田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

田中澄江と北の山

2013-03-17 23:11:53 | 講演・講義・フォーラム等
 シナリオライターであり、作家であった田中澄江さんが山を愛した作家であったとは初耳だった。それも北海道の山をこよなく愛したという。北海道山行の際にはいつも同行したという日本山岳会北海道支部長の滝本幸夫氏が田中澄江さんの人となりを語った。 

 田中澄江とは、また古い話を出してきたものと思われるかもしれないが、そのとおりである。
 私もそれほど詳しく知っているわけではないが、その来歴を見ると昭和20~30年代には映画の脚本家として、30~50年代にはテレビドラマの脚本家としてたくさんの作品を書き起こしている。映画では「放浪記」、NHK朝のテレビ小説では「うず潮」、「虹」などが代表的作品である。

          

 その田中澄江さんが昭和40年代後半になって北海道の山に興味を抱いたという。滝本氏が田中澄江さんとの付き合いが始まったのが昭和47年からだそうだ。
 当時、田中澄江さんは相当に有名な方だったから、山への案内にも緊張したということだが、田中さんは案に相違してざっくばらんな方で、滝本氏によると豪放磊落な方だったということだ。

 田中さんとのエピソードとして次のようなことを語ってくれた。
 田中さんが85歳のときに徳瞬別岳を案内することがあったという。前日からの大雨でとても山登りは無理と思われたが、田中さんは雨具を着込んで「行きましょ!」と言ってきかなかったそうだ。しかたなく雨の中を案内したが、途中で濁流のためにどうしても渡ることできないところを見て、ようやく引き返してくれたそうだ。それが85歳のときだというのだから驚く。

          
          ※ 田中澄江さんとの思い出を語る滝本幸夫氏です。

 そんな豪放磊落な田中さんだったが、家庭生活では長男が患った脳腫瘍、ピアニストの長女が若くして脳血栓に倒れるなど、母親として苦労が絶えない一面もあったという。
 特に長男の脳腫瘍は発見が遅れたために自分をずいぶん責めたようである。その心境を彼女は「子にわびる母の記録」として著し、それがTVドラマ「虹」の原作とも云われているそうだ。

 田中氏が北海道の山を登り始めたのは64歳のときである。以来、登った山が北海道の山だけで30峰を超えるという。その間、山に関する著作も数々書き起こし、特に高山植物に深い造詣を示し「花の百名山」は高く評価されているらしい。

 ある山行で、滝本氏が仕事のことでの不満を田中氏に漏らしたらしい。その時、田中氏は傍にあった紙片に次のようなことを書いて、滝本氏に渡したという。

  星のようにいそがず たゆまず (それぞれの)
  みずからの重荷のまわりをめぐれ

 紙片を見た滝本氏は何のことか理解できずにいたが、ある日その言葉がゲーテの言葉であることを知ったという。数々の重荷を背負いながらも、そうした悩みを微塵も見せることなく豪放磊落に生きる田中さんが、親しく交友することになった滝本氏にゲーテの言葉を借りてその心の内を語ったのであろうか?

 それにしても85歳にして、なお山に登ろうとする田中澄江さんのバイタリティーには驚いてしまう。結局、滝本氏との山行は翌年86歳のときに函館山の山麓を巡ったのが最後だったという。
 60ウン歳にして、ちょっと歩いたくらいで、あそこが痛い、体中が疲れたなどとほざいている自分が恥ずかしい。
 「まだまだ老け込む歳ではない!」と田中澄江さんから背中をぴしゃりと叩かれた思いである。頑張りましょッ。


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