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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

大どろぼうホッツェンプロッツ

2022-09-30 18:48:22 | 好きな本

プロイスラー作/中村浩三訳 1975年発行・1984年改訂 偕成社文庫版
ケストナーの『雪の中の三人男』を読んだあとごろから、なんだか無性にホッツェンプロッツが読みたくなって、今年に入ってからだったか、中古の児童文庫を買って読んだ。
おもしろいんだ、これ。子どもんときウチに単行本が三冊そろいであって読んだ、何度も読んださ。
姪が小学生んとき、本が好きだってんで、これ贈ってやったさ、女の子にはどうかとも心配したが、やっぱおもしろかったと。
でも、どんな話だか、ほとんど忘れてた、ひさしぶりに読んでみて。
最初んとこはおぼえてんのさ、大どろぼうホッツェンプロッツが、カスパールのおばあさんの家に現れて、コーヒーひきを強奪していく、ハンドルを回すと歌を演奏する特製のコーヒーひきだ。
警察にも届けたんだけど、カスパールと友だちのゼッペルの二人は、自分たちで泥棒をつかまえようと立ち上がる。
おばあさんは、日曜日には生クリームをかけたプラムケーキをつくるのが習慣なんだけど、コーヒーひき獲られたショックでケーキも焼けなくなってしまい、二人はそれがたいそう残念なんである、こういうとこがいい、被害はコーヒー挽き器、副次的被害はケーキ食べる機会損失、児童文学はこうでなくちゃいけない。
で、そっから先くらいからはほとんど忘れてたんだけど、二人は泥棒のアジトを見つけようと策をこらす。
そこで泥棒を追跡しようとするときに、変装が必要だと思いつく、カスパールの赤いとんがり帽子と、ゼッペルの緑色のチロル帽子、それぞれ彼らのトレードマークである帽子をお互いに交換して被ることにする、サイズ合わないんだけど気にしない、この意味なさそうなしょうもない小細工がのちに効いてくる、いいなあ、こういうの。
でも、むなしく二人はホッツェンプロッツに捕まってしまう、かなうわけがない。
ホッツェンプロッツはゼッペルのほうを自分のアジトで鎖につないでこき使うことにして、カスパールのほうは友人である悪党の大魔法使いツワッケルマンに売り渡す。
ここんとこはよく憶えてた、人を動物に変えたり、泥から金をつくったりもできる大魔法使いのツワッケルマンが試しても試しても魔法でできなかったこと、それがジャガイモの皮むきっていう、なんて魅力的な設定、こうでなくちゃ。
夕方までにバケツ六杯のジャガイモの皮をむいておけ、って命じて、魔法のマントに乗って空を飛んで出かけてく魔法使い、こういうのがとても印象に残るんだよね、子どもとしては。
かくして苛酷な状況におかれたカスパールだが、これはすっかり忘れてたんだけど幽閉されてた妖精と出会って、彼女を助け出すことによって形勢は一挙逆転。
あとは、大団円に向かって一直線、魔法使いをやっつけ、ホッツェンプロッツをつかまえ、コーヒーひきを手に入れて、土曜日に事件発生したのに、水曜日にはもう生クリームのかかったプラムケーキを食べることができましたとさ、になる。
んー、このスピード感、たまらん。
やっぱ続編も読みたくなってきたな、たしか、あれには焼きソーセージとザワークラウトが出てくるんぢゃなかったっけ。(←こーゆーことしかおぼえていない。)

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人間の性はなぜ奇妙に進化したのか

2022-09-27 18:45:59 | 読んだ本

ジャレド・ダイアモンド/長谷川寿一訳 2013年 草思社文庫版
これは今年3月だったか古本まつりで見つけて買ってみたもの、最近になってやっと読んだ。
ジャレド・ダイアモンドは、前に読んだ『銃・病原菌・鉄』がたいそうおもしろかったんだが、ほかには読んでなくて、こんなのもあったんだとは知らなかった。
原題「Why Is Sex Fun? : The Evolution Of Human Sexuality」は1997年の出版、1999年の日本語訳単行本は『セックスはなぜ楽しいか』という直訳タイトルで出たというが、文庫化にあたって改題したという、まあ、そのほうがいいでしょうね、進化を解き明かす科学の本ですから。
人間の性の奇妙な進化ってのは、
>(略)どうして排卵が隠蔽され、女性がほとんどいつでも性的に受け入れ可能な状態になり、遊戯としてのセックスが行なわれるように進化してきたのかを解き明かしていこう。この三つの風変わりな繁殖行動こそ、ヒトの性的特徴の根幹をなすものだからだ。(p.107)
ということだそうで、他の動物からみると、妊娠の可能性もない時になにムダなことしてんだろ、という生態が人間の特徴。
排卵の隠蔽の理由についての代表的な仮説は、「マイホームパパ説」と「たくさんの父親説」という対立する二つ。
マイホームパパ説は、排卵の隠蔽が、男を家にとどまらせ、妻の産んだ子の父親が自分であると確信させるってもの。
繁殖可能なタイミングがはっきりしてたら、そのときしか男は家にいない、他の日には他のメスを探しにどっか行っちゃうだろうと。
たくさんの父親説は、排卵を隠蔽したメスが多くのオスと交尾すると、生まれてきた子供の父親が自分だと確信できるオスはいないが、ひょっとしたら自分が父親なのかもと可能性をもつ多くのオスがいる。
なんでそんなことが大事なのかというと、さまざまな猿の種にみられるような子殺しが避けられる、子殺しってのは新しくボスになったオスが、前のボスがつくった子供を殺す、それみて発情したメスと交尾するってショッキングな生態、自分の子ぢゃないって確信があるから子殺しが成立する。
で、どっちかだけが正解ってんぢゃなくて、たぶん結論としては、ヒトの進化は、配偶関係が乱婚とかハーレムの形態の時期に、子殺しを防ぐ機能として排卵の隠蔽が生じ、それが定着したとこでやがて一夫一婦制に切り替わって父親を家にとどまらせるようになったんぢゃないかと。
それにしても、べつのオスの子供は殺しちゃうとか、繁殖期にないメスはほっぽって他のメス探しに行っちゃうとか、ムチャ言ってるみたいだけど、この自分の遺伝子を残す、遺伝的な利益って考え方がすべての基本にある。
>(略)逃れようのない父性の不確かさから、ほとんどの哺乳類のオスが達した進化的結論は次のようなものだ。交尾が済んだらすぐにメスのもとを離れ、別のメスを探して交尾する。これを繰り返し、その都度メスを置き去りにして、子育てはメスに任せる。(p.45)
ってことで、ほかの哺乳類とか鳥類の例もたくさん出して、生物の進化ってそういうもんだと説明してくれる。
おもしろいと思ったのは、生れてきた子供の子育てについて、メスがひとりで子育てするのか、オスが責任引き受けるのか、両方が分担して行うのかを決める要因は、
>(略)胚や受精卵にすでにどれほど投資したか、この先、胚や受精卵を育てることでどんなチャンスを逃すことになるか、自分が本当に胚や受精卵の親であることを確信できるか(略)(p.38)
っていう三つあって、それで決まるっていうんだけど、わずかしか投資しなかった場合より、多大な投資をした場合のほうが途中で投げ出しにくい、それは子供に対する親の投資でも同じ、って考え方。
たいがいの場合に、受精卵に対して自分の栄養分まで使って胚を成長させたりするメスが子育ての世話をするパターンになるが、それって母性とかって感性ぢゃなくて、投資したものたやすく放棄できないからなのねって、そういう指摘が刺激的。
章立ては以下のとおり。
1 人間の奇妙な性生活
2 男と女の利害対立
3 なぜ男は授乳しないのか?
4 セックスはなぜ楽しいか?
5 男はなんの役に立つか?
6 少なく産めば、たくさん育つ
7 セックスアピールの真実

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怪盗ニックの事件簿

2022-09-23 19:01:27 | 読んだ本

エドワード・D・ホック/木村二郎訳 二〇〇三年 ハヤカワミステリ文庫版
読みやすくて短いのが気に入って読んでる怪盗ニックもの、先月に買い求めた古本の文庫だが、もとは1983年に日本で独自に編纂された第三短篇集。
比較的初期の作品もおさめるという方針はありがたくって、1968年・発表順でいうと三番目、1969年・発表順は五番目みたいなのが訳を新しくして入ってる、一般的にこういうシリーズは初期のもののほうが、それまでに温めてたアイデアを満を持して出してくるんで、面白いというのが私の思うところで。
怪盗ニックは二万ドルの手数料で仕事を請け負い、価値のないものしか盗まないんだけど、依頼者にはそれなりの価値があるはずで、そこんとこが泥棒の手際とはちがって謎解きとしておもしろい、ニックはときどき劇中で「わたしは泥棒で、探偵ぢゃない」みたいなことを言うけど、まちがいなくお話としては探偵的要素はある。
本書のなかには、泥棒になったきっかけをニック自身が語るとこがあって興味深い、少年時代からの友人に問われて、
>もちろん、女が原因だ。その女はおれを説得して、泥棒の片棒を担がせた。ニュージャージーにある中世研究所に押し入って、美術品を盗もうと言った。おれはトラックを都合して、建物の中にはいれるようにステンド・グラスの窓を外した。おれが中にはいっているあいだに、その女はステンド・グラスの窓を持って、トラックで逃げてしまった。女は初めからステンド・グラスを狙っていたわけだ。収集家にとっては、五万ドルの価値があったらしい(p.120-121「マフィアの虎猫」)
と言って、ある時点である人にとっては値打ちのあるものってのがあるって価値観に気づいたらしい。
一方、1966年のデビュー以来、ずっと一緒のガールフレンドのグロリアに自分のホントの仕事を打ち明けるのが1979年の作品中でのこと。
グロリアはニックのことを、最初はカタギだと思ってて、そのうち政府の情報機関だか諜報部員だか秘密の仕事してると思い込んでたんだが、ニックがある事件で料理をグロリアのドレスにぶちまけた騒ぎの間に目的のものを手に入れたり、そのことで関係者に泥棒だと詰め寄られたりで、とうとう真実を打ち明けざるをえなくなる。
足を洗えと言われるか、別れると言われるか、反応を読めなかったんだけど、全部の説明を聞いたあとの彼女の答えは、とてもふるっているので、興味あるひとは「昨日の新聞」を読んでください。
おもちゃのネズミ The Theft of the Toy Mouse
 パリのスタジオで撮影中のアメリカ映画の小道具のひとつ、ゼンマイ式の小さな金属製ネズミを盗んでくれ、アメリカでは98セントで売っているおもちゃだという。依頼者は自分の住所も書かず手紙で小切手を同封してきた、そういうのは例外だがニックは受けることにした。
劇場切符の謎 The Theft of the Wicked Tickets
 依頼人は百万長者で、息子がプロデューサーをしているブロードウェイ・ショウの切符を切符売り場からすべて盗んでくれという。切符を盗んでも誰の邪魔もすることにはならない、芝居は二カ月前に終わっているという。
笑うライオン像 The Theft of the Laughing Lions
 ニックがひとりでボートに乗っていると水着姿の女性が海から乗り込んでくる。近年6つの州都で開店営業した「キャピタル・クラブ」のテーブルの上にある石膏のライオン像を盗んできてほしいという。
七羽の大鴉 The Theft of the Seven Ravens
 ロンドンに呼び出されたニックにイギリス政府関係者らしき人物が接近してきて、新しい独立国ゴラの大統領が明後日に女王に謁見し七羽の大鴉を献上する予定だが、献上式典が終わるまでそのカラスが盗まれないように取り計らってほしいという。警備は自分の仕事ではないといったニックだが、結局引き受ける。(どうでもいいけど私はレイヴンとクロウの違いなんて知らなかった。)
マフィアの虎猫 The Theft of the Mafia Cat
 少年時代からの知り合いで同じイタリア系のポールはいまやマフィアの幹部、べつのマフィア組織の大物マイク・ピロネの猫を盗んでくれという。スパークルというその大きな虎猫はいつもピロネと一緒に写真に映っている有名な猫だ。ニュージャージー州北部の湖のほとりの邸宅にニックは釣り人のふりをして近づこうとする。
ポスターを盗め The Theft of the Circus Poster
 フロリダに呼び出されたニックをホテルの部屋で待っていたのは派手なピエロのメイクアップをした男だった。ハービー・ベンスンという引退したピエロが持っているコレクションの一部である、1916年版のサーカス・ポスター、上部に五人の空中ブランコ乗り、下部にサイとピエロの絵があるポスターを盗んでほしいという。
家族ポートレート The Theft of the Family Portrait
 赤いあごひげをつけ瑪瑙の指輪をはめた謎めいた男の依頼、オハイオの小さな大学の女子寮の部屋にある、女子大生と彼女の両親と弟が映っている縦8インチ横10インチの額入り写真を盗んでくれという。
昨日の新聞 The Theft of Yesterday's Newspaper
 一月のロンドンに休暇のつもりでグロリアと来ていたニックのところにフェリックス・ポーランドという男が接近してくる。女優のホープ・トレニスの家では今夜パーティーが催されるが、その家のどこかにある昨日の「ロンドン・フリー・プレス」という新聞を盗んでくれという。
銀行家の灰皿 The Theft of the Banker's Ashtray
 高層ビルにある銀行家のオフィスに呼ばれた依頼は、デスクからガラスの灰皿が盗まれた、価値のないものなのでその理由を知りたいのだというもの。新しい教会を建てるために貸し付けを受けたいといってきた牧師と面会したあとに灰皿が無くなったのに気づいたという。自分は探偵ぢゃないと断るニックに、銀行家は所定の手数料を払うので灰皿を取り戻してくれという。
石鹸を盗め The Theft of the Silver of Soap
 グロリアと休暇中のニックに話しかけてきたのは音楽グループで歌っているという女性、出演契約したクラブが火事で全焼し、楽器は灰になり仕事もなくなってしまった。火事はクラブのオーナーがわざと起こしたにちがいない、オーナーの家の二階のバスルームから店の名前の入った石鹸を盗んでほしいという。

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「ドライブ・マイ・カー」などを読み返す(映画みたんで)

2022-09-20 18:38:23 | Weblog

こないだ、某BSで映画『ドライブ・マイ・カー』を放送してたんで、録画しといて観た。
なんか春ごろ話題になってたしな、と思ったんだが、でも私はアカデミー賞ってあんまり、なんつーか、信用してないんだけど。
それはともかく、そしたら長いんだ、これが、3時間くらいある、今日日3時間は長いよね、『日本誕生』とかの時代ぢゃないんだから。
まあ、とにかく観てみて、そこで、ふと思ったんだけど、原作の小説「ドライブ・マイ・カー」って短篇だったよね、こーんな長い話ぢゃなかったような。
でも、だいたいがどんな話だったかも忘れてしまってるし、そういうわけで読み返してみることにした。
探せばすぐ出てきたけど、単行本『女のいない男たち』は、2014年の出版かあ、遠い目になってしまった。
「ドライブ・マイ・カー」の主人公は俳優の家福(かふく)という男で、事故ったうえに眼に異常もみつかったんで、専属の運転手を雇って自分の車を運転させることにした。
そのドライバーはまだ若い女性なんだけど、アクセルもブレーキもシフトチェンジも、とにかく運転はうまかった、北海道の車がないと生活できないとこの出身なんで自然とうまくなったらしいが、余計なことしゃべったりしなくて、存在が気になんないし、理想的なドライバーといえた。
あるとき、彼女が車のなかで「どうして友だちとかつくらないんですか?」と訊いてきた。
それで家福は、最後に友だちらしいものつくったのは10年くらい前で、その年下の二枚目の俳優が、自分の亡くなった妻と寝ていたのを知っていて近づいたのだ、どういうわけで妻がそいつに惹かれたのかとか知りたくて、って話をする。
っつーだけの話だ、っつーだけってのは面白くないとかって意味ぢゃなく、3時間の映画にはならんだろよ、という長さのことで。
チェーホフの『ヴァーニャ伯父』の話は出てくる、家福が劇場で出演してたのが明治時代の日本に舞台を移して翻案したその公演だ、ってだけの話で、映画では多国籍言語で舞台を上演するなんてすごいことになってるけど。
(どうでもいいけど、映画には手話をつかう女性の俳優って演出があって、今年のアカデミー賞は聴覚障害者の家族の話が何か受賞したとかいうから、そういうのが今年のアカデミー賞では、なんつーか、やりたいことだったのかなという気もしたが。)
奥さんがベッドの中で実事の後に、物語を話す、やつめうなぎがどうしたとか、同級生の男の子の家に忍び入ったとか、そういう話をするってのは、同じ単行本の「シェエラザード」のほうでした。
ふーむ、ということで、短篇小説にインスパイアされて、あれもこれもって、映画脚本書いてったら3時間になっちゃったってことですか。
なんかめずらしい気がする、そういうの。
だいたい日本の映画って、長いんだけど、アメリカとかの何でも90分くらいで全部回収してまとめちゃうのとかと違って。
最近はねえ、マンガを原作にしてんのとか多いようだが、これがたいがい長いのよ、いや3時間とかにはしないんだけど、すぐ120分ものの前後編2部作とか、3部作とかにしちゃうから、トータルでは長い。
原作マンガの何がそんなに好きなのか知らないが、週刊1年とか2年連載したぶんとか、単行本10冊とか20冊とかを、そのまんま映画にしようとするから、削らないもんだから、そりゃ長くなる。
マンガのセリフをそのまま言わせるってのもね、いやあ、なんつーか、それならマンガ読むよ、って気にさせられる。
映画は映画用に脚本書いてよ(できたら短く、ギュッと濃くしたの)、と思うことが多い、それとも一つ看板で延々シリーズつくったほうが儲けやすいのかな。
で、まあ、短い小説を長い映画にした「ドライブ・マイ・カー」はめずらしい試みだな(私が知らないだけで、けっこう他にもあるのかな)と思ったわけで、それはそれでありかとも思ったが、やっぱあんまり何度も観るとは思えない(笑)
(気に入ったシーンのひとつは、一緒に食事に招かれた席で、女性ドライバーがやおらその家の犬を撫でるところ。なんでもセリフとして言葉に出して説明しないと気が済まない邦画関係者とは、ちょっとちがう気がした。)

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樹影譚

2022-09-14 19:21:30 | 丸谷才一

丸谷才一 1991年 文春文庫版
丸谷さんの随筆なんかはおもしろがって読むくせに、意外とちゃんと小説を読んでないことを気にしてたら、ことし3月の古本まつりでだったか、あー、これこれ、これ読んでなかったんだよなと、文庫を見つけたんで買った。
三つの短篇が収録されてて、初出は1986年から1987年で、単行本は1988年刊行だという。
「鈍感な青年」
図書館で知り合った24歳の男と20歳の女の話。
男が佃島のお祭を見に行こう、二年前に見たけどすごい熱気だったと誘う、女は東京出身だけど見たことないんで興味もって応じる。
ところが行ってみると、佃島は静かで、聞いてみると大祭は三年に一度、今年は蔭祭だから何もしない、ってことらしい。
神輿もでないし獅子頭もでない、見るものないんで二人は蕎麦屋にはいって氷いちごを食べる。
若い男は自分にはなんか実際的な能力が欠けてるなあと反省するんだが、女の態度が変わっているのに気がつかない、鈍感だから。
「樹影譚」
どういうわけか樹の影を見るのが好きだ、とくに並木の影なんかが垂直に立つ面に映るのにひかれるのは、どうしたことだろうって前振りから始まって。
古屋逸平という明治生まれ、山陰の地主の家の三男という小説家を主人公にたてて、樹影にこだわる人物にふりかかる奇妙な出来事を語る。
樹の影が映るイメージをとりいれた作品をいくつか書いた老作家は、郷里で講演会をやる機会ができたところ、その際にぜひお会いしたいという老女からの手紙をもらう。
「夢を買ひます」
リカちやんという銀座のお店ではたらく女性が主人公で語り部、「それが月曜で、日曜の夜、アメリカから帰つたばかりの先生が来たの。せんのお店のお客で、おつきあひしてた人。ちやんとママに言つてあつた人よ。」(p.154)とか、全編そんな調子の語り。
ひとから夢の話をされるのは嫌いなんだけど、たまたま聞いた話がおもしろくて、美容整形したけど今の顔は気に入ってないんで、ホステスやめたら元の顔に戻してお客には知らんぷりする、なんてその話を「先生」にする。
すると何が興味を刺激するのか、「先生」は前の顔を見たがり、写真を見せろ、アルバムはないのかと執拗にせまる。


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