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私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

金木屋日記がもたらした幕末の蝦夷地情報

2013-10-25 16:35:38 | 講演・講義・フォーラム等
津軽の商人(酒造業)金木屋又三郎は膨大な日記を残していた。その内容は風聞や伝え聞きによるものが多いのだが、幕末の東北、蝦夷地の情報を民間人の側から見聞きした貴重な情報であったようだ…。

 
 10月20日(日)午後、北海道開拓記念館の歴史講座が開催され、受講した。講座は「ある津軽人が記した幕末の松前・蝦夷地情報」と題して、記念館学芸員の三浦泰之氏が担当した。
 この種の講座は大人気のようで、150名近く入る講座室がいっぱいになるような状態だった。交通の不便なところに立地する開拓記念館だが、それにもかかわらず大勢が集まるということは歴史好きの中高年が相当に多いという証しだろう。(いや、それだけ私も含めて暇人だということですか…)

          
          ※ 講義をする三浦泰之氏です。掲載する写真のいずれもが光量不足の中での撮影のため不鮮明です。

 金木屋又三郎は津軽藩領賀田村で酒造業を営み、それなりに繁盛していたようだ。親戚・縁者にも商売を営む者が多く、彼らとの交流から地元津軽藩の動きだけではなく、江戸の情勢も伝聞で伝わることが多かった。それを又三郎は詳細に書き綴った。彼の残した日記が21冊現存しているという。時代的には、天保8年(1837)2冊、嘉永6年(1853)~文久2年(1862)が各2冊、安政2年(1855)が3冊、安政7年(1860)~文久2年(1862)が各1冊、文久4年(1864)~慶応元年(1866)は2年分で1冊となっている。
 年号が飛んでいるが、おそらく又三郎自身は空白となっている期間も日記は書き続けていたのだろうが、それが散逸してしまっているということだろう。

          
          ※ 「金木屋日記」の原本を写したスライドです。安政3年の正月から六月までの日記と読み取れます。

 講師の三浦氏は、その又三郎の日記をA4版28頁にもわたって提供してくれたが、講座の中で触れることができたのはそのごく一部にしかすぎない。
 その中から、蝦夷地に関する興味深い二つの事象を書き残した日記文を紹介したい。

 まず、安政2年(1855)に松前藩領だった蝦夷地を幕府が直轄地としたことに伴って、松前藩に代替地を東北の梁川・尾花沢・東根を領地とすることを決定した。そして翌年その領地引き渡しのために松前藩の奉行以下が現地に赴いた状況を伝え聞いた形で日記に残している。
 〔安政3年(1856)2月14日条 [黒石よりの情報]松前侯も御替地として梁川・尾花沢・羽州東根拝領之よし、右奉行先頃松前より青森渡海ニ相成、尾花沢行、東根行役人爰元通行ニ相成候(後略)〕
 ※ 黒石とは、黒石にて酒造業を営む柳屋九兵衛家からもたらされた情報という意味である。また、よりを斜字にしたのは、合字のために表現できない字のためである。

          
          ※ 「金木屋日記」の実際の記述です。右頁は暦を貼り付けたもの、左頁から記述が始まっています。

 もう一つ、興味深い事実も知った。(いや、知らなかったのは私だけかも)
 蝦夷地が幕府直轄になった安政4年(1857)に箱館奉行所が鉄銭「箱館通宝」を鋳造し、松前・蝦夷地に限って通用が始まったという事実である。そのことを又三郎は伝聞によって次のように記している。

 〔安政4年閏5月29日条 箱館通宝鉄銭鋳被仰付候、尤、松前城下・箱館・江指、其外夷蝦在々一円通用被仰付、外ヵ国者通用不相成候と、公儀より被仰付候由、但、穴ハ丸く有之候よし〕

 というように、金木屋又三郎は主として伝聞ではあるが、地元弘前藩のことをはじめとして松前・蝦夷地情報についても詳しく綴っている。
 講師より与えられた資料はそうした意味でとても興味深いものである。北海道立開拓記念館は間もなく一時閉館となり、およそ1年半の改装期間を経て「北海道博物館」に生まれ変わるそうである。つまりこの歴史講座も今回が最後という意味も込めてたくさんの資料を提供してくれたものと思われる。
 できればゆっくりと資料を味わいたいと思うのだが、果たして???