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日本史入門(11)評定衆と貞永式目

2021-01-02 13:37:54 | Weblog
    日本史入門(11)評定衆と貞永式目

1 1221年承久の変、北条義時死去、後継者泰時は政権安定のため評定衆を作る。評定衆は北条氏の権力掌握下における合議機関。評定衆は最初13名。北条一族、千葉三浦など他氏の有力名主、大江三善などの事務官僚が構成員。泰時は機関の指導者として執権に。摂関家から将軍を迎える、将軍と執権が権威と権力を分担。
2 評定衆は幕府の最高意志決定機関。評定の最重要事項は領地争い。御家人間の領地争い、貴族寺院と地頭御家人との紛争などの諸事件が幕府に持ち込まれる。御家人中心の領地争いの裁判仲裁が評定衆の最大の仕事。裁判の実務は引付衆が担当、時として引付も評定に参加。引付は4から5局、1局3人、引付を加えれば約30人の構成員による会議。評定衆は以後武家政治の基本となる。領主大名の支配、以後の二つの幕府の政治運営も評定衆を範例に。評定衆の基本的態度はまず御家人の所領安堵、次に武士の上に立つ荘園領主の権益の擁護。幕府は御家人層に属さない新興の雑多な武力、悪党を警戒。鎌倉幕府は悪党層を政治に取り込めず滅亡。
3 評定衆設置後10年、泰時は幕府運営の憲法貞永式目を制定。政治の主導権を武士が握る、従来の律令格式では間に合わない、武士による武士のための武士の法律が必要。政治運営の慣例を成文化。成立時の貞永式目は全部で51か条。数字51は聖徳太子の17条の憲法の倍数。泰時は日本法制生みの親聖徳太子を範例に。
 貞永式目の第一条、篤く神仏を敬え。聖徳太子の仏教精神による衆議和合の態度を継承。幕府は鎌倉周辺に多くの寺院を作り幕府の守護神とし御家人の啓蒙に務める。貞永式目が最重要事項としたのは、ご恩には忠誠で報いよ。貞永式目は幕府政治の根幹、土地所有と武力提供の交換、を明快に宣言。
4 面白い比較。貞永式目評定衆はイギリスのマグナカルタ議会制と併行。貞永式目制定の20年前マグナカルタができる。イギリス王ジョンの失政に貴族達が抗議、王と貴族の間に結ばれた協定がマグナカルタ。マグナカルタは王による人民の土地所有の侵害を防止、王の課税時には貴族の同意を必要とする事を確認。マグナカルタ成立を主導した大貴族は40名弱、大貴族の連合体がイギリスの議会に発展。
 貞永式目とマグナカルタ、評定衆と議会、酷似。目的内容、構成員の数、成立年代もほぼ同じ。マグナカルタと議会は民主制の発端。同じ時期ほぼ同等のものが日本にもあった。ここから日本独自の民意形成機構が作られてゆく。評定衆と議会の成立事情も似る。評定衆は頼朝死後二代目頼家が独裁的な政治運営を試み、御家人が結集して反対したことが発端。ノルマン人による征服と独裁政権への臣下の反抗の結果が議会とマグナカルタ。
5 日本とイギリスの違い。同民族の内部でできた幕府体制は温存され、武士と農民商人職人が比較的仲良く共存しつつ江戸時代を経て維新まで続く、武士は官僚化し知識人となり中産階級に徹する。征服王朝支配下のイギリスでは、貴族農民間の緊張は強く階層格差は大、農民は農奴。格差を抱えたまま社会は地主制へ移行。日本の地主制展開は微弱。イギリスの地主の連合体意見表出の場が議会。民主制とは所詮その程度のもの。民主制は原点に厳しい対立を抱える。民主制の発端は古代アテネ。アテネの民主制は完全に展開、アテネの民主制は奴隷制それに密接に関係する戦時体制を基礎とする。古代ギリシャは常時戦争、戦争捕虜被征服民は奴隷に。イギリスの地主制とギリシャの奴隷制。民主制は勝者支配の合理化の機構、民主制は潜在的に奴隷制を基礎とする。欧米の制度の過大評価は危険。1200年代前半以後日本はイギリスと異なる道を行く。日本では武士が農民から常に再生産され、農民の耕作権は確立、農民武士間の格差は小さく全体として中産階級を構成。武家政治は民主制より優れていた。
6 評定衆の前史。衆議は評定衆に限られない。律令制では大納言以上の約5名の大氏族の長による合議。摂関政治の陣の定、合議を主導し結果を天皇に取り次ぐのが摂関。評定衆は日本の政治の衆議性の伝統の延長上に出現。評定衆の意義は下からの意見をくみ上げる衆議を明示化した事。その基盤がご恩と奉公、経済財を媒介とする双務的関係。
7 評定衆と貞永式目の制定により、衆議性、柔らかい日本的民意集約方法が確立。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行