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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

完訳 グリム童話集

2018-06-30 19:25:10 | 読んだ本
金田鬼一訳 1979年改版 岩波文庫全五冊
河合隼雄さんの本を読んで、そーかーグリム童話いちど読まなきゃ、って思ったわけだが。
幸い今年の一月だったか、古本屋で五冊そろいで文庫を買えた、セットで1000円、おてごろ。
なかなか読むの進んでかないもので、順番にポツポツやって、ようやく最近読み終わった。
感想がどうとかってものぢゃないが。
似たような話は並べてあったりして、そうか、いろんなバージョンあったりすんだ、って今さら知ったとこはある。
「千夜一夜物語」にあった話、たとえば木馬のネジをまわすと空飛んだりとかって話、があったのは、どっちが先なんだろ、それとも共通意識だから同時発生もありえるのかと不思議だった。
なまけものの娘を助けてやるかわりに、魔ものがオイラの名前を当ててみな(「がたがたの竹馬こぞう」)、なんてのはイギリスの民話にもあったやつだ。
それより驚いたのは、落語の「死神」そっくりの話があった、「死神の名づけ親」ってんだが、これが元ネタなの? グリムの初出版は1812年で江戸では文化九年だっていうんだが、どうなんでしょ。
それはいいとして、この文庫にはところどころ訳者による註があるんだが、童話にはやたらと三つのおねがいとか三人の息子とか三って数が出てくることについて、グリム童話では三のつく成語が使われてるのが190篇あるなんて研究が紹介されてたりする。
たしかに三、多い。なんかそれがリフレインの多いおはなしのリズムとあわさって心地いいけど。
あと、おもしろいのは、おはなしはグリムが採集したときの語り口のまんまってのがあって、童話のむすびのお決まりの文句として、たとえば「それ、ねずみがでてきた、おはなしは、これでおしまい。」みたいな、いかにもってのはいくつもある。
「これをほんとうにしない者があったら、一ターレルずつとってやる」とか、「この話をした人はね、じぶんもそのお席に行っていたのだって、そう言ってましたよ」とかってのはいいんだが。
とんでもないのは、「このお話はまだまだつづくのですが、これを話してくだすったお祖母さまは、ものおぼえがわるくなって、あとのほうは忘れておしまいになったのです」(「泉のそばのがちょう番の女」)って、なに、そのアンチクライマックス。
おはなしのおしまいってのは、いろいろあるけど、めでたしめでたしが多いんだが、ひとつ私の気に入ったすごいのがあって。
魔ものが男を助けてやって、三姉妹にひきあわせると、例によって一番上と二番目は男のこと見抜けずに、末の心やさしい娘が男をおむこさんにする。
みすぼらしいカッコしてた男が実は立派なひとであったことを知って姉二人は自殺しちゃうんだけど、そこで魔ものが出てきて、おむこさんに向かって
「どうだい!おまえの魂一つのかわりに、二つの魂がおれのものになったぞ」(「熊の皮をきた男」)
って言うんだけど、それ怖すぎ、こどもには聞かせられないでしょ。
(いつも短編集とかだとタイトルこの下に並べるんだけど、248篇もあるんで、やめとく。)
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完本 日本語のために

2018-06-24 18:02:21 | 丸谷才一
丸谷才一 平成23年 新潮文庫版
著者の文章論とか日本語論みたいのは、あるのは知ってたんだけど、あまり読もうとしてこなかった。
軽妙洒脱なエッセイなんかが好きなもんで、なんかあまり難しそうなものはねえ。
でも、“日本語相談”とか読んだら、やっぱおもしろいので、こんどはこれ読んでみることにした。
なんか似たようなのあって、よくわかんなかったんだが、巻末みたら、これは『日本語のために』(昭和49)と『桜もさよならも日本語』(昭和61)を合本した文庫だっていうんで、それならおトクと思って手に取ったんだが。
旧版のなかから一つずつは収録にもれてるんだという、うーん、きっとそれだけのために、ほとんど同じものなのに再度もとのやつ手に入れるような行動をとるな、俺は。
まったく、ちっとぐらいページ数が増えるからって、省かず全部入れろよなー、完本とか銘打つんなら。
なかみとしては、日本人の日本語つかう能力のおとろえを憂いて、戦後の国語改革とか教育への批判がけっこういっぱい。
しかし、最近の言葉の使いようはなっちゃいない、なんてえのは、いつの時代でも言われるんだろうね、このあとの時代はどうなっていくことやら。
国語改革については、
>第一に国語改革は、日本語の合理性と機能性をそこなつた。(p.215)
と厳しく糾弾してんだが、これは読み書きが容易になるとかってのはたいしたことぢゃなく、人は言葉によってものを考えるんだってことに理解がおよんでないとこが問題なんだと。
そこは明治維新以来、ずっとまちがってるとこで、
>そのとき、明治政府が気がつかなかったのは、言語はものを考えるための道具であるということです。単に命令して理解させる、そういうコミュニケーションのための道具としてしか考えなかった。(p.336)
と国民皆兵のために力を入れた教育のことを指摘している。
ついでに、戦後の国語改革については、追従しちゃった新聞についても、
>それなのに唯々諾々として文部省国語課に盲従したあたり、社会の木鐸たる権利をみづから放棄したものと言つてもよからう。(p.88)
とかって厳しい調子で、言葉を使うくせに自分たちで新しい書き方を考えようという努力をしなかった態度を批判してますが。
国語改革に関連して、仮名について、思いっきり勉強になったのは、新仮名で育った私なんかは誤解しがちなんだが、仮名って単なる発音記号ぢゃないってこと。
古代の万葉仮名は発音を文字に写すものだったかもしれないけど、藤原定家が仮名づかいに心を配るようになったあたりから、意味合いが違ってきたんだと。
>すなはち、この時期以降、仮名書きの表記には、綴字といふ局面と、発音記号といふ局面と、二つが生じたのだが、この綴字を確定したのが江戸期の国語学者たちであつた。(p.237)
っていうこと判れば、旧仮名のほうが、なんつーか合理的だって気がしてくる。
文字にして書くということは、話すこととは違ってくるわけで、文体にしても、
>口をついて出るおしやべりをそのまま書き写せば口語体になると、世間では漠然と考えてゐるらしいが、これはまつたく間違つてゐる。口語体とは口語の文体の意である。それは常に文体としての形と整ひを要求されるし、その形と整ひの規範は、実質的にも歴史的にも文語体にあるのだ。(p.37-38)
っていうように、ある程度文語体をマスターしなくちゃならないってのも、言われりゃそうだなって気になる。
それにしても、私としては、教育とかなんとかってよりも、日本語ってそもそも分析したり論理を展開したりって言語ぢゃなかったんではっていう、歴史というか伝統というかのあたりのほうが興味深かった。
>戦前の日本の文章は、概して言へば、ちようど江戸後期の『解体新書』のころ、大和絵や文人画の骨法をもつてしては人体解剖図を描けなかつたと同じやうに、具体的な事物を明細に描写し叙述する力を備へてゐなかつた。(p.167)
とか、
>概して言へば、戦前の日本では、勿体ぶつてゐて無内容であり、体裁だけを大事にして具体的な情報を提供しない、いはば祝詞のやうな美文が幅をきかせてゐた。その手のものを標準型とする文章観が改まつて、現代日本文が虚飾と儀式性を捨て、ものごとを具体的にテキパキと伝へる文章がかなり多くの人によつて書かれるやうになつたのは、昭和三十年代からであつた。(p.176)
とかって言われちゃうと、そーかー科学的なこと日本語で述べるなんてことは100年も歴史ないんだ、みたいに思ってしまい、そりゃあ議論の積み上げとかしねーよな誰も、って気になってしまう。
文法とか語彙とかってんぢゃなく、
>(略)もともと論理的に緻密に考えるということを、明治以後の日本人は重んじなかった。一番いけないのは、天皇とか国体とかそういう言葉を持ち出しててきて思考を停止させる。議論となると何か権威を持ち出して勝とうとする。論理で勝負しない。そういう態度が政治家にも評論家にもあったんですね。(p.344)
って、ものの考え方に問題があるんだな、日本人は。この先もたいして変わりそうにはないねえ、きっと。
どうでもいいけど、国語教育のなかで、子供に読書感想文を書かせるなっていうもっともな批判をしていて、
>読書感想文といふのは一種の書評である。そして書評がどんなにむづかしいかは、海千山千の文筆業者がさんざん苦労して、なかなかうまく書けないのを見てもわかる。(p.108)
って作家・評論家にそう言ってもらうと、全国の宿題に苦しむ子供たちが救われるねえ。
それに続く、
>一冊の本といふ膨大で複雑なものを短い文章で紹介し論評するのは、郵便切手の裏に町全体の地図を書くくらゐ大変なのである。そんな藝当を子供に強制することは、角兵衛獅子の親方だつてしなかつた。(同)
って例えは、めちゃくちゃウケた。
i 国語教科書批判
 1 子供に詩を作らせるな
 2 よい詩を読ませよう
 3 中学生に恋愛詩を
 4 文体を大事にしよう
 5 子供の文章はのせるな
 6 小学生にも文語文を
 7 中学で漢文の初歩を
 8 敬語は普遍的なもの
 9 文学づくのはよさう
 10 文部省にへつらふな
ii 日本語のために
 未来の日本語のために
 将来の日本語のために
iii 国語教科書を読む
 1 分ち書きはやめよう
 2 漢字配当表は廃止しよう
 3 完全な五十音図を教へよう
 4 読書感想文は書かせるな
 5 ローマ字よりも漢字を
 6 漢語は使ひ過ぎないやうに
 7 名文を読ませよう
 8 子供に詩を作らせるな
 9 古典を読ませよう
 10 話し上手、聞き上手を育てよう
 11 正しい語感を育てよう
iv 言葉と文字と精神と
v 大学入試問題を批判する
 慶応大学法学部は試験をやり直せ
 小林秀雄の文章は出題するな
附録
 歴史的仮名づかひの手引き
 和語と字音語の見分け方
 わたしの表記法について
 言葉は単なる道具ではない 大野晋
あとがきにかえて 日本人はなぜ日本語論が好きなのか
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ぼくはオンライン古本屋のおやじさん

2018-06-23 18:07:26 | 読んだ本
北尾トロ 2005年 ちくま文庫版
先月にリサイクル書店で買った文庫。
著者がネットで古本屋をやっているってのは、漠然と知ってたんだが(←実際にアクセスしたことがない)、こないだ古本蒐集の道中の本を読んだもんだから、順番前後したけど、これ読んでみることにした。
タイトルは、『ぼくは本屋のおやじさん』へのオマージュなんだろうねえ。
ネット古書店を開いたのは1999年10月のことだそうで、もとのこの単行本の出版は2000年9月、えらいねえ新しいこと始めて忙しいのに同時展開で本書いちゃうなんて。
なかみは、自らが店を立ち上げて運営していくなかでのホントにコマゴマしたことまで書かれてるので、同じ商売始めたいひとには具体的にとても参考になるんぢゃないかと思う。(あ、俺か?)
ところで、
>「本棚が本でいっぱい。これをどうするか」というところからオンライン古本屋に踏み切ったというのに(p.227)
始めてみたらあれこれ仕入れをして在庫が増えて、本の置き場がなくなって部屋中が大変なことになってしまった、というのは笑える。
なんでも手もちの700冊から始めたのに、開業10か月で1500冊をかかえる店になったんだと。
実益をかねた趣味とか副業とかってんぢゃなくて、完全に商売になってる。
もちろんそれまでのライター稼業も続けてるんだけど、開業3か月にして、
>ではどれが生活の中心なのかというと、古本屋なのだ。お金のことを無視してどれかひとつ選べといわれた、迷わず古本屋を選ぶだろう。(p.174)
って境地に達してるし、その翌月には、
>当初は、どうせ手持ちの本なのだから、できるだけ安く売って喜んでもらおうという意識が強かったが、もうそんな時期は過ぎた。やるからにはしっかりしたシステムを作り、きちんと利益を出して、仕入れと販売のサイクルのなかで本の価値(といっても、それはぼくが判断するのだが)に応じた値段をつけるべきである。(p.184-185)
と経営方針を確立するまでに至っている。
そうそう、毎月の売り上げと経費と利益も公表してたりして、ホントあとに続くひとたちにとっては、いいガイドなんぢゃないかと思う。(え、俺?)
でもなあ、毎日作業がたいへんそうだし、肩こりもひどいとか言われると、私にはできる体力あるかなーって心配になってしまう、最近、腰が痛いんだよね、なんにもしてないのに。
それにしても、お客さんとのトラブルが皆無みたいで、そんなにうまくいくもんなんだと、そこがいちばん感心した。
たぶんサイトのつくりがいいからなんだろう(見たことないけど)、だから理解者が集ってんぢゃないかと。
章立ては以下のとおり。第5章の日記が詳細にわたってていい。
第1章 オンライン古本屋ほど素敵な商売はない!?
第2章 オンライン古本屋の作り方
第3章 「杉並北尾堂」ただいま営業中
第4章 ぼくが出会った愉快な仲間たち
第5章 オンライン古本屋の眠れない日々
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五人目のブルネット

2018-06-17 18:02:18 | 読んだ本
E・S・ガードナー/峯岸久訳 昭和53年 ハヤカワ・ミステリ文庫版
こないだ、また出張の移動中のひまつぶしに読み返した、ペリイ・メイスンシリーズ、1946年の作品。
原題は「THE CASE OF THE BORROWED BRUNETTE」、五人目ぢゃなくて、借りられてきたっていうんだけど、読み始めるとすぐ意味わかる。
メイスンと秘書のデラが車で通りを走ってると、角ごとに同じような装いをしたブルネットの女性が何人もいるのに気づく。
好奇心の強いメイスンのことだから、車を降りてそのなかのひとりに話しかけてみると、新聞の求人広告に応募したんだという。
その広告には、資格としてブルネットで、年齢は23から25、その他身長、体重、スリーサイズまできっちり決められてて、最低5日から最長6カ月までの1日50ドルの報酬の仕事ってあって、応募したら、時間と場所と着るものを指定して、ここで立ってろということになったと。
うーん、ホームズの赤毛連盟ですね、ミステリだからあたりまえだけど、あやしさいっぱい。
で、メイスンの話しかけたコーラって娘は落選しちゃったんだけど、彼女の親友のエヴァって女性が見事選ばれて仕事にありつくことになる。
するとエヴァの付添いとして一緒に仕事とやらに参加したアデルおばさんというひとが、メイスンのとこにやってきて、これは犯罪がらみに決まってるという。
なんでも、アパートの一室をあてがわれて、そこでヘレンって名前で生活して、友だちとかと連絡とったりしちゃいけないっていうのが、日当の払われる仕事のなかみだけど、それはヘレンって女がすでに殺されてて、その身代わりを演じさせられてんだと、自分の推理を披露する。
アデルおばさんは、コーラに相談されたんだけど、弁護士なんかに金は払わないよって前置きして、一方的に言ってきただけだけど、そのあとコーラからエヴァが法に触れていないか心配だと相談されて、メイスンは調査を引き受ける。
あやしいけど、行動の方針をこうすれば犯罪に関わることはないってメイスンがアドバイスする矢先に、エヴァとアデルおばさんが死体を見っけちゃう。
おもしろいのは、メイスンが「いままで死体が発見されたとき、あんまり現場へ顔を出しすぎたよ」って自らのことを認めて、すぐ現場に行かないで警察に処置させたとこ。
とはいうものの、探偵のドレイクに指示して、事件について徹底的に調べさせるんだけど、ちゃんと弁護料をもらっての依頼がないのに首を突っ込みすぎなとこを、ドレイクからは「いったいこの事件じゃ誰が依頼人なんだい」と訊かれちゃう。
メイスンは「はっきりしちゃいないね」って認めつつも、「だが本当のところは、一部ではぼく自身が依頼人なんだと思うね。何が起こっているのか知りたいという素朴な好奇心があるのさ」と自身の謎解き願望を堂々と明かすんだが。
かくして、凶器が出てきたり、被害者から取ったと思われるカネが出てきたりで、エヴァとアデルおばさんが逮捕されちゃう。
このアデルおばさんというひとが、もと看護婦らしいんだけど、やっかいな人物で、物語の最初でコーラが、自己流の生き方で世を渡ってって、何かあると上手にウソをつきまくって切り抜けちゃうと評している。
だから自分でも、メイスンが弁護士として面会に行ったのに、「事実なんてものは何の意味もありゃしませんよ。多くの場合そうですが、本当の話というのはあまり人を納得させるようなものじゃありません。でも、わたしは話をこしらえ上げるのはなかなかうまいんですよ」なんて、とんでもないことを言う。
すでに供述書をとられちゃってるのに、今からでも話を変えるなんて言ってるようなひとを、弁護しきれるものかねと心配になるんだが、いつもどおり圧倒的不利な状況にみえるなかで、裁判は始まる。
この話では、法廷での相手はいつものバーガー検事とかぢゃなくて、ハリイ・ガリングという検事補。
ガリングについては、メイスンも、地方検事局の方針を決定するような法律に詳しい鋭い頭脳だと認めるんだが、こと裁判になれば「やつの頭はあまりにも数学的で世の中のことから離れすぎているし、また人間性というものに対する理解も充分じゃなんだ」と評価は別だという。
かくして、両者とも異議申し立てしすぎって裁判長から注意されるような応酬で尋問が進み、検察側は容疑者を隠そうとしたかどでメイスンまでつかまえてやろうという意気込みで攻撃してくるんだが、もちろん最後はメイスンが勝つ。
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シンデレラの罠

2018-06-16 18:01:10 | 読んだ本
セバスチアン・ジャプリゾ/望月芳郎訳 1964年 創元推理文庫版
『新車のなかの女』を買った後すぐぐらいか、ことし3月下旬に古本のワゴンセールで見つけて、ぜひ読んでみようと買った、1972年17版の古い文庫。
穂村弘の『きっとあの人は眠っているんだよ』には新訳の文庫が出てるって紹介されたんだけど、まあ古いのを読んだほうが情緒があるような気がする、あくまで気がするだけだけど。
で、穂村さんも書いてたんだけど、この文庫の巻末の“ノート”にも、1962年にこの小説がフランスで出版されたときの宣伝文が紹介されてる。
>私がこれから物語る事件は巧妙にしくまれた殺人事件です
>私はその事件で探偵です
>また証人です
>また被害者です
>そのうえ犯人なのです
>私は四人全部なのです
>いったい私は何者でしょう
ということなんだが、登場人物すくないし、最初に被害者出てくるから、被害者で犯人っていったら、そーゆーことだろうかって、なんとなく察しはつくんだが、読み終わっても何かスッキリわかった気にはならない。
そうそう、『新車のなかの女』でも、いきなりヒロインが襲われて負傷するとこから始まるんだが、本書も全身に重傷を負って、口もきけなければ記憶も定かぢゃないヒロインの描写から物語は動き出す。
全身大やけどで包帯でぐるぐる巻きにされてる女性が、徐々に心身を回復していく過程で、なにがあったか探ってくことになるんだが。
後日に付添いをしてくれる女性から、南仏のどっかのヴィラで午前二時に倒れてるのを見つけられて、頭から足まで真っ黒で手や口には黒焦げの衣服の断片がつまっていて、髪は全部燃えつくし、頭のてっぺんには手のひらぐらいの傷があって、みんなに死んだもんだとばっかり思われるような状態だったと聞かされる。
同じ火事で死んでしまったのは、年もだいたい同じくらい二十歳の女の子、ふたりはとても仲が良かったというが、生き残ったほうは記憶していない。
ケガが治ってきて、自分であちこち歩き回って、いろんな人に会ううちに、なんか妙なことばかりだと気づいていく、手紙を受け取ったんだけど、差出人に会ってみたら出してないって言われるとか。
自分はいったい誰なのか、って迷いだしてしまうあたりは、『新車のなかの女』にも似ているねえ。
さてさて、そんなこんなしているうちに、金持ちの伯母さんが亡くなって、遺産相続の話が出てくるんだが、事件の晩にいったい何があったのか、だんだんわかってくると、とんでもないことに気づかされるわけで。
どうでもいいけど、さっきの宣伝文句同様、本文の各章の見出しも謎めいている、順に以下のとおり。
・私は殺してしまうでしょう
・私は殺しました
・私は殺したかったのです
・私は殺すでしょう
・私は殺したのです
・私は殺します
・私は殺してしまったのです
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