とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

国語教育における客観性

2017-12-03 17:25:18 | 高校国語改革
 国語においても「客観性」が必要であることは言うまでもありません。しかし、「客観性」にこだわりすぎると危険です。そもそも「客観性」という言葉の曖昧性が問題の根本にあるのです。

 言葉が成立するためにはもちろん客観性がその条件になります。客観性が保たれているという保証がなければコミュニケーションは成立しません。しかし、そもそも「完全に客観的な文章」を人間が書けるはずがありません。単語の意味に人それぞれ揺れがあるのは当たり前です。経験の違う人間同士では文脈的にも理解の仕方が違います。だから「完全に客観手な問題」も成立するはずがないのです。

 本来「国語」の教育が目指すべき「解釈」とは、文章を読んでその文章中の語句に「根拠」を求め、その「根拠」から作者や筆者の「意図」を探るものです。「根拠」とすべきものが違えばそこから帰結する「意図」は違ってきます。また読者の背景が違ってくれば同じ根拠でも違う「意図」に帰結しても当然なのです。だから「解釈」には揺れが生じるのは当たり前なのです。それなのにセンター試験では揺れのない「解釈」が要求されます。そこに無理が生じてしまいます。

 「客観性」という言葉の曖昧性が混乱を生じさせているのではないでしょうか。「国語」における客観性とは、だれもが同じ解釈をするという保証ではありません。明確な「根拠」をもとに、納得できる論理によって解釈がなされるということです。そこで「解釈」に揺れが生じた場合は議論によって「すり合わせ」をすることによって、より客観的になっていくことができます。

 少なくとも「国語」という教科における読解の「客観性」は人間の言語活動を通してしか保証されないのです。ですから「国語」の読解の授業は教師の一方的な講義型の授業では成立するはずがないのです。読解は「読む」「書く」「話す」「聞く」の活動を通して行われなければいけない。それが「国語」授業の「客観性」を保証するものになるはずです。

 そもそも客観性にこだわるあまりに、教育界は多くのものを失ってきたように思います。「客観性」はひとつの座標軸にしかすぎません。このひとつの座標軸にこだわるあまりに、独自性、個性、創造性などを犠牲にしてきたというのが、近年の教育です。この「客観性」という座標軸は、偏差値という座標軸と似ています。ですからひとつの座標軸によって人間を評価するようになってきました。これこそがセンター試験の大きな罪とも言えます。

 さらに言えば、「客観性」重視は評価にまで影響してきます。よくアクティブラーニング型の授業において評価をどうすればいいかということが話題になります。アクティブラーニング型の授業は従来の点数による評価になじまないからです。しかし本来教育の評価というものは多面的に行われるべきもので、その意味でもアクティブラーニング型の授業は望ましいはずです。なんでもかんでも一つの基準で点数化するというのは、座標軸を一つにすることであり、個性を伸ばす教育の理念とは一番遠いものです。

 ただし、だからといって観点別の評価をするという発想に私は与しません。それは現状の教員の仕事量から考えると不可能でだからです。試験の点数で評価するのでしょうがない。授業の過程で生徒に自己評価をさせながら、よいものをほめていくことぐらいが現状で可能なことだと、私は考えています。
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