田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

北海道立文学館 吉本隆明展を視る

2022-12-20 12:14:27 | 作品展・展覧会等

 雑食性を自認する私だが、そんな私でも「吉本隆明」は視界に入っていなかった。「戦後思想界の巨人」とも称される吉本だが、私には関心外だった。それがひょんなことから特別展の入場券が手に入ったのだが…。

        

 12月18日(日)午後、中島公園内にある「北海道立文学館」に足を運んだ。文学館で開催中の「歿後10年 吉本隆明 廃墟からの出立」特別展を見るためである。

   

 リード文でも触れたが、私にとって「吉本隆明」という人物は視界に入っていなかった。というのは何を隠そう私にとっては彼の言論など難解すぎて、著書を手に取ってみようとも思わなかったからだ。ところが!某日、ある講演会に出向いたときに知り合いの方から「行ってみないか?」と問われ、入場券をいただいたのだ。雑食性を自認する私である。そこまで言われたら行かないわけにはいかないだろう、と考え文学館に出向いてみたというわけである。

 展覧会場は日曜日の午後というのに閑散としていた。やはり一般人には少々縁遠い人物と受け取られているようである。私はせっかくの機会だから、少し丁寧に見て回ろうと考えた。特に吉本氏の少年期、青年期を詳しく見ることによって彼の思想がどのようにして形成されていったかを知りたいと思った。

   

 少年時代の吉本に影響を与えたのは、東京月島の彼の家のあった近くにあった塾の教師:今氏乙治(いまうじおとじ)だったようだ。今氏は早稲田大で英文学を学び、自身も詩や小説を書いていたという。さらに彼は今氏の蔵書をむさぼるように読んだという。吉本の時代(1924年生まれ)に塾に行っていたということは、吉本は比較的恵まれた少年時代を過ごしたようだ。彼はそこで詩で表現することの面白さに気付いたようだ。

 吉本の思想形成に決定的な影響を与えたのは太平洋戦争であったことは、吉本に関心のある方にとっては常識なのかもしれないが、そのことが今回の特別展ではよく理解することができた。太平洋戦争が始まった1941年は吉本が17歳の時である。彼は太平洋戦争は日本がアジアの植民地を開放するための戦争だと信じて疑わず、多感な時期を戦争礼賛で過ごし、勤労奉仕に汗を流しながらも詩作に没頭していた時期でもあった。

 吉本は富山県魚津市の日本カーバイド工業に勤労動員されていた時に終戦を迎えたが、その衝撃ために何も考えることができずひたすら海を見て過ごしたと展示物に書かれていた。

 さらに吉本にとって決定的な影響を与えたのは、その後1945年に進学した東工大で遠山啓教授に出会ったことだという。遠山教授の「量子論の数学的基礎」を聴講して、決定的な衝撃を受けたと吉本は告白している。

 そして彼の思索、執筆活動が始まっていくのだが、それから吉本が著した膨大な著書群を見た時、「これはもう降参」と私はその後の展示を見て廻ることを早々に諦めた。

 展示を見て回ることを諦めた私であるが、一つの展示が私の眼を射止めた。それは「影響を受けた本は?」、「最も困難だった出来事は?」、「最も好きな言葉は?」という質問に答えている展示があったので、それをメモした。

 それによると、影響を受けた著書としてファーブル著の「昆虫記」、作者不詳の「新約聖書」、マルクス著の「資本論」を挙げている。

 困難な出来事では、吉本は結婚のことを挙げている。彼は同人誌を発行していた時に同人だった黒澤和子という人と恋愛関係に陥ったらしい。ところが黒澤は既婚婦人だった。

吉本と黒澤、そして黒澤の主人との三角関係となり、相当に苦労して結婚にこぎつけたらしいことを吉本は吐露していた。

 最後の好きな言葉ではマタイ伝の「ああエルサレム、エルサレム、予言者たちを殺し、遺される人々を石にて撃つ者よ……」と答えている。(1965年に答えたことだそうだ)

 吉本隆明が戦後言論界においてどのような位置を占めたのか私には知る由もないが、日本の学生運動など左派の運動に大きな影響を与えた人物だということだけはおぼろげながら認識している程度である。 

          

 彼の歿後10年を期してこうした特別展が道立文書館のような公的施設で開催されること自体、彼の発表し続けた思想自体が普遍性を帯びているということの証だろうか?      


石狩川河岸遡行トレッキング 14

2020-10-01 18:59:32 | 石狩川河岸遡行トレッキング(夏バージョン)

 真勲別バス停 ⇒ 層雲峡 ⇒ 滝見台  トレッキング期日‘20/9/26

 私は距離の目安を誤っていたようだ。予測よりかなり早くこの日の目的地(層雲峡)に到達した。そこで、層雲峡よりさらに先の滝見台まで足を伸ばしたのだった。

 朝4時過ぎに自宅を発って、206km走り8時前に層雲峡に着き、「層雲峡駐車場」に車を停めた。予定していた7時45分のバスには乗ることができなかったが、次便の8時40分発のバスでこの日のスタート地点の「真勲別」バス停に向かった。天候は予報どおり思わしくなく、霧雨状態のため上下ともにレインウェアを羽織った。

   

   ※  この日のスタート地点となった「真勲別」バス停です。

 8時55分、「真勲別」バス停をスタートした。スタートして直ぐに歩道が付いた道路となり安心して歩を進めることができた。石狩川の流れが右手にちらちらと見える。

   

   ※ スタート直後は写真のように歩道があり、安心して歩くことができました。

   

   ※ スタートして間もなく目に入った石狩川の流れです。

 トレッキングを始めて20分後、「旭川層雲峡自転車道線」という看板からサイクリングロードを歩くことにした。サイクリングロードは№12で歩いたサイクリングロードと比べ完成してからの年数があまり経っていないのか新しい感じがする道だった。ところが、雑草の逞しさはそんな新しい感じのアスファルトを突き破って道路内に進出している個所が何ヵ所も見えた。このロードは延長僅か3.5キロ程度である。層雲峡まで通ずるサイクリングロードが早く完成してほしいと思うのだが、完成前に雑草に負けてしまうのではないかと心配になった。

   

    ※ 国道39号線と別れ、自転車専用道に入る表示です。

   

   ※ 自転車専用道は完成してまだそれほど年数が経っていないように見えました。

   

   ※ ところがところによっては雑草がアスファルトを突き破って生育していました。

   

 ※ 自転車専用道ではこうした表示がところどころにあり歩いていて励みとなりました。   

 途中、秋の気配を感ずるところがあったり、石狩川の流れが垣間見えたり、また国道との間にパークゴルフ場が広がっていたところもあった。

   

  ※ 自転車道に突然大量の枯葉に覆われていたところがありました。何の木の葉だろう?

   

   ※ 秋の気配を感ずる立ち枯れた雑草がちょっと不気味です。

   

   ※ 国道と自転車道の間に造成された広大なパークゴルフ場でした。

 サイクリングロードに入りおよそ1時間後、再び国道との合流点から国道に導かれた。スタートから1時間半後、「万陸」という以前は集落を形成していたところを通過した。ここには「ホテル ロックサイド」という廃ホテルが建っていた。実はこのホテルは、私が北見に住んでいた時代に札幌へ向かう長距離バスが中間点として休憩するポイントだったので、よく利用したところだった。

   

   ※ 陸万集落に残された「ホテル ロックサイド」の廃墟です。

 このあたりからは国道の両側に高い崖が目立ち始めた。崖の中でも特徴的な岩が屹立しているところには岩の名前が付けられていた。例えば、「万計壁」、「七賢峰」、「マリア岩」などなど…。また、国道が石狩川と並行して走っているためにところどころで橋を渡ることがあった。そのたびに石狩川の流れが目に入るのだが、徐々に徐々に流れが小さくなり、それとともに流れの中に白い泡が目立つようになり、流れが急になっていることをうかがわせた。

   

   ※ 万計橋の上に聳える「万計岩」です。

   

   ※ 七賢峰です。

   

   ※ マリア岩です。

   

   ※ 双槍峰です。

 層雲峡が近づいてくると道路の両側の崖はさらに狭まり、もしもの崖崩れから道路を護るための覆道が目立つようになってきた。「四の岩覆道」、「観音岩覆道」、「残月峰覆道」、「屏風岩覆道」といった具合に次々と現われた。覆道の名前が表すようにそれぞれの覆道の上方には頭上にそれぞれ名称に付いた岩が覆いかぶさるように迫っていた。

   

   ※ 最初に出会った「四の岩覆道」です。

   

   ※ 覆道の横にはこのような自転車&人のための通路が設けられていました。

   

   ※ 覆道の横を流れる石狩川はかなり泡立ってきました。

 行動開始後3時間、ちょうど12時に層雲峡の駐車場入り口についた。まだまだ時間もある、体力的にも十分余力が残っていた。躊躇することなく先へ歩を進めることにした。温泉街を通過して、層雲峡の景勝地の一つ「流星の滝」と「銀河の滝」が望める「滝見台」を目ざした。「滝見台」が近づいた時だった。前方からかなり足取りの重い老人が近づいてきた。見ると杖を突きながら、霧雨に濡れて歩いていた。私は同類の歩き旅の人かな?と思い、すれ違いざま「コンニチハ!」と声をかけたが、返事は返ってこなかった。彼は本当に歩き旅の人だったのだろうか?それとも何かの事情がある人だったのだろうか?その姿、表情が見てちょっと心配になったが、どうすることもできなかった。

 層雲峡から50分後、二つの滝が見える「滝見台」に到達した。二つの滝とも見応えのある見事な滝である。特に私は「銀河の滝」の勇壮かつ優美な水の落ちるさまが素晴らしいと思った。昨年、冬のトレッキングで訪れた時には「銀河の滝」でアイスクライミング(ロッククライミング?)をしている二人組を見た。改めて彼らがとんでもない危険を冒して登っていたことを実感した。

   

   ※ 流星の滝です。

   

   ※ こちらは銀河の滝です。

       

       ※ 銀河の滝を大写ししたところです。

 「滝見台」からは再びトレッキングで戻る予定だったが、ライブレポでも報告したとおり、日に一本だけのバスが通過することを知り、そのバスに乗って層雲峡温泉の駐車場に帰ってきた。そして、駐車場での車中泊となったのである。

   

   ※ 層雲峡駐車場は屋内と屋上の二階建ての駐車場です。

   

   ※ 駐車場の一階部分の屋内の様子です。

   

   ※ 駐車場の近くにあった日帰り温泉「黒岳の湯」です。

   

   ※ 同じく駐車場の近くにあったコンビニ店です。

  この日の総歩行距離 19.5km (歩数 25,975歩)

                                                  

 


石狩市民カレッジ 大人の遠足

2018-07-13 18:48:40 | 札幌(圏)探訪

 「大人の遠足」と称して石狩市民カレッジでは、夕張市を訪れた。財政破綻をした背景、そこからの再起を図る夕張市について市役所職員からお話を聞き、その後「石炭博物館」、「幸せの黄色いハンカチ 想い出ひろば」、「滝之上発電所」を巡って歩いた「大人の遠足」だった。

        

       ※ 石狩市の所有するバスでの「大人の遠足」だったために割安で実現できたようだ。

 7月11日(水)、石狩市民カレッジが講座の一環として「大人の遠足」と称して夕張市を訪ねる企画があり、参加した。この企画は、参加費400円(市民カレッジ生)だけでバス代の徴収はなく、道民カレッジと連携しているため7単位が取得できるという美味しい企画なのだ。(ただし、入館料など別に1,200が必要だったが)

  本日のレポでは、夕張市の職員からお聞きした話で一項起こせそうにも思うので、そのほかの三カ所を訪れた印象を記すことにする。

 

【夕張市石炭博物館】

          

         ※ 夕張石炭博物館の概観です。

 石炭博物館は旧北炭夕張炭鉱跡に立地された施設のようである。

 博物館の建物は2階建てで、そこに常設展示があり、それに続く地下展示室・模擬坑道がこの博物館のセールスポイントらしい。

 博物館は今年4月にリニューアルオープンしたということだが、博物館の周辺には1980(昭和55)年当時開館した観光客向けの売店などの廃墟がそのままになっていて、わびしさは隠せようにもない感じだった。

 博物館の展示室に入ったが、正直な感想としては広い展示室を持て余している感じだった。特別に目を止めるような展示もなく、「これで入館料1,080円(団体は860円)は高すぎ!」と思ったほどだ。

          

         ※ 石炭博物館の展示場に展示されていた当時をしのぶ各種の掘削道具や安全対策器具です。

 展示室からはエレベーターで地下展示室、並びに模擬坑道に導かれるシステムになっていた。エレベーターに面白い工夫が施されていた。エレベーターが下降を始めると室内が暗くなり、一気に地下坑道1,000m地点に向かうという仮想体験ができる仕組みとなっていた。(実際には地下2階程度のところ降りたと思われる)

  石炭博物館の真骨頂はここからだった。

 地下坑道のような形づくられた室内では、炭鉱の技術の推移、作業の様子、さまざまな発掘機械や道具が鉱員のマネキンとともに展示されていた。

          

          ※ 手掘りによる採炭現場の様子を再現した様子です。 

          

          ※ 少し時代は下って、機械(機械名は分からない)を使用した採炭現場の様子です。

           

         ※ そして人力に頼らないで完全に機械化した採炭現場を再現した様子です。       

 中には大型機械(ドラムカッター?)が実際に動いているところを展示しているコーナーもあった。時代とともに、採炭現場が機械化だけではなく、安全対策にも進展が見られたことが良く理解できた。それでも悲惨な事故がかなり起こったようだが…。

 

 その後、見学者はさらに地下に導かれた。そこは模擬坑道となっていて、採炭現場(切羽)を再現していた。そこには本物の石炭の層がはっきりと見て取れた。

 石炭博物館の建物内の様子では入館料が高すぎ!と思ったが、地下展示室や模擬坑道を見物にして、「少し高いと思うが、妥当なところかな?」と思い直した私だった。

           

          ※ 模擬坑道を出ると、そこには石炭の露頭がありました。

【幸せの黄色いハンカチ 想い出ひろば】

 こちらは、以前は見学料金など取らなかったはずだが、昨年リニューアルと共に見学料金540円(団体シニアは340円)が徴収されるようになったようだ。財政破綻した夕張市の再建のために協力するという意味のあるのかな?

          

         ※ 映画「幸せの黄色いハンカチ」の象徴的シーンを再現した黄色い旗がなびいていました。

 展示そのものは以前見たときとそれほど印象は変わっていないように思えた。というのも、展示でイン使用的なのは、黄色いハンカチが屋外のポールにはためくところ、屋内の壁や天井に来場者が書き残したおびただしいメッセージが張り巡らされた部屋、そして赤色のファミリアの車である。

          

         ※ 当時の炭住の長屋が保存され、その中に映画に関する諸々が展示されていました。

 あえてリニューアルした思えるところは、映画撮影時期と今日の夕張の様子を展示したパネル写真と、山田洋二監督のインタビュー映像が流れていたことくらいか?

 まあ、夕張まで行ったら立ち寄ってみたい観光スポットということなのだろう。

          

          ※ 来場者が書き残したおびただしい黄色い紙片が張り巡らされていました。

           

          ※ 山田洋二監督、鈴木夕張市長などのメッセージが記されていました。

【滝之上発電所】

 ここは一般の観光客では見学が叶わぬところである。

 夕張市内を離れた夕張川沿いに、時代を経たレンガ造りの建物がある。この発電所は1925(大正14)年、当時夕張で石炭を発掘していた北海道炭礦汽船(株)が建設した水力発電所である。

          

          ※ 大正14年に建設されたというレンガ造りの滝之上発電所です。

 その後炭礦汽船の採炭事業からの撤退に伴い、幾多の変遷を経て1994(平成6)年に北海道企業局に譲渡されたそうだ。発電所は老朽化に伴い、レンガ建屋の発電設備は平成25年に廃止され、隣に新しい発電機を備えて、平成28年10月から運転を再開しているとのことだった。

 レンガ建屋の方は産業遺産(?)として保存されているようだ。

 この発電所を見学できたのも、北海道の特別の計らいによって実現したようだった。

          

          ※ 内部に二つ置かれていた発電機の一つです。今は使われてはおりません。

 以上、けっこう中身の濃い「大人の遠足」だった。


DVD鑑賞会「世界遺産 新たなる旅へ」

2018-04-10 21:31:52 | 「めだかの学校」関連

 所属する「めだかの学校」の平成30年度の学習がスタートした。平成30年度上半期は、「DVD鑑賞会」と「野外講座」の二つが並行して実施される。この度、その第1回目のDVD鑑賞会が実施され、私は鑑賞会のナビゲーターを担当した。 

                  
                  ※ 今回視聴したDVD「悠久のインド」のパッケージです。

 4月9日(月)午後、「めだかの学校」の今年度最初の「DVD鑑賞会」があった。
 鑑賞するDVDは、道民カレッジが所有する「世界遺産 新たなる旅へ」というDVDを鑑賞するものである。

 第1回目の鑑賞会に取り上げられたDVDは、「故宮と中国の古都」と「悠久のインド」であった。
 私は若き日にインドを旅した経験もあり、「悠久のインド」のナビゲーターを担当することにした。
 ところが…。
 事前にDVDを見させてもらって「ありゃ」と思った。というのも、DVDの構成はインドの世界遺産に登録されている35カ所のうちから、次の5カ所の文化遺産を紹介するものだった。
 その5カ所とは、①「デリーのクトゥプ・ミナールとその建造物群」、②「コナーラクの太陽寺院」、③「ダージリン・ヒマラヤ鉄道」、④「ハンピの建造物群」、⑤「タージ・マハル/アーグラ城塞」という五つの文化遺産だった。
 私はこの五つの中では、タージ・マハルとアーグラ城塞しか体験していなかったのだ。

 それでも、引き受けたからにはナビゲーターの任務を果たさねばならなかった。
 そこで世界遺産の中の「文化遺産」に関する解説をさせていただいた。
 私の理解では、「文化遺産」の場合、その多くは歴史的建造物がそのほとんどである。歴史的建造物というと、世界的に見てその背景には「宗教」が関連していることが多い。
 事実、今回の五つの文化遺産のうち四つは宗教との関連が濃いものだった。
 そこで、私はインドの宗教事情について解説することにした。

 インドの三大宗教というと、「ヒンドゥー教」、「イスラム教」、「シーク教」の三つであり、インドが発祥の地とされる「仏教」は今や風前の灯状態だという。仏教は13世紀にインドに進出したイスラム教によって徹底的に壊滅させられ、その後近隣諸国の仏教国などからの支援により、現在800万人前後の仏教徒がインドには存在するという。
 それに対して三大宗教の信徒の数は、ヒンドゥー教8億3千万人、イスラム教1億8千万人、シーク教3千万人という状況である。

             
             ※ DVD鑑賞会の一コマです。画面には中国編で、チベットのパタラ宮殿を映し出しています。

 今回の文化遺産と宗教の関係でいうと、①の「デリーのクトゥプ・ミナールとその建造物群」は、1206年にイスラム王朝が建立したもの。
 ②の「コナーラクの太陽寺院」はヒンドゥー教が13世紀に建立したもの。
 ④の「ハンピの建造物群」は14世紀、当時インドに進出しつつあったイスラム教に対抗して、インド南部にヒンドゥー教の王国が打ち立てたものだが、16世紀になってイスラムに敗れ廃墟と化してしまったそうだ。
 ⑤の「タージ・マハル/アーグラ城塞」は、私が唯一50数年前に直接目にした墓廟であり、城塞である。この二つの遺産共にヒンドゥー教徒のムガール王朝が建立したものである。

 ナビゲーターを務めるということは、自分自身多くのことを学ぶことができる絶好の機会である。これからも積極的に立候補するように努めたいと思う。


洞爺湖畔フットパス 金毘羅山コース

2016-11-11 20:23:43 | フットパスウォーク & トレッキング
 時折り雪が激しく降る中でのフットパスウォークだったが、2000年の有珠山噴火の爪痕が残る興味深いコースだった。ただ雪が舞い、隆起したり、分断された様子を見る(トレッキングする)には、必ずしも適切な季節ではなかったようだ。 

         
               
 前日、「秘境小幌モニターツアー」に参加した私は、そのまま帰るのも芸がないと考え、洞爺湖畔に一泊し、翌日洞爺湖畔に設置されたフットパスコースを2~3巡ってから帰ろうと計画を立てた。

 洞爺湖畔のフットパスコースは、私が取り寄せたガイドブックでは6つのコースがあった。その中から、私がまず選んだのは、2000年の有珠山噴火の爪痕が残る「金毘羅山コース」だった。スタート地点が宿泊したホテルのすぐ前だったことも選んだ原因の一つである。それはマップの表記とは正反対のスタート地点である「洞爺湖町火山資料展示室」という旧消防庁舎前からの出発だった。

               

 スタート地点の旧消防庁舎は、ちょうど洞爺湖畔のホテル街から小山を一つ越えたところにあり、コースは湖畔との間にある金毘羅山の裾を回って湖畔まで行き、折り返す往復コースだった。(距離にして往復4.5キロ)
旧消防庁舎の裏側は噴火によって大きく陥没し、今は水を湛えた大きな沼になっていた。

               

 そこから金毘羅山へ向かっての緩やかな上りが続く。途中にはこれも噴火によって廃墟となってしまった旧ゴミ焼却場の高い煙突が物悲しく立っていた。

               

 コース脇に立てられていた説明板には、辺りが噴火活動によって土地が隆起したということだが、噴火から15年以上経過したこともあるのだろうか、凹凸は認められるものの雑草が生い茂っていて、写真に撮るには相応しいと思えず、一枚も撮ることがなかった。

 金毘羅山の裾のピークを過ぎ、洞爺湖畔が視野に入ってくると、さまざまな噴火の爪痕を見ることができた。
 まず目に飛び込んできたのが、金毘羅山の山肌が大きく崩落し、草木も生えていない茶褐色の山肌だった。
 また、その沢の部分には砂防ダム(泥流ダム?)が設置されているのが見えた。

               

               

 続いて、2000年にできた噴火口の跡に水が溜まった二つの噴火口が現れた。その二つの噴火口には、「有くん火口」、「珠ちゃん火口」と、ちょっとお茶目な名前が付けられていた。
 この命名は、有珠山噴火を予知するなど、有珠山噴火に対して人的被害を未然に防いだ岡田弘北大名誉教授ではないかと思われるのだが、はたして真相は?

               
               ※ 青い水をたたえた「有くん火口」です。

               
               ※ こちらはノーマルな水の色の「珠ちゃん火口」です。

 二つの火口からやや下ったところに大きな断層が見えてきた。近くにあった説明板によると、「木の実の沢の火山性活断層」とあった。

               

 その後、湖畔に向かってどんどん高度を下げていったが、湖畔に入る直前に大きな壁が周りを覆っていた。その向こうには、噴火の被害を受けて廃墟となった4階建ての町営住宅が建っていた。
 果たして大きな壁は噴火前からあったものだろうか、それとも後なのか?私には判断がつかなかった。

               
               ※ 目の前に大きな壁があり、壁の向こうに廃墟となった町営住宅が見えます。

               
               ※ この写真は町営住宅側から壁を見たところです。 

               

 町営住宅のところまで行くと、スタートの標識が立っていたことと、雪の降りが激しくなっていたこともあり、マップ上のスタート地点である「洞爺湖ビジターセンター」には寄らずに折り返した。

 紅葉が終わり、その上雪が降っていたこともあり、すっきりして光景とはいかず、写真としてはつまらないものとなってしまったのが残念だった。

               
               ※ コース上には写真のような標識が立てられていた。標識に意味は、上からコースの
                レベル(軽登山レベル)、現在位置(T8)、ウォークの方向(右方向)を表します。

札幌ぶらり散歩 58 壮大な廃墟、壮烈な廃屋、そして…

2015-04-03 17:17:59 | 札幌ぶらり散歩 & Other
 新興住宅が立ち並ぶ八軒地区の一角に壮大な廃墟群があった。そしてまた、壮烈とも呼べる廃屋にも出会った。さらには、廃屋になるのも時間の問題かな?と思えた住宅も目に入ったウォークだった。 

 3月31日(火)すっかり春めいた陽気に誘われて26日に続いて琴似まで自転車を駆って遠征した。26日よりさらに西側の八軒地区を歩いた。
 八軒地区の西側には琴似発寒川に沿って大きな「農試公園」がある。その農試公園に沿うように壮大な国家公務員宿舎が林立しているのが八軒西地区の光景である。

◇壮大な廃墟 
 まず私はその国家公務員宿舎の方へ向かった。何せ1棟に50戸が入る集合住宅が、私が以前に数えただけでも35棟もある大きな宿舎群なのだ。
 そこには相変わらず壮大な光景を見せながら国家公務員宿舎群が建っていた。
 ところが、傍に近づいてみると住宅の周りに鉄製の柵が巡らされているのだ。そして辺りはシーンとして人の気配が感じられない。よく見ると、一階部分の窓などにはべニア板が打ち付けられていた。そこに人は住んでいないというサインだった。
 外から一見したところ、まだまだ居住できそうにも見えるのだが、部屋が狭いとか、老朽化しているという問題があるのだろうか?
 柵がぐるーっと張り巡らされて、壮大な廃墟となっていた。
 ただ、35棟全てではないようだった。まだ半分近くの棟には駐車場に車が停まり、居住者もいるようだった。
 そちらの方も早晩廃墟となるのだろうか? すると跡地は? 広大な土地は何に利用されるのだろうか??

          
          ※ 旧国家公務員宿舎の集合住宅群は写真のような鉄柵で覆われていました。

          
          ※ そしてところどころにこうした看板が立てられていました。

          
          ※ 建物一階部分には不法侵入がないように(?)べニア板が打ち付けられていました。

          
          ※ 敷地の中には立派な公園もあったようです。


◇壮烈な廃屋 
 八軒3条付近(この辺はボカします)を歩いているときだった。一目で廃屋と分かる建物が目に入った。
 その建物が凄まじかった。玄関のところが除雪されていないのはもちろんなのだが、玄関前が蔓性の植物で覆われかかっていた。まだ若葉がでていないで、それほど目立たないが、夏には玄関が植物の葉で覆われてしまうのではないかと思われた。
 さらにその様子が壮烈!と思われたのは建物の横に回ったときだ。こちらは緑の葉が繁っていて、すでに建物を呑みこまんばかりに覆いかぶさっていた。
 街の中の廃屋なので、いずれ取り壊されるものと思われるが、これが辺地などではそのまま取り残され、やがて草木の中に埋もれてしまい、土に還っていくのだろうか?

          
          ※ 建物の玄関部分です。明らかに廃屋と分かります。

          
          ※ 建物の横壁も紀に覆われはじめています。

          
          ※ その反対側を見たとき、戦慄が走りました。すでに建物が植物に呑みこまれ始めていました。
 

◇やがて廃屋となる運命だろうか?
 同じく八軒3条付近で見かけた建物だった。
 コンクリート製品の煙突に施された造作が気になった。
 煙突に縦の亀裂が走っているのを鉄枠で抑えようと造作されていたのだ。少しでも寿命を長らえようとした造作のようである。
 建物の裏へ回ってみると、こちらも壁の亀裂を補修し、大きく壊れたところは板塀を打ち付けて建物を保護していた。
 建物が古くなったり、具合が悪くなると、直ぐに取り壊してしまう風潮が一般的となった現代において、このように創意工夫を施しながら延命を図っているのは、今どき尊いことのよう思えてくる。
 しかし、この建物もそれほど遠くない未来には廃屋となってしまう運命なのだろう…。

          
          ※ コンクリート製の煙突のところの造作が気になりました。

          
          ※ 近付くと、このようにして亀裂が広がるのを防いでいました。

          
          ※ 建物の裏側も相当に苦労されながら補修をしているようでした。

 
 と三題噺めいたが、琴似駅に近いこのあたりの八軒地区は、振興住宅が立ち並ぶ一帯である。それだけに、ここに登場した3件はことのほか私の目に留まったのだった…。 


そらちフットパスウォーク 24 赤平市 後編

2014-10-02 22:56:36 | フットパスウォーク & トレッキング
炭鉱遺産をめぐり、空知川に憩う赤平ルート 

 炭鉱遺産を巡るウォークは後半も続いた。住友炭鉱のズリ山に造られた777段の階段はきつかったがズリ山の頂上から見る景色は絶景だった。また、赤平といえば私にとっては「植松電機」である。市街地からやや離れた植松電機の本社工場にも寄ってみた。 

 「こもれび通り」を歩いていたとき、路傍に鮮やかな紫色の野草が繁茂している光景に出会った。帰宅してからその種を検索してみたのだが、はっきり特定することができなかった。キク科の花のようなのだが、紫色の同じ花弁のものは見当たらなかった。あるいは、園芸種のヒメジョオンが野草化したとも考えられるが??

          

          ※ 路傍に咲いていたこの花の種は何でしょう?お分かりの方、教えてください。

          

 道路のやや奥まったところに工場の廃墟のような建物が目に入った。「赤間の旧選炭場」とのことだった。この施設も炭鉱遺産として保存されているそうだ。

          

 その横に、「赤間ズリ山(777段)」の入口があった。フットパスルートとしてはズリ山に登ることは想定していないが、マップには「体力に自信がある人は挑戦してみては」とあった。体力にも、膝にも、自信はなかったが、そこに山があるとどうしても登ってみたくなるのが私の性癖(?)である。迷うことなく登ってみることにした。

          

          
          ※ ズリ山階段の登り口です。階段には募金をした方々(?)の名前が記されていました。

 実は本当の登山の時、私が一番嫌うのが階段であることは何度か述べている。有無を言わさず歩幅が決められ、体力を急激に奪われるのが嫌いなのだ。
 思っていたとおり200段もいかぬうちに息が上がってしまった。何度か休みながら山頂を目ざした。その時気付いたことがあった。というは、この日のコースをスタートした直後に見えた山腹に見えた黄色の造営物が目の前に見えたのだ。私はそんな高いところを登っていることを改めて教えられた思いだった。

          

          
          ※ 階段の横に見えるオレンジ色のものは「あしべつ火まつり」の「火」の字を描くしるしだという。
           つまり私が街から眺めたところを私は登ったのだった…。

          
          ※ 最後の階段777段目は、「斉藤敏隆、幸江」さんご夫妻(?)だった。

 疲れを覚えながらもなんとか山頂に立った。山頂からの眺めは、赤平市はもとより、遠く芦別市の「北の京 芦別」の大観音まで望める絶景だった。

       

 「赤間ズリ山」を下り、「こもれび通り」に戻り、続く炭鉱遺産の「美園入気坑」を目ざした。しかし、近くを探したのだがどうしても見つけることができず残念だったが断念した。

 JR根室本線を潜るアンダーパスを通り、空知川に近い道路沿いにあった「赤平神社」に立ち寄り、空知川を渡り(赤平橋)対岸に導かれた。

          

 空知川沿いを往くと、昭和15年に開校したという「赤間小学校(旧赤間尋常小学校)」に至った。校舎はもちろん当時のものではなく、近代的な校舎であった。

          

 再び空知川を渡り(虹かけ橋)市街地へ戻るのだが、橋のたもとに「赤間炭鉱碑」が立っていた。赤平市には、「住友赤平炭鉱」、「北炭赤間炭鉱」、「茂尻炭鉱」と三つの炭鉱があったという。その一つの赤間炭鉱の記念碑ということだ。

          

 その後、「虹かけ橋」を渡って、ゴールの赤平駅に至った。
 ゴール後、黒く輝く石炭の塊を模してつくった赤平の銘菓「塊炭飴」を駅前にある石川商店で買い求めた。

          
          ※ 「虹かけ橋」上から安平駅方向を望む風景です。

          
          ※ まるで石炭の塊に見える「塊炭飴」です。

 ゴールした後、赤平でのもう一つの目的だった「植松電機」の工場を目ざした。場所をタクシードライバーに聞くと「遠いよ~」ということだったが、市街地からは車で15分ほど走った市街地からは遠く離れた工業団地の一角にあった。
 なぜ植松電機かというと、小企業ながら産業用のマグネット(電磁石)の生産では国内トップメーカーでありながら、専務の植松努氏が先導して宇宙ロケットの開発に挑んでいることで有名な企業である。さらには「思い描く事ができれば、それは現実にできる」と全国の子どもたちに夢を描くことの大切さを説いて回っていることでも有名である。私も彼の話を2度ほど聴き、感動を覚えたお話だった。
 工場には微小重力の実験ができる実験棟が高々と聳え、さらには高性能の望遠鏡を備えた天体観測用のドームまで備えていた。

               
               ※ 植松電機の工場内に聳える「微小重力実験塔」です。

          
          ※ 植松電機の工場内の様子ですが、屋根の上には天体観測ドームが見えます。

 赤平市は炭鉱遺産を観光に活かそうとする姿勢がうかがえるとともに、駅舎や集合住宅、工業団地などの様子から、街の再活性化を図ろうとしているように私には映った。
                            《フットパスウォーク実施日 ‘14/09/28 距離 約8Km》

 かくして、足掛け3年にわたって空知管内24市町のフットパスコースを巡る私の旅は終焉を迎えたのであった。私にとって楽しく意味のあるフットパスウォークであった…。


〈余話〉
 赤平からの帰路、以前に上砂川町のコースを歩いた際に知己になった石炭画家の早川季良氏とも無事に再会することができた。

チェルノブイリ原発事故の記憶と観光地化

2014-05-29 23:08:58 | 大学公開講座
 原発事故の地を観光地に!? 冗談かと思ったが、真面目に論じられている話のようである。講師(その関係者)はチェルノブイリに学び、フクシマも将来は観光地にしては、と提案しているという会社の一員だった…。 

 北大の公開講座「記憶の中のユーラシア」第4講は5月23日(金)、「チェルノブイリ原発事故の記憶と観光地化」と題して「株式会社ゲンロン」のディレクター&通訳の上田洋子氏が務めた。
 「株式会社ゲンロン」とは、作家で思想家の東浩紀氏が代表取締役を務める出版社であるが、会社として「福島第一原発観光地化計画」を提唱しているようだ。

          
          ※ 講座で講義する株式会社ゲンロンの上田洋子氏です。

 講座はまず、その「株式会社ゲンロン」の幹部が、今回の講師の上田洋子氏を通訳として、チェルノブイリで事故を起こした原発の内部と、住民が避難し廃墟となった街を巡るツアーの様子を映し出すドキュメンタリータッチの映画(DVD)の上映が行われた。
 
 ウクライナでは政府公認で原発ツアーを実施している旅行社が数社あるという。映画では廃炉作業を進める原発内部の技術者が作業をしている近くまで立ち入らせたり、事故前は技術者たちが住んだ近代的町並みの廃墟を映し出したりする。特に使われることがなかったという観覧車が侘しそうに映し出されるチェルノブイリの町並みが印象的である。

            
       ※ 最近テレビなどでもお馴染みの株式会社ゲンロンの代表東浩紀氏です。

 東氏を代表とする株式会社ゲンロンは、将来福島においてもチェルノブイリのように観光地化することを提案している。それは原発事故を記録として留めるととともに、事故を風化させないためにも必要なこととしている。
 東氏が福島の原発事故についてどのようなスタンスを取っている人なのか調べてみると、事故そのものに直接コミットすることは避けたがっているようにもうかがえたが、基本的には「脱原発という方向性を打ち出すべき」という考えの方のようである。

 未だ終息に至っていない福島原発の観光地化計画を今打ち出すことには違和感を感ずるが、計画では事故後25年にあたる2036年頃を目途としているようである。
 除染が進んで福島第一原子力発電所跡から数百メートルの距離まで一般市民が防護服なしに近づけるようになった状態を想定し、事故跡地付近に建設する施設やそこでの展示などを提案するという。

 はたして日本国民がそうした試みを受け容れるのか否か、判断しかねるが、福島を復興させたいとする一つの試みとしてそうした動きがあることを今回知ることができた。