分の死に場所に連れていったのか。西郷が載せられたのか、西郷が載せたのか。西南戦争は武士の集団自決。黒船来航から西南戦争までの四半世紀、西郷はあらゆる立場で奔走。幕府を倒し、新政府を樹立し、幾多の改革を手がけ、征韓論に敗れて下野。明治6年(1873年)の政変以後、彼には為すべき事はない。ただ一つ仕事が残る、戦士としての武士階層の消滅。秩禄処分、武士階層の生活基盤剥奪は彼の政権の時着手された。政策の総決算が西南戦争。武士の中の武士、薩摩武士団の壊滅は、武士階層全体の消滅。西郷はそこまで読んで自分の死の道づれに薩摩士族を連れて行ったのか。武士が武士身分成立時から持つ暴勇をいかんなく発揮せしめ、戦士としての死を全うさせたのか。戦争は個人戦闘に終始し、作戦らしい作戦は立てられていない。西南戦争は武士の犠牲葬送鎮魂の儀式、西郷は儀式の神祭司生贄。西郷の腕につかまれ8000の薩摩健児は嬉々として地獄の釜の中に飛び込んでゆく。西南戦争でもって武士の叛乱は終結。維新といわれる時代は終り新しい時代が始まる。
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行
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