田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

映画 福沢諭吉 №245

2019-07-26 17:04:30 | 映画観賞・感想

 慶応義塾の創始者であり、明治日本の知性の代表者でもあるあの福沢諭吉の伝記映画である。映画としての完成度は「?」マークを付けざるを得ないが、幕末の混乱期にあって幕府軍にも、新政府軍にも与しなかったところに福沢諭吉の「学問」の力を信じた姿があったと見たのだが…。

 ※ 映画タイトルの前にナンバーリングを付けた。この数字は私が2007年に札幌に転居後に観た映画の通算の映画の数である。「映画は最高のエンターテイメント」と考える私にとって、これからも有料・無料にかかわらずできるだけ映画を観ていこうと思っている。

                

 道民カレッジが所蔵するフィルムを定期的に鑑賞する「懐かしのフィルム上映会」が7月23日(木)午後にあり参加した。

 今回取り上げられた映画は、1991年に制作・公開された「福沢諭吉」の半生を描くものだった。主演・福沢諭吉には柴田恭兵、諭吉と同年の家老の息子・奥平外記に榎本孝明を配したものだった。

 諭吉の半生と称したが、映画は諭吉の幼少時代から日本が幕府から明治政府に変わるまでの諭吉の生きざまを描いたものだった。

                 

         ※ 映画「福沢諭吉」に出演した俳優陣です。柴田恭兵から時計回りに、若林麻由美、

           榎本孝明、南野陽子、仲村トオルです。

           

 諭吉は豊前国・中津藩の藩士の子に生まれ、家老の子である奥平外記と同年であったため、いつも彼と行動を共にする間柄であった。長じて諭吉は奥平に付き添う形で長崎に出て蘭学を学んだ。さらに諭吉は大阪に移り、緒方洪庵の適塾に入門し、そこで頭角を現し塾長となる。ここらあたりまでの描写は淡々としていて抑揚にかけるきらいがあった。

 1858年、25歳になった諭吉は、家老となっていた奥平から蘭学塾の塾長に任命され江戸に向かう。そこで諭吉は英語に出合い、蘭学では通用しないことを知った。

 ここからは諭吉は独学で英語を学び、家老の奥平の助けも得て幕府の中でも用いられていく。そして幕府が派遣したあの咸臨丸の艦長・木村摂津守の従者として1860年(万延元年)アメリカの地に立ったのである。

 帰国後、塾を福沢塾と改名し、藩命によって禁止されていた英語を中心に教えるようになった福沢塾には多くの塾生が集まった。そうした中、諭吉は幕府が派遣した欧州視察団の通訳として欧州の地を踏み、各国を見て回った。その印象記を綴ったのが彼の著書「西洋事情」である。その際の出版料をもとに塾を芝に移転し、名前を慶應義塾とし、各藩の人材を養成して新しい日本を作ることを目ざしたのである。

そのころの日本(幕末)の世情は混沌としていた。諭吉の中津藩も例外ではなかった。しかし、諭吉は戊辰戦争が勃発しても動かなかった。砲声が鳴り響く中でも慶應義塾での授業を敢然として実施した。殺し合いで物事を決めようとする時代に対して、諭吉は敢然とその風潮に挑み続けたのだった。1871年、慶應義塾は現在の三田に移転し、そこで諭吉は近代日本の未来を塾生に唱え続けた。

               

              ※ 有名な福沢諭吉の肖像写真です。

 というところで映画は終わるのであるが、諭吉の業績については皆さまが知るとおりである。映画としては終始淡々と描かれていた印象であるが、やはり終盤の戊辰戦争で国内が騒然となる中でも塾の授業を止めることなく、砲声が鳴り響く中でも授業を続けたシーンであろう。

 主演の柴田恭兵は好演していたと見たが、何せ脚本が地味である。もう少し“見せる(魅せる)」ことを意識した脚本であったなら…、という思いを強くした映画だった。