many books 参考文献

好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

本当の翻訳の話をしよう

2021-10-31 18:37:42 | 村上春樹

村上春樹 柴田元幸 令和三年七月 新潮文庫
つい最近に書店で見かけて、おや新しいのかと思って買って、すぐ読んでみた。
前に読んだ『翻訳夜話』『サリンジャー戦記』もおもしろかったんで期待できたし。
「増補版」ってなってるけど、「まえがき」を読んだら、2019年に出した単行本は、対話7本と独演1本の収録だったのが、この文庫本では対話7本と独演1本を追加して、計16本と倍になっているという。
普通それって二冊目の単行本を出すんぢゃないのか? とか思ったが、まあいいや、単行本読んでない私にはお買い得である。
採りあげられてる小説は私の読んだことないものばっかで、だからって話見えないかというと、そうでもなくて二人の対談はそれなりにおもしろい。
それぞれの作品よりか、あいかわらず村上さんの小説作法の話が興味深いけど。
>小説というのは耳で書くんですよ。目で書いちゃいけないんです。といって書いたあとに音読してチェックするということではなくて、黙読しながら耳で立ち上げていくんです。そしてどれだけヴォイスが立ち上がってくるかということを確認する。立ち上がってこないなと思ったら、立ち上がってくるまで書き直すんです。(略)目で見た時に声が聞こえてこないと物語は書けない。(p.296)
というのは実にカッコよくて、本質を突いてる感じがする。
そこで、ページから声が立ち上がってくる、と柴田さんにも評されている、リング・ラードナーは読んでみなくては、と思わされた。
>小説っていうのは自分の視点がはっきりあって揺るがないぞとなると、どんどん外に広がっていくものなんですよ。だけど自分があっち行ったりこっち行ったりすると広がりようがないんです。(p.386)
っていう村上さんの小説論がこれまた傾聴に値するなーって思わされた。
アメリカのある種の作家が雑誌などから文体を身につけたのかもしれないという議論のなかで、
>スポーツに限らず、アメリカの雑誌にはそれぞれに独特の書き方、個性がありますよね。文体が機能している。日本の雑誌や新聞って、はっきりいって個性的な文体がない。文体がなければ文章はこしらえられないはずなんだけれども、でも、ないんですよ。存在しない。
>そういう意味では、日本の雑誌とアメリカの雑誌は機能がちがうんだと思うんです。アメリカの雑誌や新聞って、報道するためというよりは、むしろ文体をバネにして何かを喚起するために書かれている感じがあります。ジャーナリズムの性質がちょっとちがう。コラムニストの伝統もしっかりとあるし。(p.292)
と村上さんは言っていて、アメリカの雑誌読んだことないけど、なんか意味はわかるような気がする。
っていうか日本の書き手は責任逃れの道をつくってんだよね、あと意味不明な受動態とか使って自分の意見らしく言わないとか。
あと、英語を日本語に翻訳するときに、大和言葉と漢語を使い分けることについて、柴田さんの言っていることでおもしろくて勉強になるのがあった。
もともとの英語はシンプルなアングロ=サクソン語で、たとえば「持つ」は「have」なんだけど、大陸から征服民族がラテン語起源の言葉を持って入ってくる、そういう言葉の「possess」は「所有する」と漢語で訳す。
っていうんだけど、意識したことなかったんで、そういうものかと思わされた。
どうでもいいけど、最後の〆の新たな対談で、村上さんが好きなものしか翻訳はやってないってことを、「縁側で座って盆栽をいじっているような感覚なんですよね」(p.490)って言うんだけど、妙におかしくてウケた。
コンテンツは以下のとおり。
OPENING SESSION 帰れ、あの翻訳
僕たちはこんな(風に)翻訳を読んできた(I)
 饒舌と自虐の極北へ ――フィリップ・ロス『素晴らしいアメリカ野球』をめぐって
 ハーディを読んでいると小説が書きたくなる ――トマス・ハーディ『呪われた腕』をめぐって
INTERLUDE 公開翻訳 僕たちはこんな風に翻訳している
僕たちはこんな(風に)翻訳を読んできた(II)
 雑然性の発熱 ――コリン・ウィルソン『宇宙ヴァンパイアー』をめぐって
 共同体から受け継ぐナラティヴ ――マキシーン・ホン・キングストン『チャイナ・メン』をめぐって
INTERLUDE 日本翻訳史 明治篇 柴田元幸
僕たちはこんな(風に)翻訳を読んできた(III)
 闇のみなもとから救い出される ――ジェイムズ・ディッキー『救い出される』をめぐって
 ラードナーの声を聴け ――リング・ラードナー『アリバイ・アイク』をめぐって
INTERLUDE 切腹からメルトダウンまで 村上春樹
僕たちはこんな(風に)翻訳を読んできた(IV)
 青春小説って、すごく大事なジャンルだと思う ――ジョン・ニコルズ『卵を産めない郭公』をめぐって
 一九三〇年代アメリカの特異な作家 ――ナサニエル・ウエスト『いなごの日/クール・ミリオン』をめぐって
INTERLUDE 翻訳の不思議
僕たちはこんな(風に)翻訳を読んできた(V)
 小説に大事なのは礼儀正しさ ――ジョン・チーヴァー『巨大なラジオ/泳ぐ人』をめぐって
 短篇小説のつくり方 ――グレイス・ペイリー『その日の後刻に』をめぐって
CLOSING SESSION 翻訳にプリンシプルはない

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブロンドの鉱脈

2021-10-30 18:28:41 | 読んだ本

E・S・ガードナー/高橋豊訳 昭和六十一年 ハヤカワ・ミステリ文庫版
新しい(自分にとって新しい)ミステリを仕入れる気力がわかないので、むかし読んだペリイ・メイスンシリーズをひさしぶりに出してきた。
もうなんも考えずにサラサラ読むのには適してるしね、このシリーズは、立ち止まって考えたりしないでページめくる。
原題「THE CASE OF THE BLONDE BONANZA」は1962年の作品。
ペリイ・メイスンの秘書デラ・ストリートがめずらしく二週間の休暇を叔母と一緒にとっていて、そのおしまいの週末にメイスン自身もボレロ・ビーチというところに合流するところから始まる。
デラが、この海辺で見つけたミステリを紹介してあげると、メイスンに言うんだが、昼時に金髪できれいな脚の女性がやってくるのを見つける。
野外ランチルームで通路をへだてた席に座っている金髪女を観察していると、焼きたてのステーキとフライドポテトとサラダとアップルパイ・アラモードと二本のキャンディ・バーを食べている、すごい量だ。
ところがデラによると、金髪女はさらに4時になるとお茶を飲みにここへきて、チョコレート・サンデーとケーキを食べてチョコレート入りの麦芽乳を飲むんだという、店のウェートレスへの聞き込みによると、すでに二週間ほどそんなこと続けているらしい。
好奇心の強いメイスンは当然興味をもつんだが、デラの叔母のつてでその金髪女ダイアンと知り合いになることができる。
それでダイアンのいうには、むちゃくちゃ食べてるのには目的があって、ちょっと前に声をかけられて、新しいタイプのモデルになることをすすめられた、今のファッション界はやせてるモデル主流だが、世の女性のためにそうぢゃないもうちょっと体重ある体形のモデルをつくって売り出すのだという。
ヘンな話だ、ダイアンからそのモデルスカウト社とやらとの契約書の写しをみせてもらったメイスンは、「これほどひどい契約書は読んだことがない」という。
それによると、ダイアンは10週間のうちに体重を12ポンド増やすこととし、勤めていた法律事務所の秘書の年俸5200ドルの仕事をやめる、その代わり毎週100ドルの収入をこの契約により保証される。
それで、今後ダイアンが年額5200ドルを越える金額の総収入があれば、それを使用者側と均等に分けなきゃならない、契約は二年間で、さらに二年間ずつ追加更新してく権利が使用者側にある。
あやしいねえ、シャーロック・ホームズの「赤髪組合」(赤毛連盟)ぢゃないですか、それ。(前にもそんなのなかったっけって気がしたら「五人目のブルネット」という話あった。)
メイスンの思いついた解釈はこうだ、モデルスカウトの男は、ある風変わりな大金持ちと懇意である、その大金持ちは特定のタイプの体形の金髪の美人に惚れやすい性質である、ダイアンを体重を増やさせたところでその大金持ちに紹介する、ダイアンと大金持ちが結婚すれば、モデルスカウトはこの契約をたてにダイアンの財産の半分を手に入れる、さらに近々大金持ちが死んだら遺産相続したダイアンからその半分を分け前として取り立てる。
そうこうしているうちに、ダイアンのところへはモデルスカウト社から手紙がきて、気まぐれなスポンサーが降りたので、新しいファッションの話は頓挫した、あなたに毎週100ドル払うことはもうできない、って通告される、うーん赤毛連盟。
もとの仕事にはもどれないし、体重は増えちゃったし、途方にくれるダイアンのために、メイスンは予約料1ドルという料金でダイアンの代理をつとめることにする。
示談交渉していくらかでも補償をとってやろうとするメイスンは、相手のボーリングという男と面会などしたあとに、あの契約は擬装にすぎないって考えるようになる。
体重を増やした曲線美の金髪女ってのは見せかけで、新たな見込みは、行方不明の相続人を狙った詐欺事件だと直感する、ダイアンが相続するべき財産がどこかから出てきて、その半分を手に入れるための手口だと。
ぢゃあなんで契約を打ち切ってダイアンを手放してしまったのか、そりゃもっと大きな利益をあげられる別の方法を見つけたからだろう、きっと「ゆすり」だ、と推察する。
このあやしいボーリングって男に、さっそくおなじみのドレイク探偵社をつかって尾行をつけたりして、戦闘態勢に入ったときの、メイスンがデラに盛大に夕食をとろうって、
>なぜかぼくはお祝いをしたい気分なんだ。あらゆる人がほかのあらゆる人を裏切ろうとしている状況の中に首をつっこむのが、ぼくは好きなんでね(P.91)
みたいな言い方をするのが、なんともおもしろい。
そのあとは、どうせいつものように、関係者の誰かが死体になって、メイスンの依頼人に容疑がかかるんだろうなって予想すると、まあだいたいそういうことになる。
過去の経歴不詳の大金持ちと、その後妻と、その後妻の連れ子が順に、被害者の滞在している部屋を訪れたが、そのあと最後にその現場に行ったのがメイスンの依頼人ダイアンということで容疑者になる。
予備審問が開かれるが、なにかがおかしい、時間的要素に整合性がない、誰かがウソをついているって考えたメイスンによって、事件の真相は解明されるけど、個人的感想としては、え、その犯人ってあり? って感じが残った。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

月のパロディ大全集

2021-10-24 18:04:00 | 丸谷才一

丸谷才一・井上ひさし選 昭和59年 朝日文庫
「花のパロディ大全集」「星のパロディ大全集」の続編、「週刊朝日」掲載は1982年1月~1984年4月ということらしい。
去年の夏に古本買い求めたんだけど、三部作ということで、第二弾の「星の~」を今年手に入れるまで読まずにいた。
内容は、
>現代日本には、新春を三十一文字で祝ふ優雅な二大行事がある。一つは申すもかしこきことながら宮中の歌会始、一つはもちろん「週刊朝日」のパロディ百人一首。(p.23)
と丸谷さんが自ら誇るおなじみ狂歌百人一首をはじめ、いろいろ。
私は和歌の教養ないんで、それより「スポーツ新聞の社説」とか「お伽噺を新聞見出しに」とか「坊っちゃん」なんてほうが読んでておもしろいと思うけど。
くしくもこれらのお題の回には井上ひさしさんの選評で、パロディいかにあるべきかみたいな指導があって、それが非常に参考になる。
社説というものについては、いろいろ具体的な文例をあげながら、
>つまり「主題に大問題を据え、それについての事実を並べ、ちょいと叱り、こうあるべきだと訓戒を垂れつつ期待を述べる、これを社会正義の立場から大上段に、しかし紋切型の文体と及び腰の言い回しで論じること」、これがどうも社説というものであるらしい。(p.64)
と明快にまとめ、そういう調子でどうでもいいような問題を論じてもらいたかったのだが、みなさんできていなかったと残念がる。
お伽噺を新聞見出しにするというのは、実際のパロディ大賞受賞作が、
>帰国の浦島氏に非難集中 買春観光は一目瞭然
>「竜宮女性の人権無視」怒る婦人団体
>「個人的なお礼」とあっせんの亀
>問われる日本男性の倫理
というような、けっこう笑えるものなんだけど、応募作の水準が高かったので、見出し文というものをだれもが熟知していると井上さんは評して、
>入賞作品に共通しているのは、それぞれ原作に、まったく別の、新しい「値打ち」をつけ加えているという事実です。値打ちを「視点」と云い換えても同じことですけれど、これこそがパロディとパロディまがいの分れ目でしょう。原作をどんなに巧みに作りかえても、出来上ってきた新作品に、新しい値打ちが創作されていないならば、それはパロディではない。逆に、新作品が新しい値打ち(視点、見方)を創り出すことに成功しているならば、たとえ原作を手痛く扱っているように見えようと、つまり原作者がどんな苦情を持ち出そうと、それはそれでもう立派なパロディ作品です。パロディというより一個の創作物です。(p.95-96)
というように、パロディ論を説いてくれる。
パロディってなんぞや、これはパロディなのかそうとは言えないのか、みたいな議論はよくあるようだけど、ここまでわかりやすくハッキリ解説してくれると、たいへん勉強になる。
「坊っちゃん」の回の選評では、「「とんでもないもの」をどう盛り込むか」と題して、表面的な文体にこだわるよりも自由で飛躍した考えが重要だとして、
>つまりパロディとは《だれでもよく知っている形式や内容に、どれだけ多くの異分子(とんでもないもの)を盛り込み、しかも出来上がったものが、どれだけ原作と似かよっているか》を競う作物であると云っていいのかもしれません。(p.143)
というように優れたパロディとはなにかと教えてくれる。
コンテンツは以下のとおり。
狂歌百人一首’82
有名人、その日の架空日記
北原白秋の詩・童謡
スポーツ新聞の社説
狂歌百人一首’83
お伽噺を新聞見出しにすれば……
藤村詩集
二百年後の歴史人物事典
夏目漱石「坊っちゃん」
狂歌百人一首’84
この会社の架空新製品 テレビCF台本
丸谷才一/井上ひさし パロディ月見酒
特別調査報告「パロディ人間」の貌

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

漫画ノート

2021-10-23 18:06:02 | 読んだ本

いしかわじゅん 2008年 バジリコ
こないだ同じ著者の『秘密の本棚』読んだあとに、そのまえ読んだ『漫画の時間』の続編があるらしいと知って、9月頃に古本を買い求めた。
あとがきによれば、前著が好評だったので続編を求められたそうだが、前のだって十年分の原稿から編んだものだから、そんなすぐできない、ってことで結局12年かかったそうだ。
初出は週刊誌とか月刊誌とか新聞とか単行本の解説とかいろいろらしい。
NHKのテレビ番組でマンガをとりあげるのをつくったのも、『漫画の時間』に起因してるんだそうだ。
テレビでの発言には反響も多くて、よく言われるのが「いったいなに様のつもりだ」ということらしいが、まあ、そう言われるんぢゃないかと。
>(略)みんなさんざん口を極めて罵っているようにも見えたかもしれないが、それは違う。みんな、あまりに面白くて、我を忘れてその面白さをいい募っているので、一見誉めてるようには見えなかっただけなのだ。(p.149-150「最高の人」)
という調子で一歩もひかないから、そりゃあ絵が下手だとか言ったら怒る相手もいるだろう。
面白いのを見つけるのはたしかなんだけど、面白くないものに容赦なく面白くないって言うからね、退屈だとか、弱いとか、センスがないとか、悪口のボキャブラリーもけっこうあるし。
>読者が気づかなかっただけなのだと思う。
>こういう一見普通の漫画のふりをした新しい漫画は、気づくのに時間がかかるのだ。そして、読者が気づくころには、もうそれは当たり前のこととなってしまっていて、読者は自分が新しい存在に気づいたことにすら気づかないのだ。(p.327「カッコいい木葉」)
みたいな言説を駆使するところが、ともすれば「私だけが知っている」というふうに聞こえちゃうのではないかという気がする。
それが、ひとによっては、「俺様>>>一般読者」みたいな位置にいるのか、って受け取っちゃうのかもしれない、しょうがないですよね、プロなんだから。
>ぼくは、誰かの才能を測る場合、ふたつの基準でもって考える。
>ひとつは、その作品が僕の発想の及ぶ範囲であるかどうか。そしてもうひとつは、自分の生活が脅かされるかどうかだ。(p.356「よしもとの謎」)
というように書いてあるのは、ずいぶんと正直だなと思って、印象に残ったけど。
私は幅広く手を出すことはしない怠け者なんで、採りあげられてる作品は読んだことのないものいっぱいなんだけど、特に今回、次これ急いで読まなきゃ、ってものは見つからなかった。
坂口尚『石の花』は、たしか米原万里がホメてたんで、読んでみたいと思ってはいるけれど。
どうでもいいけど、本書のなかで、数人と一緒に歩いてた著者が、少年ジャンプの編集者にバッタリ会ったときに、「この子が、高橋留美子さん」と紹介したら、その編集者はすぐに近所の中華料理屋に全員を誘って、個室をとって料理をどんどん運ばせた、っていうエピソードがあるんだけど、出世する編集者はそうでなくちゃならんのかと、感心した。
第一章 漫画は冒険する
第二章 BSマンガ夜話
第三章 愛の漫画
第四章 彼らの肖像
第五章 秘密の花園
第六章 美しい物語

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雪の中の三人男

2021-10-17 18:11:29 | 読んだ本

エーリヒ・ケストナー/小松太郎訳 1971年 創元推理文庫版
これは先月の下旬に地元の古本屋に立ち寄ったときみつけた文庫。
『ボートの三人男』なら知っているが、雪の中の三人男とはなんぞや、と思ったんだが。
ホントは、棚に並んでる背表紙ながめてて、著者名がケストナーなのが最初に目にとまったんだけど、ケストナーったら、あのケストナーだよなと、ちょっと驚いて手に取った。
『エミールと探偵たち』は、私の生涯ベストの何冊かのうちのひとつに間違いなく入る、好きな本。)
なら、おもしろいにちがいないと決め込んで、サッと買ってサッサと読んだ。
主人公のひとりは、トーブラー・コンツェルンの枢密顧問官トーブラー氏、大金持ち。
このひとが自分の事業のひとつである工場で広告の懸賞募集をさせて、偽名で自分も応募したら二等賞に入った。
賞品として与えられるのはアルプスにあるグランドホテルの十日間滞在なんだが、ホントの名前は伏せたままで、貧乏人のふりをして行くと言って、家族や使用人をあきれさせる。
下男のヨーハンをお供につれてくんだけど、ヨーハンは金持ちの役回りで、おたがい他人という設定で行くぞと命令する。
わざわざ安物の衣装を調達して旅の準備をしてると、娘のヒルデガルトに「ホテルから放り出されてしまいますよ」と忠告されるが、トーブラーは「放り出されたら、おれはホテルを買っちゃうよ、そしてほかのやつらを放り出す」と言い返す。
父トーブラーのことを心配する娘ヒルデは、内緒でホテルの支配人に電話して、懸賞広告の受賞者が一人行くけど、百万長者なのに貧乏人として登場すると告げる。
>「気まぐれなんです。人間を勉強するつもりでいるんです。(略)子供なんですよ、その人、おわかりになります? (略)本人には、貧乏人だと思われてるってふうに信じさせておいて、しかもふだんと同じような扱いをしてあげていただきたいんです」(p.51)
というふうに手回しをしてホテル側に承知させる。
その「ふだんと同じような扱い」の具体的指示もだすんだが、それがおもしろい。
一日おきのマッサージをさせること、郵便切手を集めているので提供すること、夜は暖めた煉瓦をベッドの中に入れること、好きな食べ物は牛肉入りのうどんなどの惣菜料理、酒はコニャック。
そして、なんといっても極めつけは、シャム猫を二、三匹都合して、部屋に入れておいてくれ、だって。
かくして、ホテル側も準備万端受け入れ態勢整えるんだが、従業員からもれた話が、滞在常連客まであっという間に広まり、酔狂な百万長者がやってくるってうわさは知らぬ者なしって状態で現地は盛り上がってしまう。
一方、懸賞の一等になったのは、ドクター・フリッツ・ハーゲドルンという若者、大学は出たけれど失業中で、母には親孝行。
こちらも同じホテルに同じ日から滞在することになるんだが、いつもの一張羅で行くしかない。
ところが、到着時にホテル側が勘違いしたもんだから、この青年が身分隠そうとしてる百万長者か、はたまたアルバニアの皇太子かってまちがえられて、丁重な扱いを受ける。
シャム猫のいる部屋に案内されるだけぢゃなく、泊り客の御婦人たちからも盛んに誘いを受けることになる。
ハーゲドルンは、シュルツェという偽名を名乗るトーブラーと出会い、懸賞の入賞者だと見抜いたことから、広告の話などして、親しくなる。
トーブラー枢密顧問官のほうは、お望みどおりに扱われることになり、暖房もない屋根裏部屋に泊まらされて、スケートリンクの雪かきとか、リュックサック持って村まで買い物とか、こき使われるんだけど、面白がって対応して「煙突掃除もやりたい」ぐらいのこと言い返す余裕がある。
かくして、シュルツェを名乗るトーブラーと、実はその下男だけどケッセルフート氏という大陸間航路の持主という設定でとおすヨーハンと、若者ハーゲドルンの三人は、仲良く大きな雪人形を作ったりする。
いろいろ騒動を起こすんだが、最後には、ヨーハンから連絡を受けてトーブラーの娘ヒルデまでやってくる、もちろん身分を偽って。
ただただ楽しくて毒のないお話なんだけど、やっぱいいなあ、ケストナーは。

※いま探してみたら、昔読んだはずの『一杯の珈琲から』をこのブログで採りあげてなかった。
それどころかウチんなか、さんざ探したんだけど、その文庫本が見当たらない、どこやっちゃったんだろう?

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする