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近代革命の社会力学(連載第266回)

2021-07-22 | 〆近代革命の社会力学

三十九 アラブ連続社会主義革命

(3)イラク革命

〈3‐1〉親英イラク王国と自由将校団の結成
 イラクは他のアラブ地域と同様、長くオスマン帝国の支配下にあったが、第一次世界大戦中のアラブ反乱の結果、中東アラブ地域がオスマン抵抗から自立したことで、独立の機運が起きた。しかし、代償として、アラブ反乱で支援を受けたイギリスの勢力圏に編入された。
 大戦後、敗戦したオスマン帝国と連合国間のセーブル条約でイラクはいったんイギリス委任統治領メソポタミアとして切り取られる。この委任統治領は君主制の形を取り、国王にはアラブ反乱の総帥で、預言者ムハンマドの子孫を称する名門ハーシム家家長フサイン・イブン・アリーの三男ファイサルが迎えられた。
 その後、アラブ・ナショナリズムの高揚に直面する中、イギリスは1930年の条約により、イラクの独立を認め、32年に改めてファイサルを国王とするハーシム朝イラク王国として承認した。
 この新生イラク王国は法的には独立国家であったが、イギリスは引き続き駐留し、国内で自由に軍を展開する特権を持ったほか、石油利権も掌握する間接支配体制を維持した。この間接支配関係は同じくイギリスが独立を認めた1922年以降のムハンマド・アリー朝エジプト王国と類似し、両王国は同時期に並立していた。そうしたこともあり、この先、1950年代の共和革命までの両国の歴史の進行は似通っている。
 ただ、イラクのほうがエジプトに比べ、動的であり、反英ナショナリストと親英派との権力闘争が度重なる政変を招き、1940年代にはイギリスとの戦争(アングロ‐イラク戦争)に発展した。この戦争はイギリスの勝利に終わるが、この過程でイラク軍部が反英ナショナリズムの主要な拠点となった。
 一方、王室では1939年、父ファイサル1世とは対照的に反英的な姿勢を取ったガージー1世が不慮の交通事故で早世した後、3歳の王太子ファイサル2世が即位していたが、当然にも摂政体制であった。親政を開始した53年以降も、政治的に無関心な王は親英派の長老ヌーリー・アッ‐サイード首相に丸投げしていた。
 こうした中、新たな国際環境の変化として、第二次大戦後冷戦下の55年、イギリス、トルコ、パキスタン、イラン帝国(当時)、イラク王国がバグダード条約を調印し、中東条約機構を創設した。これは、ソ連の脅威に対抗した中東地域における反共軍事同盟であって、首都バグダードに本部が置かれたイラクは同盟の中心地となった。
 これに対し、52年のエジプト革命でエジプトの指導者となったナーセルは、58年2月、シリアとの国家連合を組み、アラブ連合共和国を成立させた。これは汎アラブ民族主義に基づくアラブ世界の統合というナーセルの夢を推進するための橋頭保となる新しい連合国家の枠組みであり、中東条約機構への対抗軸でもあった。
 これを脅威と見たイラク王国は、同じくハーシム家を王家とする親類関係の親英王国であった隣国ヨルダンとともに軍の統合を軸とする「アラブ連邦」を組み、「アラブ連合共和国」との軍事的対峙を強めた。
 一方、戦前からナショナリズムの拠点となっていたイラク軍部内では52年のエジプト革命に触発された若手・中堅将校らがエジプト革命を主導した自由将校団に範を取った同様の秘密結社である自由将校団を結成し、活動を開始していた。
 イラク自由将校団はアブドルカリーム・カーシムにアブドッサラームとアブドッラフマーンのアーリフ兄弟という三人を主要な指導者とする集団指導的な体制であった。彼らはさしあたり軍に籍を置きつつ、地下活動によりネットワークを広げ、革命的蜂起の機を窺っていた。

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