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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

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2021-09-26 18:07:03 | 丸谷才一

丸谷才一 二〇〇七年 朝日新聞社
丸谷さんの随筆集、たしか去年の二月ころ買い求めた古本、最近やっと読んだ。
丸谷さんの持ってないもの見つけると、とりあえず買ったりすんだけど、手元にあると安心して読まずにいたりするのは悪いクセだ。
まあ丸谷さんのものは発表順に読まなきゃなんないという種類のものではないから、見つける先から手に入れて、気の向いた順にぼちぼち読んでいけば、それで楽しい。
初出は「朝日新聞」の2004年4月から2007年3月まで月イチ朝刊連載だという、全36篇。
新聞連載のせいか、分量は気持ち短い感じ、単行本で一篇あたり5ページ程度。っていうか、長さがどれもおんなじってのは、新聞載せるからだろう、きっちり字数書くのも大変そうだが、新聞って空白恐怖症のようにスペース埋めたがるからねえ、個人的には随筆集は長いのや短いのがいろいろあるほうが好きだ。
内容は多岐にわたってて、天皇の恋歌とか、日本文学の原点は恋歌だとか、2005年は「新古今800年」だとか、得意の文学史ネタもいっぱいあるが、グッと近代にきて『坊つちやん』の話なんかがおもしろい。
>普通に読めば、これは差別の小説だ。東京者の語り手=主人公が地方を侮辱し罵倒する。その連続である。校長から教員心得を聞かされると、「そんなえらい人が月給四十円で遙々こんな田舎へくるもんか」と心中でつぶやく。町並を見ての感想は「こんな所に住んでご城下だ抔と威張つてる人間は可哀想」といふのである。(略)温泉へゆく電車は、(略)自分は上等を奮発して白切符だが、「田舎者はけちだから、たつた二銭の出入でも頗る苦になると見えて、大抵は下等へ乗る」と詰まらぬ所で差をつける。何もかうまで言はなくてもいいだらうとたしなめたくなるほどの言ひたい放題である。(p.170)
ということで、こんなにひどいことを言われても松山の人々は小説の舞台であることを喜び、誇りに思い、「坊つちやんスタジアム」などと命名したりして、寛大なのはどうしてか、と疑問に思い、答えを考える。
この、どうでもよさそうなことを問題意識としてとらえ、大胆な仮説を立てたりするのは、丸谷さんの随筆のいいところだ。
>(略)『坊つちやん』では松山を拉し来つて日本人の島国根性を非難してゐる。識見の低さ、夜郎自大、洗練を欠く趣味、時代おくれを咎めるのに、日本の縮図として四国の一都市を用ゐたのだ。(p.173)
という漱石の日本批判という意図を理解して、自分たちの町を使って名作ができたことを理解している、松山の人々の読解力はすばらしい、というのが今回の結論となっている。
よく採りあげられる『源氏物語』についても、おもしろいのがひとつあって、これは丸谷さんの発見ではなく、伊東祐子『源氏物語の引歌の種々相』に刺激を受けたという話ではあるが。
村上天皇の女御となる藤原芳子は、父親の左大臣師尹から、后の条件のひとつとして『古今集』の和歌全部の暗記を求められたという例をあげて、
>和歌を覚えるのは、一つには自分で詠むためだが、もう一つは会話のため。当時の貴族階級には、会話のなかに古歌の一部を引用する風習があつた。これを引歌といふ。
>(略)引歌は婉曲表現であり、教養の見せびらかしであり、同じ教養の持主同士の親愛の情の表明である、古典主義的な社交術であつた。(p.155-156)
と引歌文化を説明してくれたうえで、『源氏物語』の後半のほうの浮舟に関するエピソードにおいて、匂宮も薫大将も浮舟に語りかけるときに引歌を使わないということについて、
>言ふまでもなく引歌は相手がそれを理解することを前提としてゐる。たしなみのない相手には古典を引いても意味がない。そして浮舟は、(略)東育ちである。当時、関東は辺境であり、言葉づかひも違ふ。ぐんと低く見られてゐた。そんなわけで二人の貴公子は、受領(地方官)の子である東少女を見下し、軽んじてゐた。宮廷的な教養と趣味を身につけてゐない田舎者としておとしめてゐた。さういふ階級的=地域的蔑視の具体的な表現が引歌なしの会話だつたのである。(p.157)
と解説してくれる、すごい小説だ、王朝風俗をみごとに写し出しているというわけだ、教えてもらうとちゃんと読んだことない私でも感心してしまう。
『源氏物語』と関連するところでは、「モノノアハレ」の項も興味深かった。
>これは日本美の典型的概念として名高いが、茫漠としてとりとめがない。一番困るのはモノが何を指すのかわからぬこと。(p.105)
というとこから解説が始まるんだが、そうなんだよ、テストに出るからって「もののあわれ」って単語を暗記はするんだけど、なんのことかはよくわかんないままなんだよ、学校の国語の時間。
モノについては、大野晋説を引用するんだが、タミル語の起源はよくわからぬが、とにかく日本語モノには二つあると。
ひとつは「鬼=モノ」であり、もうひとつは「不変のもの、さだめ、きまり」の意味であるという。
>なお、モノに「物体」といふ意味があるのは、「不動不変の存在→さだまつた形の存在→物体」と日本語のなかで展開したのである。こちらが先ではない。(p.106)
として、万葉集の「世の中はむなしきモノと知るときしいよよますます悲しかりけり」という歌で、モノは「さだめ、きまり」という意味だとわかるだろうという。
>モノノアハレは、従つて、モノ(必然的な掟、宿命、道理)のせいでの情趣、哀愁を言ふ。四季の移り変りはどんなことがあつても改まることのない必然で、そのことが心をゆすぶる。それがモノノアハレ。男と女はどれほど愛しあつてゐても、いつかはかならず、生別か死別かはともかく別れなければならぬ。その切なさもまたモノノアハレ。すべてさういふ自然と人生の成り行きの悲哀、人の運命のはかなさをわきまへ、さらには味はふことを、王朝の人々は「モノノアハレを知る」として褒めたたへた。賢くて趣味がいいと評価したのである。(p.106-107)
という説明で、長年のモヤモヤが多少は晴れた、そうかあ、そうなんだ。
で、『源氏物語』は男女の仲と季節の移り変わりを見事に描いているものだとして、
>あの物語の文体は情感にみちてゐてしかも論理的である。主題がモノノアハレであると同時に、文章の書き方自体がアハレとモノの双方をよく押へる筆法で、情理を盡してゐる。(略)しかしこの情緒的な表現といふ面では現代日本人もずいぶん長けてゐるが、論理性のほうはどうだらうか。かなり問題がありさうな気がする。われわれの散文は、モノとアハレの双方をよく表現できるやうに成熟しなければならない。(p.108)
と古典をほめる一方で、現代日本人にもチクリと警鐘のようなもの鳴らす、そうだよなあ、エモいとかつぶやいてるだけぢゃ何言いたいのかわかんないからねえ。
現代日本の文章表現については、「新聞と読者」という章でおもしろいことを言っている。
いわく、新聞は、新聞社の社員・文筆業者・広告関係者・読者の四種類の人々の協力でできるが、丸谷さんは読者投稿を読むのが好きで、ときどきなかなかうまいものがあるという。
>(略)しかしわたしはかねがね、日本の新聞の読者投稿欄には自己身辺のことに材を取つた感想文が多すぎると思つてゐる。むしろ新聞のニュース、写真、論説、コラム、評論などに対する賛否の反応を寄せるのが本筋ではないか。(略)
>わたしはイギリスの週刊新聞をいくつか読んでゐるのだが、どうもこの点が大きく違ふ。向うの投書は読んだばかりの紙面をきつかけにして対話し、論證しようとする。公的である。こちらの場合はそれよりもむしろ日常生活によつて触発される傾向が強く、私的であり、独白的であり、情緒的になりがちである。(略)
>イギリスの新聞の投書欄は(略)、編集長をいはば首相兼議長役にして(略)四者が共通の話題をめぐり論議をつくす点で、あの国の政治の雛形になつてゐる。それとも、新聞の一隅がかういふ調子になるくらゐだから、政治もあのやうな仕組になると見るべきか。もちろんこの根底には、民主政治は血統や金力によるのではなく言葉の力を重んじるといふ大前提があるにしても。そこでわたしは、われわれの読者投稿欄がもつと充実し、甲論乙駁が盛んにおこなはれ、対話と論證の気風が世に高まれば、政治もおのづから改まり、他愛もない片言隻句を弄するだけの人物が人気を博することなどなくなるだらうと考へて、自国の前途に希望をいだくのである。(p.40-41)
ということで、私小説関連の文学論にいくかと思いきや、民主主義政治へと展開されてったんで驚いた。
これ、たぶん2004年ころの話だろうけど、そのあと政治は良くなったとは言えないだろうし。
言葉を大事にしないし、説明をしようとしないし、まあ人によるんだろうけど、さらに情緒的なほうへ流れてるような気もしないでもない。
ヘンにデジタルな方向へ走り出して、選挙もイイねボタンをプチっと押すだけとかって世界になったら、政治家の言葉なんか聞かなくて、貼ってある面白おかしい写真が気に入っただけで有権者が投票するんぢゃないかと。
閑話休題。
政治の話もあって、
>小泉前首相の語り口はワン・フレーズ・ポリティクスでいけないといふ、あの非難を耳にするたびに、おや、と思つた。物心ついてからこの方、日本の政治はみなワン・フレーズであつたからだ。(p.159)
で始まる一節では、戦前戦中は、「五族協和」とか「国体明徴」とか「万世一系」とか「八紘一宇」とか「聖戦完遂」とかしきりに言って、最後は「本土決戦」「一億玉砕」とか強がっていたし、戦後も「曲学阿世」とか「所得倍増」とか「列島改造」とか「不沈空母」とか、簡潔鮮明で威勢がいい四字熟語づくしだったという。
しかし、四字熟語もだんだん威厳が薄れ、「四字熟語辞典」が出版されるようぢゃ賞味期限が切れたとする。
>その政治的言語の危機に際して、「感動した!」とか「人生いろいろ、会社もいろいろ」とか、他愛もないけれどもとにかく新しい手口を工夫したのが小泉前首相である。
>他愛もないのは、咄嗟の発言だから仕方がないと同情することもできる。しかしじつくり準備したときは記憶に残る名せりふは出なかつた。(略)わたしとしては、ざつかけなくても構はないから、もうすこし内容のあることを、順序を立てて言つてもらひたかつた。(p.160-161)
というように、短い口語性の新しい言語表現自体は否定しないけど、中身がどうなのって残念がる。
それから、次に首相に就任した人については、出版された新書を読んでみたんだけど、疑問をもったという。
>本の書き方が無器用なのは咎めないとしても、事柄が頭にすつきりはいらないのは困る。挿話をたくさん入れて筋を運ぶ手法はいいけれど、話の端々にいろいろ気がかりなことが多くて、それをうまくさばけないため、論旨がきれいに展開しない。議論が常に失速する。(略)
>一体に言ひはぐらかしの多い人で、さうしてゐるうちに話が別のことに移る。これは言質を取られまいとする慎重さよりも、言ふべきことが乏しいせいではないかと心配になつた。(p.161-162)
という具合になかなか厳しい。残る印象は「戦前的価値観への郷愁の人」だともいう。(短かった第一次政権のときに本質を見抜いてるのは、さすが丸谷さん。)
そして、民主政治は言葉によって行われるとして、易しい言葉しか使わない短い演説で人心を奮い立たせたリンカーンの例などをあげて、
>民衆が政治家に、言葉の力を発揮させてゐるのだ。社会全体のさういふ知的な要望があつて、はじめて言葉は洗練され、エネルギーを持つ。(p.162)
というように、またしても国民レベルでの対話と論証の言葉の使いように問題意識はおかれる。
>しかし今の日本の政治では、相変らず言葉以外のものが効果があるのではないか。わたしは二世、三世の国会議員を一概に否定する者ではないけれど、その比率が極めて高いことには不満をいだいてゐる。『美しい国へ』でも、父(略)や祖父(略)や大叔父(略)の名が然るべき所に出て来て、なるほど、血筋や家柄に頼れば言葉は大事でなくなるわけか、などと思つた。(p.163)
と最後まで厳しくて、政治についてこんなぐあいに意見する人だったけか丸谷さん? と思ったし、媒体が朝日新聞だから何か依頼されてるのかと勘繰っちゃったりもしたが、やっぱ言葉をおろそかにしてんのみると言わずにはいられないんだろうなと。
コンテンツは以下のとおり。
歌会始に恋歌を
元号そして改元
東京大空襲のこと
内の美と外の美
日本人と野球
街に樹と水を
新聞と読者
「吉田秀和全集」完結
釋迢空といふ名前
日本文学の原点
演劇的人間
「新古今」800年
『野火』を読み返す
反小説
赤塚不二夫論
石原都知事に逆らつて
水戸室内管弦楽団
天に二日あり
中島敦を読み返す
モノノアハレ
琳派、RIMPA
日本美とバーコード
守るも攻むるも
共和国と帝国
画集の快楽
妄想ふたつ
新しい歌舞伎座のために
谷川俊太郎の詠物詩
相撲と和歌
浮舟のこと
政治と言葉
講談社そして大久保房男
『坊つちやん』100年
歴史の勉強
植木に水をあげる?
岩波文庫創刊80周年

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われら

2021-09-25 18:10:28 | 読んだ本

ザミャーチン/松下隆志訳 2019年 光文社古典新訳文庫版
これは、穂村弘さんの“読書日記”であげられていて、気になったんで最近買って読んだもの、ソ連の作家の小説。
私が気になったのは「鏡の中のなぞなぞ」という章で、佐藤究『QJKJQ』をとりあげてるときに、
>すごく面白い作品に出会うと、その本の世界からいったん顔を上げてきょろきょろする癖があるんだけど、あれって一体なんなんだろう。わざと寸止めして感動を引き延ばすためか、それとも本の衝撃によって現実世界の側に何か変化がないか確認しているのだろうか。この前そうなったのは、ザミャーチンの『われら』の冒頭付近を読んだ時だった。(『図書館の外は嵐』p.88-89)
って言ってるとこなんだけど、今もう一度見てみたら、当然のことながら、そのちょっと前の「「いい感じ」の作家」という章で、『われら』について書かれていた。
>(略)なんだこれ、眩しくてその奥にあるものの正体はよく見えないけど、そこがたまらん、という気持ちにさせられる。
>優れたミステリーの冒頭から前半部分を読む時にも似たような興奮を感じることがある。鏤められた謎の断片と世界が覆る予感。(同p.54-55)
という調子である。
穂村さんの読んだ『われら』は集英社文庫版だそうで、そこに引用されてる裏表紙の説明文を孫引きすると、
>そこ「単一国」では「守護局」の監視のもと、「時間律令板」によって人々の行動は画一化され、生殖行為も「薔薇色のクーポン券」によって統制されている。自然の力は「緑の壁」によってさえぎられ、建物はガラス張り。人々に名前はなく、ナンバー制だ。そして頂点に君臨する「慈愛の人」に逆らう者は、「機械」によって抹消される。(同p.53)
ということなんだが、穂村さんはこの紹介文にヤバいと胸がときめいたそうだ。
私の読んだ文庫は新訳版で、ちと迷ったんだが、せっかく最近出たのなら新しい訳のほうがいいだろうと思って買った。
新訳といっても、いわゆる今様の若者言葉みたいなのは使ってないんで安心した、新しがった言葉使われるとかえって読みにくくなる危険性もあるから。(サキの新訳版ではそれがちょっと気になった。)
ちなみに上記の集英社文庫版と違って、「時間律令板」は〈時間タブレット〉、「薔薇色のクーポン券」は〈ピンククーポン〉、「慈愛の人」は〈恩人〉といった感じにアップグレードされている。
物語の概要については上記の説明文のとおりで、いまからだいぶ未来のこと、過去には「大二百年戦争」なんて出来事もあったらしいが、とにかく今は地球全土を〈単一国〉が支配していて、国民の行動は全部管理されている。
すると、あー、あれね、『1984年』だ、と誰でも思い当たるんだが、こっちのほうが先に書かれていて、オーウェルに影響を与えたんだそうだ。
それはともかく、〈単一国〉では、朝起きる時刻から、仕事行く時間、外でウォーキングする時間、食事の時間、ぜんぶ決められている。
人々にはもはや名前なんかなくてナンバーがあるだけ、ちなみに主人公というか語り手の名前は「Д-503」、「Д」は「デー」で、普通のアルファベットだと「D」。
語り手は「私」と一人称で言うんだが、どっちかっていうと基本は「われら」の方を使いたがる、人々は画一化されてるんで、個性というか人格ないんである、みんな一緒、だから「われら」。
Д-503の仕事は、宇宙船〈インテグラル〉の建造技師、国家の偉業を達成するため、基本的には喜んで国家に忠誠を尽くす存在、単一国の方針に疑いなんか持ってないはずだった。
ところが「I-330」という女性が接近してきて、次第に惹かれてくんだけど、その女性は反政府主義で、目的は宇宙船〈インテグラル〉を自分たちのものにすることだった。
その結末がどうなるかはさておき、穂村さんも言ってるとおり、本作は数学者の手記って体裁なので、そこんとこ独特な形式になってる。
各章はわりと短めなんだけど、頭に順を追ったナンバリングと「要点」が書いてあるスタイルで、たとえば
>記録2 要点 バレエ・四角いハーモニー・X
>記録10 要点 手紙・振動板・毛深い私
>記録13 要点 霧・おまえ・まったく不条理な出来事
>記録14 要点 《私の》・すべきでない・冷たい床
といった調子の三題噺になってるんだが、この単語間の微妙なズレがいいと穂村さんは支持している。
穂村さんいわく「断片愛好癖に強く訴える作品だ」ということになり、エンジニアのメモという形式なんで、ひとによっては読みにくいなと思うかもしれないけど、説明に堕することしないってこと目指してるんだろうから、それはそれでいいのでは。
それにしても、女性に誘惑されてくうちに、主人公はいろいろ心乱れ始めるんだが、「魂をもつ」とか「想像力をもつ」ということは、この〈単一国〉では、ほとんどビョーキ扱いとされるんで怖い。
そういう不穏分子をしょっぴく当局の手先も常に目を光らせてるんだが、まあロシア革命後のソビエト連邦批判で書かれたことはまちがいない。
なんでも1921年に書きあげられたらしいが、ソ連国内では出版することはできず、最初に出たのは1924年の英語訳版だったといういわくつきの作品。

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制度改革以降の日本型民主主義

2021-09-19 18:21:28 | 読んだ本

小林良彰 2008年 木鐸社
これは去年11月くらいに古本を買い求めたもの、去年はいろいろ昔々勉強したときの参考書をひっぱりだしたりしてるうちに、なんか新しいのも欲しくなったもんで。
とはいえ、しばらく放っておいて、最近になってやっと読んだ、まあ、いいんだ、もともとが2000年代の本なんだから急いで読まなくても。
サブタイトルは「選挙行動における連続と変化」、英語題としてついてる(これは巻末abstractの題なんだが)「Is Democracy Working in Japan after the Political Reform?」のほうが印象強烈かな。
日本政治の研究において、選挙の分析するだけぢゃなく、代議制が機能してないんぢゃないか、って問題意識のほうが大きくなってきていて、そのへん突いていく。
主な分析対象となっているのは、2001年参議院選挙、2003年衆議院選挙、2004年参議院選挙、2005年衆議院選挙のの4つの国政選挙。
衆議院選挙が中選挙区で行われたのは1993年が最後で、1996年の選挙からは小選挙区比例代表並立制になっている。
これ変えたとき、政治改革だーって言って、「中選挙区だから政策論争が行われずサービス合戦になる、悪いのは政治家ではなく選挙制度だ」という理屈で通したんだけど、制度変えた結果、問題は解決したのかって検証しなくちゃいけない。
だいたい、国論を二分するような政策論争は日本では起きにくいんだけど、
>その原因は、日本の政党政治の特殊性にある。米国の「民主党vs共和党」にせよ、英国の「労働党vs保守党」にせよ、もともとは、「国民負担が増えても福祉を充実させる」財政的リベラル(大きな政府)vs「福祉水準を下げても国民負担を減らす」財政的コンサーバティヴ(小さな政府)という対立軸に根ざしていた。しかし、日本の政党は税収の増加が右肩上がりの高度成長時代にルーツが形作られたために、自民党から野党に至るまで、財政的リベラルの大きな政府を志向してきた。そして、その恩恵を自民党は第一次産業や建設業に配分し、民主党は第二次産業労働者や公務員に配分するなど、配分の行き先が各党で異なるだけであった。(p.39)
という背景があって、たいがいの日本国民はどうやらそれでいいと思ってるっぽいので、小さな政府って主張はでてこないままだろうし、国民負担を上げないと国が借金増やすだけになると私なんかは思うのだが。
本書の選挙っていうか代議制の機能に関する分析は、大きく二つの柱に沿っていて、ひとつは「将来期待投票」、もうひとつは「業績評価投票」ということになる。
将来期待投票ってのは、政党・候補者の公約を有権者がみて、こっちが自分の望むことやってくれそう、って投票することなんだが、それはあんまり機能してるとは言えない実態がある。
政党・候補者の公約ってのは、選挙に勝つためにつくるんであって、誰も少数しか支持しないもの掲げるわけないから、
>(略)小選挙区制においては、各選挙区における候補者の政策が近似することになり、有権者の実質的選択権は小さくなり、政策論争が生じないことを意味している。(略)少なくとも、中選挙区制よりも小選挙区制の方が政策論争が生じる可能性が低くなることだけは確かである。(p.113)
っつーことになる、制度変えた意味はどこいった。
2003年の「マニフェスト選挙」を分析しても、
>(略)政策公約が有権者の投票行動に与える影響力は必ずしも満足のいくレベルには達していない(略)(p.128)
という結果になり、その理由は、
>(略)二大政党制と言いながらも自民党と民主党の各候補者が提示する公約の間にさほどの大きな相違がみられず、しかもそれらが有権者の争点に対して持つ態度と乖離している(略)(同)
というもので、実質的に有権者に選択権がないという、代議制民主主義にとって由々しき状況になっちゃってる、そら棄権が増えるよね。
もうひとつの「業績評価投票」ってのは、主に政府がってことになるが、ここ何年かの過去の業績をみて、それが良いと思うかダメと思うかが次の選挙に反映するってことなんだが、これも意外とそうなってはいない。
業績評価のみで投票方向とつながってるか分析してみると関連がありそうなんだが、ほかの要素も入れてみると、政党支持とか内閣支持とか居住年数とか、そういったもののほうが影響が強いという結果になる、地域によって差はあるけど。
>こうしたことから、間接代議制における政策形成のアウトプットとして生じる公共政策、あるいは税や保険料といった負担に対する有権者の評価が次の投票方向に反映することで、インプットとして政策形成過程に戻り、全体としてフィードバックが起き、有権者が自分たちで自分たちのことを決めているという擬制を、現代の日本においてはみることはできないと言わざるをえない。(p.203-205)
ということで、なんとも無力感ただよっちゃう。
さらに、選挙結果と、国から地方自治体への補助金の増減との関連を分析すると、
>仮説1:中選挙区制下よりも小選挙区制下の方が得票と補助金の関連性が薄れているとは言えない。
>仮説2:中選挙区制下よりも小選挙区制下の方が参院選における得票と補助金の関連性が薄れているとは言えない。(p.264)
のいずれもが証明されるので、衆議院選挙が小選挙区になっても「票と補助金の交換システム」は大きく変わってないのが現状ということになる。
もちろん、最後には民主主義の機能を回復させるための制度改革の提唱がされてるんだけど、とりあえず「1票の格差」の解消だけはまずやろうよ、と思う。
コンテンツは以下のとおり。
第一部 制度改革以降の政治状況
 第1章 日本の有権者意識の特徴と政治改革以降の投票行動
第二部 プロスペクティヴ・ヴォーティング(将来期待投票)
 第2章 選挙公約の形成と変化――選挙の際に有権者に何が提示されているのか?――
 第3章 選挙公約の効果――選挙公約は選挙結果に影響しているのか?――
 第4章 将来期待と争点態度投票――有権者は選挙の争点を通じて民意を負託できているのか?――
 第5章 ダイアメトロスモデル――日本型投票行動の数理モデル――
第三部 リトロスペクティブ・ヴォーティング(業績評価投票)
 第6章 業績評価の形成と変化――有権者は政府の業績をどのように評価しているのか?――
 第7章 回顧評価と業績評価投票――有権者は業績評価を通じて民意を反映できているのか――
第四部 制度改革と日本型民主主義
 第8章 投票行動の決定要因――選挙を通して民主主義が機能しているのか?――
 第9章 ポークバレルポリティクス――民主主義の機能不全は改善されたのか?――
 第10章 市民社会のための制度改革――どうすれば民主主義の機能を回復することができるのか?――


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いまこそ家系図を作ろう

2021-09-18 18:39:30 | 読んだ本

岩本卓也・八木大造 2010年 枻出版社
これはタイトルそのまんまの実用書で、先祖の名前の調べ方とか、家系図の表記方法の例とか教えてくれる本なんだが。
去年の1月ころだったかな、買って読んでみたのは。
特になんか作ろうということでもないんだが、その前年に、父親と家のむかしの話をすることがあって、ちょっと調べてみたくなったもんだから。
父方のルーツたどってみるかと思い立つというほど強い意志ではないが、やってみる気になったんで、まずは戸籍を取得するんだってことらしいから、実際にとりかかった。
これが、これまでなんかの必要あって戸籍とったことはあるのに、全然意識してなくて知らなかったんだが、戸籍って一本ぢゃなくて、同じ家なのにいろいろ種類が存在しちゃうのでおどろいた。
だいたい、私自身のものですら二つある、ふつうに役所で請求してプリントしてもらう全部事項証明って現在のやつは、実は私のとこの自治体では平成20年に、改製っていって、新しく作り替えちゃったものである。
改製しちゃうとどうなるかというと、平成20年までにその戸籍から抜けちゃった人は、もうそこには載ってこないんである、まるで最初からいないみたいに見える。
新しい戸籍になったひとはそっちを使うから、この戸籍とることないからいいでしょってことなんだろうが、事務仕事の用はそれでもいいけど、親族の名前全部調べようなんて思うと、役に立たない。
抜けたひとはバッテンつけてでもいいから、名前の痕跡だけは残しといてくれりゃあいいのに、そのほうが管理簡単そうにみえるのに、とかく役所というのは余計な手間をかけてワケわかんないものをつくってしまう。
しかたないが、役所が原本書き換えちゃったより前の戸籍は、捨てられたわけではなく保存はされてるんで(これだっていつまで保存してくれるかあやしいが)、改製原戸籍ってのを請求すると、ちゃんと出してくれる、ちなみに発行手数料はすこし高い(笑)
これは昭和の時代に親が届け出たときに新たに編製されたやつで、平成20年に消除されちゃうまで戸籍謄本として活きてたもの、手書きである、漢数字も壱とか弐とか参とか拾とかである、係のひとおつかれさま。
そしたら次、父の欄の記載をたよりに、父の父の戸籍を取得する。
これは自治体の場所がちょっと遠いもんで、郵送で取り寄せることにした、自治体のホームページに請求の書式あるんでダウンロードして記入する。
手数料は郵便小為替にして同封する、戸籍が改製されちゃってると何通あるかわかんないんだけど、たぶん二つと予想する。
返信用の封筒も切って貼って同封する、あとは自分の戸籍のコピーを入れる、直系の子孫だと証明しないと請求できないから。
特に問い合わせの電話連絡などはなく、木曜日に発送したら翌週水曜日には返信が届いた、来たのはやっぱ二通、除籍謄本と改製原戸籍。
除籍は、平成ヒトケタ代に父の父が亡くなって、子はみんな独立して新しい戸籍に移っちゃってるんで、だれもこの戸籍にはいなくなったから除籍となったもの。ちなみにこの戸籍を昭和のある時期に改製したとき、ウチの父はすでに親元から出てるんで、この最終的な除籍には名前がない。
もうひとつの改製原戸籍は、父の父が昭和10年にその前の住所から転籍したときに編製されたもの。
この時代の戸籍は、核家族単位ぢゃなくて、もうすこし大きい家単位なんで、父の父が「戸主」となっていて、その弟も同じ戸籍にいる形である。
さて、これで父の父がどこから来たかわかった、除籍のほうだと役所の都合で「法務省令により本戸籍編製」ってとこから始まるんで、父の父の前の住所がわからない、まったく役所は勝手に過去を消してしまうのだから困る。
さて、ここまでで、父の父の父(曾祖父)の名前まではわかるんだが、もうひとつくらいさかのぼりたい。
なので父の父が前に住んでた自治体へ、引っ越す前の戸籍を取りに行く、これはそんな遠くないので役所へ出かけてく。
ちなみに戸籍取得の理由は「家系図作成のため」って書けば、特に問題ないみたい、直系子孫であること証明するため、これまで取得した戸籍のコピー全部もってくんだが。
今度は何がどうなってるのかそろそろ予想もつかなくなってくるんで、とりあえず父の父の名前と昭和10年までいた住所で申請して、あとはさかのぼれるだけ全部欲しい、って窓口で相談する。
ヘンな依頼する奴だなとあやしまれるんぢゃないかと思ったが、けっこうそういうのもいるのか普通に受理される。
30分くらい待たされたかな、あまり期待してなかったんだが、除籍謄本を二つもらうことに成功。
ひとつは父の父が戸主のもので、昭和2年に家督相続してから昭和10年に転籍するまでのもの、父の父の兄弟の名前がいっぱいで、全5頁。
もうひとつはもう一代前で、父の父の父(曾祖父)が戸主のもので、明治37年に家督相続してから、昭和2年に戸籍が抹消されるまでのもの。
途中市制施行あったり地番変更があったりで住所表記が変更されててわかりにくいが、自分でワープロ文書に書き起こして情報を整理することにした。
とにかく、ここで前戸主として記載があることで、父の父の父の父(高祖父)の名前がわかったのは収穫だった、なんかちょっとうれしい。
これより前の戸籍はない、ということなので、戸籍たどる調査はここまで。
ここまでは誰でもできることで、そこからさらにさかのぼるには、お墓だったり、お寺の過去帳だったり、古文書だったり調べるらしい、古文書ってどこにあるんだよ。
お墓は、見に行ったんだけど、父の父の代に新たにつくったものらしく、墓石に名前とかの新たな手掛かりはない。
お寺の事務所を訪ねるのは、ちょっと敷居が高いというか、いろいろいきさつあってこれまで関与してないものだから、いきなり「子孫なんで」と入っていくのは許されるものかどうか、躊躇して実施していない。
父の父の父の住所がわかったので、図書館で古い地図を見てみたが、その名前を発見することができず、新たな手掛かりはない。
法務局へ行くと、旧土地台帳というものがあって、そこにいた人の情報わかることもあるらしいんだが、そんなこと考えてるうちに、去年最初のコロナ騒ぎの時期に突入しちゃい、急ぎぢゃない外出自粛ってことで行きそびれてしまい、そのあと意欲がすこし冷めて、なんもしないうちに現在に至る。
もう一代くらいさかのぼりたいなー、とは思う。
で、肝心の家系図は、作ってない、描くのめんどくさいからね、大事なのは図ぢゃなくて情報。
でも、もし数百年さかのぼって先祖のつながりが明らかになったら、描くと思うよ、それならやりがいがありそう。
本書のコンテンツは以下のとおり。
第一章 名前と親族の話
第二章 家系図を作成してみよう
第三章 身近な情報を集める
第四章 実地調査と文献調べ
第五章 家系図作りにはパソコンが便利!
第六章 人生が広がる家系図の使い方
第七章 世界にも広がる家系図ブーム!

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ボドキン家の幸運

2021-09-12 18:29:14 | 読んだ本

P・G・ウッドハウス/森村たまき訳 2021年6月 国書刊行会
ウッドハウスは何冊か短編集を読んだっきりだったんだけど、この7月に書店で長編らしい厚い新刊が積んであんの見かけて、ちょっとおどろいた。
帯に「本邦初訳」なんて書いてあるんで、まあ私にとっても新しいものに間違いないし、すぐ買うことにした。
「ウッドハウス名作選」って銘打ってあるし、「新シリーズ登場」という語もあるし、次回配本は9月って帯の裏表紙にあるから、これからいろいろ出てきてくれるかと思うと期待してしまう。
原題「The Luck of the Bodkins」は1935年の出版だという、ふるくてもおもしろいものはおもしろい。
本作の主人公は、モンティ・ボドキン、かのドローンズ・クラブのメンバーである若き紳士、金持ちらしい、父が爵位をもってるので将来は世襲するんだろう、友達からは「最高にいい奴」といわれる好青年。
モンティは、ふとしたことから、ガートルード・バターウィックという女性と恋に落ち、ひそかに婚約を交わす。
ガートルードは、イングランド代表の女子ホッケーチームのメンバーなんだけど、「ホッケー場にあっては良心の呵責なく敵の向こうずねを強打できるくらいに冷血で容赦なき戦闘機械でありはするが、ホッケー場を離れた彼女は純粋に女性的で、珍しくて美しいものに対する女性らしい愛情に溢れている(p.86)」という、かわい子ちゃん。
ガートルードは社長令嬢で、その父親というのがガンコで、職のないものとは結婚なんかさせんというんで、たぶん働く必要のないモンティなんだが、子供と家庭のための雑誌の副編集長になったがクビになり、エムズワース卿の秘書になったがクビになり、私立探偵事務所の腕利きの助手という立場に現在はある。
そうやって結婚のために一所懸命なのに、あるときカンヌに滞在してると、彼のことをとんだ浮気ものと勘違いしたガートルードから電報ひとつで婚約破棄を言い渡されてショックを受ける。
そのとき、たまたまカンヌの同じホテルにいたのが、ハリウッドの映画会社の社長のアイヴァー・ルウェリンという有名人、太った男。
この親爺さんの性格は、関係者によると「もしアイキーに一人娘がいて誕生日にはお人形さんを買ってあげようって約束したとして、もしその子に分別があったら最初にするのは弁護士のところに行って違約条項付きの契約書を書きあげて署名することよ(p.242)」ということらしいが、当世のビジネスマンだから仕方ない。
このルウェリン氏の妻グレイスは元女優の美人なんだが、妻の妹のメイベルが言うには、グレイスがパリで真珠のネックレスを買ったんで、ルウェリン氏が船でアメリカに戻るときに、そのネックレスを持って無申告で税関をすり抜けてくれって要求している。
ルウェリン氏はいくらなんでもそんな犯罪行為はいやだっていうんだけど、できなけりゃ離婚だと言われて困り果てる。
そんな話をしているところへ、全然別のどうでもいい件で話しかけてきたのがモンティなんだが、あまりのタイミングのよさに、ルウェリン氏はモンティのことを税関のスパイで、いまの作戦を盗み聞きされたと思いこむ。
かくして、モンティとガートルードの仲はどうなるのか、ルウェリン氏は妻の真珠を密輸できるのか、っていう二本立てが軸になって物語は動いてく。
舞台は、サウサンプトンからニューヨークまでおよそ6日で航行する大型定期船アトランティック号、時代はいつだろ、大戦と大戦の間ってのはたしかだが、禁酒法が廃止になってるんで、やっぱ1935年ころってことか。
カンヌでの偶然の出会いから一週間後に、登場人物たちは同じ船に乗り合わせる。
ガートルードはホッケーの試合でのアメリカ遠征、モンティはそれを追っかけて話をつけるために乗る。
ルウェリン氏は妻の妹メイベルとアメリカへ帰るんだが、モンティの姿を見つけて、彼はやはり税関のスパイなんだと恐れる。
同じ船に乗ったモンティの友人が、レジー・テニスンという若紳士、家柄はいいんだけど、カナダにでも行って、ちっとは働け、と家族から言われて大西洋をわたることになった。
それで実はレジーはガートルードの従兄弟であり、モンティから今回のいきさつを聞いて、関係修復のために一肌脱ごうとしてくれる。
モンティから見てもレジーはいい奴なんだが、「一つ不満があるとしたら、それはこの友人がいつも自分は何だって知っていると思い込んでいる人物だということだった。他の点では頼りになる奴だが、どうすればいいかを得々と語り、あるいは既にしてしまったことについては、それが間違っていたと言いつのる彼の性癖がとてつもなく苛立たしいという事実からは逃れようがない(p.135)」っていう欠点がある。
それから同じ船には、レジーの兄であるアンブローズ・テニスンも乗る、アンブローズはレジーとちがって海軍省勤務という堅い職にあり、そのかたわら小説を書いてたんだが、どういうわけかそれがルウェリン氏の目にとまったらしく、脚本家として契約してアメリカに渡ることになった。
同じ船には赤毛のスター女優ロッティ・ブロッサムも乗っている、彼女は自ら「女の子にはね、愛する人の下にダイナマイトの筒をときどき一本押し込んであげる権利があると思うの。彼がいい気になりすぎた時はってことだけど、ねえそうじゃなくって?」(p.188)と発言するように、危険な女性なんだが、アンブローズと婚約してる。
ちなみに、このお騒がせ女優が子ワニを飼ってるってのも楽しい設定、ワニがペットといえば、岡崎京子の名作『pink』みたいじゃん。
さらに、余計なことしいのスチュアード(客室乗務員)が随所に顔を出してくるんだが、慇懃無礼っぽいおしゃべりは、かの執事を思い出させてくれておもしろい。
これらの登場人物が狭い船内に会して、当然のことながら、ハプニングの連続とかで、モンティとレジーが何度も繰り返して言うように「歯車が入り組んで」いる状態になってしまう。
たとえば、モンティとガートルードは和解するんだが、そのたんびにロッティが近くをうろちょろしてるのを、ガートルードがモンティは浮気もんだと思い込み、また破局してって繰り返し。
ルウェリン氏は、税関のスパイなんて買収すればいいんだって気づき、モンティに映画に出演してくれってもちかけたりするが、当然断られて、さらに悩むことになったり。
まあ、きっとハッピーエンドになるんだろうなと想像するんだけど、なんともリズム感がよくて、気持ちよく速く読むことができて楽しい。
うーん、小説って、こういうのでいいんだよな、って思うことが多くなった、最近。

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