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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

ニホン語日記2

2023-12-28 19:05:56 | 読んだ本

井上ひさし 2000年 文春文庫版
これは9月の古本まつりで見つけたもの、前にあげた『ニホン語日記』のシリーズ第二集。
以前だったら続けてすぐ読んだんだろうけどね、なんか最近そういうことしないようになってしまった。
単行本は1996年で、初出は「週刊文春」の1992年から1995年にかけての隔週連載だという。
内容はただ日本語で書いた日記ってんぢゃなく(あたりまえだ)、日本語の観察日記である、著者はおもしろいとおもった言葉を探して集めるのがけっこう好きだし。
なんせ冒頭の「すみません」の章では、「筆者には接客手引書蒐集癖があり」なんて告白してて、どの企業でも秘密にしている手引集をスパイを通して入手してるなんていう、それで「すみません」はどこの接客業でも禁句だとか分析してんだけど。
前巻でも政党パンフレットを集めてたエピソードがあったけど、本書を読んでて、なんとなく印象に残ったのは、けっこう政治家に文句言ってんなってことだった。
よくある近ごろの若い人の言葉が乱れてるって説を筆者は否定するんだけど、そっから、
>(略)この「仲間内ではよく喋るけれども、場面が公に変わると、ろくに喋れなくなる」というのが日本人の病気だということを、近ごろとくに痛感している(略) そのもっともいい例が、金丸センセイの上申書提出にまつわる一連の小事件群だろう。宮沢センセイは金丸センセイに、「副総裁はやめないでほしい」と言ってやり、誕生日に高級洋酒を贈った。仲間内ではけっこうよく喋っているのだ。ところが上申書提出をどう思うかと記者団に聞かれると、「私からは何も言うことはありません」と無口になる。しかもわたしたちはこういう語法に注文をつけることをしない。(略)
>金丸センセイの語法となるとさらに難解である。(略)「この体験をふまえて政界浄化と政治資金の明朗化に努めるよう微力を尽くしたい」となるとますます解らなくなる。泥棒が「こんどはドジをふんだが、次からはもっとうまいやり方を考えますぜ」と凄んでいるような印象なのに、永田町地方では、これが悔い改めることらしい。(p.45-46)
というように、日本語乱れてるのはどこの誰よ、公の場でちゃんと喋れよと政治家に厳しいとこ見せる。
「どうも」「すみません」「やっぱり」が戦後の三大「便利語」だとかいう話題を出したあとでも、
>(略)政治家のみなさんも便利語の達人だ。なかでも自民党の諸先生方のおっしゃる「政治改革」「政治にはカネがかかる」「カネのかからない政治は小選挙区制から」は、これまた自民三大便利語といってよかろう。
>政治とは、端的に言えば、「国民から集めた税金や国有財産をどう使うか」ということである。(略)言ってみれば、泣きの涙で血の出るような思いで税金を払っている人びとが、こんなめちゃくちゃをされては税金や国有財産の使い方を任せることができない。(略)もはや便利語の後ろに隠れて、ごそごそやっている秋(とき)ではあるまい。彼らの便利語は怠け心から発しているというよりは、他人様から預かったものを大事に扱おうとしない傲慢さから出ているように思われる。(p.63-64)
というように矛先を政治家に向けたりしてる、それにしても日本の政治家って30年経ってもなんも変わってないのねとか思っちゃうけど。
べつのとこで言葉は事実を覆い隠すために間接的な言い方をすることもある、経済活動の収縮期を19世紀には「恐慌」って言ってたけど、この語が人々に恐怖感を与えるから「不況」と言い換えられた、といった話題から、
>さて、そこで、山梨県一帯で猛烈に流行したという「コーヒー代」「まんじゅう」(略)ということばは何だったのだろう。説明は要らないだろうけれど、念のために言い添えておくと、「コーヒー代」「まんじゅう」は、県内建設業者から天下第一党の副総裁に差し出される上納金のことであり(略)
>これらをもちろん隠語と解することもできよう。(略)しかし、隠語などという在りきたりの言い方じゃすまないぞという気もしきりにするのだ。身を切られるような辛い思いをして払った税金が犯罪者どものコーヒー代やまんじゅう代に化けたのでは、こちらが浮かばれないではないか。そこで「かくしことば」という新語を発明したわけである。いずれにもせよ、言語は常に使う者の態度を反映する。税金をコーヒー代やまんじゅう代としか考えられない人間が国政の中枢にたしかにいたのである(いまもいるだろう)。この事実を、一切のことばの煙幕を吹き払って、しっかりと凝視する必要がありそうだ。(p.117-118)
と当代の政治を追及する展開になる。
おもしろいのは、そういうこと書いてるのが多いせいなのかどうか、政界進出をうわさされたことがあったらしい、1993年9月に駅の新聞売場で自分の名前が見出しになっているのに気づいて読んでみたところ、
>でかでかと書き立てていたのは「夕刊フジ」、見出しは「井上ひさし新党構想」、記事の内容は、ある市民グループが政党を結成し、その党首にわたしを担ぎ出すことにしたというもの。しばらくはただ呆然。その市民グループから連絡をもらったこともないし、フジの記者と会ったこともない。(略)この嘘八百の記事はなんだ。腹が立って、こまつ座の顧問弁護士の古川景一さんに「訴訟したい」と訴えた。古川さんは記事を一読して破顔。
>「『井上ひさしが新党構想』というふうに、『が』でも入っていれば裁判に持ち込めるんですがね。つまり井上が主語で構想が動詞にでもなっていれば、どういう取材をして、井上が主体的に動いていると書いたのかと、ぐいぐい詰め寄ることができますが、こう漫然と活字が並んでいるだけでは裁判はできません。まあ、笑ってすますことですね」
>そこでわたしは泣く泣く笑ってすませることにしたが、これまた国語学的怪事件であった。(p.147-148)
ということになったという、これは勉強になるなあ、漫然と活字を並べるだけだったら嘘八百を一面にして新聞売ってもいいってことか、ふーむ。
相手は特定の政治家だけぢゃなく、社会全体ってものに対してってこともあって、筒井康隆さんの断筆宣言のあとには、
>さて、筒井康隆さんの断筆宣言は、この見せかけだけは事もない社会に一つ大きな風穴を開けた。筒井さんの断筆の意味をわたしなりに受け止めればこうなるだろうか。
>「ほんとうにこの社会には何事もないのか。ことばから化粧を落として素顔にさせて、一度、じっくりと考えてみてはどうか」(p.186)
として、十一条からなる「差別語のための私家版憲法」を作成して、拡大特別版企画として公表して問うていたりする。
まあ、そんな社会派的なことばっか言ってるわけでもなく、本来の文法なんかの話もあいかわらずおもしろい。
本書では、オーストラリアの大学に行ってたときに日本語学科の学生から「日本語の基本文型を教えてくれ」といわれて「たぶん基本文型は四つである」と答えたって話なんかは興味深い。
>まず、日本語は述語中心に文を作るのだ、主語がなくても日本語は成り立つのだと強調しておいて、基本文型らしきものを並べた。
>一、ナニがドウする(花が咲く)式の動詞述語文
>二、ナニはドンナだ(花は美しい)式の形容詞(形容動詞)述語文
>三、ナニはナニ(花は植物)式の名詞述語文
>四、ナニはナニである(花は咲くものである)式の存在詞「ある」を述語とする存在詞述語文(p.107-108)
っていうんだけど、ふだんそんなこと全く考えないで日本語を使ってる身としては、そういう考え方あるんだと刺激を受けた。
ほかには、話し言葉と書き言葉はちがうもんだってことは前巻でもふれられてたんだけど、ふだんの会話でのものの言い方において、だんだんと西日本風な言い方が、東日本というか標準語を乗っ取りつつあるとして、
>(略)では、なぜ、こんな現象が起こり、そしていまも起こり続けているのだろうか。
>おそらく標準語が生活語ではないからだろうと思われる。たとえばNHKや民間放送のアナウンサーたちのことば、日本人は一人として普段の生活であんなふうには話していない。標準語には「生活」が込められていないから、日常生活では使えないのである。だれもが標準語とどこかの地域語が交じったことばを使っている。もっと言えば、標準語には「生活」というものが希薄で、その分、中身に鬆(す)があり、空洞がある。そこに西風が吹きつけてくるのではないか。(p.69-70)
みたいに喝破してるとこなんかもおもしろいと思った。
各章の見出しは以下のとおり。
すみません
読み書き並行論
文庫で始まり文庫で終わった日
日本海をどう呼ぶか
へんちき認識論
新方言時代
「ら抜き」と「さ入れ」
「お言葉」考
便利語
西風東漸
韻さぐり
カ゜キ゜ク゜ケ゜コ゜
早口の世界記録
漱石の「浪漫主義」
花便り
プロ野球選手座右の銘
ここに一枚の座布団がある
かくしことば
「新」という助字
社長の魅力
射精産業界の新語
十二年前の怪事件(上)
十二年前の怪事件(下)
作況指数
親愛なる移民の子孫の皆さん
映像報道言語
女性から見てのことば
ひどい年
悪魔の贈物
差別語のための私家版憲法
ヴィオラとビオラ
「……生活」
ユーモラスな金言集
政治家のことば
無用の用
松本市立清水小学校の四十人
大の字の読み方
電話の前の掲示板
今どきの高校生は……
ポケベル文法
業者の命名
小股の切れ上がった女
日米合併論
梅雨のあとさき
ハローワークって何だ?
「……的」の問題
子どもと漢字
野茂の噂
ら抜きは手抜きか
著作物とはどんな商品か

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見わたせば柳さくら

2023-12-21 19:21:36 | 丸谷才一

丸谷才一・山崎正和 一九九二年 中公文庫版
これはたしか去年秋の古本まつりで買ったんぢゃなかったかと、最近やっと読んだ。
私にとってはおなじみの二人による対談集、全八章のうち「あけぼのすぎの歌会始」と「芸能としての相撲」は、既に『半日の客 一夜の友』で読んだことあるものだった。
初出は昭和61~62年の「中央公論文芸特集」季刊の八回で、単行本は昭和63年、丸谷さんによる「あとがき」までたどりついてわかったんだけど、連載中のタイトルは「日本人の表現」ってことで、ちゃんとテーマがあっての八回つづきの企画だったそうで。
なるほどね、歌会始とか相撲とか祭とか絵画とか忠臣蔵とか、題材があったのはそういうことだったのかと。
ちなみにタイトルは、素性(そせい)の「見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりけり」(p.68)という歌からとられているらしい、奈良朝文学では桜は語られていないけど、平安朝文学になって急に出てくるようになったといわれてるけど、そんな機械的なもんでもないだろって話のなかで出てくる。
桜については、江戸だって昔はどっかに一本一本の名木があるって状態だったのを、山全体が桜みたいなのにしたのは人為的なもんだって話があって、
>丸谷 (略)飛鳥山に桜を植えたのは吉宗です。それから御殿山に植えたのもそうですし、小金井の玉川上水には一万余植えたというんですよ。ですから、ここのところで江戸の桜というものが極端に増えたんですね。吉宗の文治政策の一環であったというわれているんですけれども、これはすごく頭のいい作戦ですねえ。(略)
>山崎 この場合は、政治的、意識的に文化の中にとりいれた狂気なんですね。将軍たちがどのくらい人類学的な知識があったか疑わしいですけれども、おそらく感覚的に悟っていて、ときどき小出しに狂わせないと、こんな都市は支配できないと思ったんでしょうね。(p87-88)
なんて語られている、勉強になるなあ。
さらに桜の咲き方ってのは、長いこと待たせておいて、一気に咲いたと思ったらもう散り始めてるんだが、これを「序・破・急」の説明にからめて、
>山崎 (略)われわれは「序・破・急」というと、どうも三つの部分から構成された三拍のリズムであるというふうに読みがちなんです。(略)それに対して「起・承・転・結」というのは四拍のリズムだと思ってたんですが、どうもそうではないんですね。序・破・急というのは二拍なんですね。長い「序」があって、「破」と「急」はひとつである。「破」の中に「急」があって、「破」というのは「急」に向ってなだれこんでいく曲り角なんですね。(p.93-94)
みたいに能の奥義の解説をしてくれる、知らんかった。
桜の木を植えたのは徳川将軍だっていう一方で、祭に関する章のなかで丸谷さんがいうには、京都の祭には今でも山車があるけど東京にはないことについて、
>丸谷 (略)その理由としては、明治の藩閥政府が東京の祭を圧迫したことが挙げられるらしい。神田の明神祭、山王祭は徳川家寄りのお祭で、三社祭もたしか家康と関係がある。そのせいで、明治政府は東京の祭を圧迫したらしいんですね。
> 圧迫したくなる気持もわかる。祭にはいろいろな要素があって、たとえばカーニヴァルの場合でも、(略)階級闘争、政治的意見の表明という要素があるわけです。それらがいつも出るわけではありませんが、時に応じていろいろな面が出てくる。政治的不満の発揮なんて面も時には出てくる。(p.190)
なんて教えてくれる、為政者からみると恐れるべきものだったのか、祭が。
このとき丸谷さんたちが見に行ったのが富山の八尾のお祭なんだけど、見てて幸福感があったとして、丸谷さんは、
>丸谷 (略)ここで突如として文学の話になりますが、ふつう文学は人間についての研究だといわれている。しかし、人間についての研究というのは、文学が最終的な目的にしている一歩手前の手続なのではないのか、と思ったわけです。別の言い方をしますと、人間についての真理を解明することが目的だとすれば、それは科学と違わない。ところが、それは文学の最終目的ではないので、人間についての嘘をつきとおしてもかまわないから、人間が明日生きるための活力を与える、あるいは不幸な条件をはらう、そういうことがむしろ文学の本当の目的なのではないのか、という気がします。ただし、近代になって人間がみんな賢くなってきたせいで、嘘を積み重ねて元気をつけたり、生きることを励ましたりするのは難しいから、人間についての真実を極めるという、そういう方便を重ねて文学作品を成立させているだけなんです。ところが、近代文学はその手段としての真実の探求を目的だと思い込みすぎたのではないか。(p.196)
っていう文学論を展開するんだけど、傾聴に値するよね、うん。
ほかにも、丸谷さんの日本の芸術についての意見はおもしろいものがある。
絵画に関する話題のところでは、近代日本でもてはやされるのは上手い下手とかよりも個性だって話から、
>丸谷 (略)近代日本の芸術には、スキャンダルの精神が非常に大きいんですよ。作品それ自体でスキャンダルを起そうとさんざん狙って、その能力が枯渇すると、今度は自殺するわけです。死に方というスキャンダルによって生き延びようとする。それが近代日本の芸術史だったという気がしますね。(p.222)
とかって、すごいことを言ってみたり。
日本画ってのは松竹梅を描いたり仙人を描いたり、なんかめでたい感じを出して呪術的な意味合いのものだったんだけど、
>ところが洋画が入ってきたときに、洋画は突然、そういう呪術性はまったくくだらないものである、絵というのは芸術なんだから、純粋な芸術性が大事だ、というわけで、たとえば林檎があるとか、かぼちゃがあるとか(笑)、百姓家の裏庭なんかを描いて、「これが芸術だ」と示した。芸術性がわからないやつはバカだといってそっくりかえった。
>その典型的な態度は松ではなくて白樺を描いた(笑)。白樺というのは雑木でしょう。その「松ではなく白樺」という態度に、一群の若い文学者たちが興奮して、雑誌の題にするんです(笑)。そのくらい、感受性にとっての大事件だったと思うんですよ。文化史的大事件なんです、あれは。(p.243)
って洋画が日本文学界に与えた影響を解説してくれたり、たぶん丸谷さんは白樺派が好きではないと思うんだけど。
丸谷さんの文学的趣味については、映画について語ってるとこで、ちょろっと、
>丸谷 かわいそうでかわいそうでたまらない話というのを喜ぶ趣味が、むかしからわからなくてねえ。少女小説というのは、だいたいかわいそうなものでしたね。私も読んだことは読んだけれども(笑)、女の子というものは、なぜこういう話が好きなのか、不可解だった。僕の女性研究は、あれから始まったのかもしれない。(p.291)
なんてことも言ってたりするけど。
ちなみにこの映像に関する章では映画だけぢゃなくてテレビドラマもとりあげてて、「北の国から」の第三作を見て、
>丸谷 (略)でも、これだけの才能を持っている脚本家やスタッフ(略)が、これだけのエネルギーを使ってこの程度のものを作るのは、ちょっともったいないという感じがします。というのは、これは二時間半でしょう。あのエピソードで二時間半もつはずはない。一時間の話です。
>山崎 これは物語の時間が遅いだけでなく、カメラワークの時間が遅い、演技そのもののテンポが遅いんですね。したがって、試みにビデオの倍速を使って、実際のスピードの倍にあげてみたら、ごく自然に見えた。(笑)(p.271)
なんてやりとりがあるんだけど、実は監督や役者を批判してんぢゃなくて、丸谷さんが毎回二時間枠ぢゃなくて短いときも長いときもあるシリーズにすりゃいいのにというのに対して、
>山崎 それは、おそらくテレビの編成にまつわる宿命的な問題でしょうね。日本の場合、具体的にいえば、民放で二時間の作品を制作することになれば、まず作家が話を思いつく前に、スポンサーを見つけておかなければならない。そうすると、広告が何回出るか、したがって製作費が幾ら出るか、すべて決ってしまうんですね。(p.272)
みたいな指摘がされてるのが興味深かったりした。
べつの章では、いま何かと話題の宝塚歌劇も見に行ったりして、創業者の小林一三を天才だって二人でほめるんだけど、
>山崎 (略)そのうえ、頭がいいと思うのは、役者を女性ばかりにしたということです。宝塚が多くの人の支持を受けている大きな理由はたぶん、あんなに安い値段で、日本でレヴューがみられるということですね。(略)あれを男優を入れてプロでやったら、昭和初年でも、おそらく費用は数十倍になるでしょう。ところが、お嫁入り前の若い女性、どうせお稽古事をしてすごす世代、いわば労働力としてはタダに近い人たちを、しかも学校の生徒という名目で集めれば……。天才ですね、こういうことを考える人は。(p.316)
とか言ってるとこだけ見ちゃったりしたら、こらこらそういうのが過密な公演スケジュールになっちゃうんぢゃないのとか思ってしまうんだが、そのちょっと後では菊池寛と並べて比較して国民文化ってものを意識した人だとして、
>山崎 日本社会全体に及ぼした影響は、宝塚と文藝春秋とでは、どちらが大きいかわかりませんがね。
>丸谷 今度、いろいろ読んでみて、小林一三のほうがやはり柄がひとつ大きかったのではないかなあという感じはしました。柳田泉が小林一三の小説を読んで、この調子でいけば、尾崎紅葉くらいにはいったろうといってますが、それは間違いないでしょう。尾崎紅葉になるだけの才能をぜんぶ実業に向けた。文化ではなくて文明に向けたわけですね。ずいぶん柄の大きい、優秀な人だったと思います。(p.322)
ってぐあいに評してる、やっぱ天才なんだと。
さてさて、丸谷さんの日本の芸術論、文学論はあちこちでいろんな表現されてるけど、本書のなかで、
>丸谷 山崎さんのいったことを僕の言葉でいえば、「人間は多層的な存在である」ということを日本人は昔から考えていたんです。そのことの表現としてあるのが、日本文学の多義性なんですね。日本文学は『新古今和歌集』において頂点に達した。それは王朝文学が何百年もかかって準備したものが、言葉の多義性を非常に極端に使うことによって、人間の多義性を最高に表現したと思うんですよ。(p.375)
ってとこがあって、これは、おお、そーゆーものなのかー、と感心した。
それと、こういうのを引き出しちゃう山崎さんとの対談ってのは、やっぱ随筆や評論を読んでるだけよりおもしろいかもって思った。
コンテンツは以下のとおり。

 あけぼのすぎの歌会始
 桜は死と再生の樹

 芸能としての相撲
 胡弓を奏く祭

 旧宮邸の美術館で
 映像的世界 1987

 企業がつくる町
 雪の日の忠臣蔵

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横浜スタジアムに入ってみた

2023-12-14 18:57:48 | 横浜散策

横浜スタジアムを通りがかると、グラウンドのなかに入ってもいいみたいなんで、
(私の場合、正確にいうと「無料で入ってもいいみたいなんで」?w)
せっかくだから入ってみた、天気もよかったし。



なんか子どもたちが遊べるようなもの置いてあって、イベントらしい。(ボールパークファンタジア?)

ここで写真撮んなさいよ的なモノがわざわざ置いてあったりもするが。
本日短い時間のなかでグルっと見たなかでは、人気あったのは恐竜みたい。


なんで恐竜なのかはよくわからんが。
(ちなみに、これらは動きます、鳴いてたみたいだし。)
ところで、おどろいたのは、場内のベビーカーの駐車場(?)の規模ですよ。
こうまで準備しないとイベントって開けないのかなとつくづく感心しちゃった。

私ゃなにかして遊ぼうと入ったわけぢゃないので(いいおとなだし)、すぐ出てきちゃったけど。
外のすぐ近くにはいつものイチョウ並木があって。(なんか今年は黄色がキレイな気がすんだよね。)
やっぱ自然のほうがいいなって気がする。

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風の文庫談義

2023-12-07 18:22:13 | 読んだ本

百目鬼恭三郎 平成三年 文藝春秋
これは今年9月の古本まつりで見つけて買ったもの。
探してたわけぢゃないし、そもそもこういう本があるのも知らなかったんだけど、著者名みた瞬間に、こりゃ『風の書評』とおなじ系列だな、おもしろいにちがいないって思って手に取った。
帯に「急逝惜しまれる、峻烈並びない書評家“風の恭三郎”。」ってあるんだけど、著者は平成三(1991)年三月に亡くなっていて、本書は同年五月の発行なんで、そうなっているし、巻末には丸谷才一氏の「著者を惜しむ」って文章がある。
なかみはタイトルのとおり、文庫本を採りあげた書評、第一部の初出は1982年から1985年にかけて「週刊文春」に不定期連載されたもの、第二部は文庫本発行にあたって著者が書いた解説。
文学賞を受賞した作品をわざととりあげてけなしたりしてる『風の書評』とちがって、基本的におすすめをする文庫案内なので、わりとおとなしめな感じはするんだけど、もちろん一筋縄でいかないとこがあって、それがいい。
たとえば、
>(略)山の名著といわれる本の過半は、文庫本で読むことができるようだ。
>しかし、これらの名著も、読んでみると案外つまらない場合が多い。(略)
>(略)私たちにはつまらなくても、登山家にとって、感激をよびおこす源泉となるのであれば、名著は名著なのである。
>むろん、山の名著の中には、私たちが読んでも面白い本もある。浦松佐美太郎『たった一人の山』もその一冊であるようだ。(p.40-41)
みたいな紹介のしかた、自分がすすめる本の話題を始める前に、「いわゆる名著」はくだらねえよ、って言うのは、おもしろい芸だと思う。
個々の本のなにがいいとかいうまえに、だいたい日本の文学界はおかしいんだよ、ってスタンスでビシッと厳しく指摘してくれるとこがとても勉強になる。
>(略)という本格的な風俗小説仕立てが、このスパイ小説の特徴であるといっていいだろう。この特徴は、深刻ぶる以外に能のない日本の小説に慣れた読者には、味わいにくいかもしれないが、これが小説らしい小説というものなのだ。(p.89「ディミトリオスの棺」)
とか、
>前にもいった通り、日本の文学は、近代以降地方出身の青年によって書かれるようになったため、衣食住についての描写は貧困をきわめている。その中にあって、立原のような存在は貴重といわなければなるまい。目や口腹を楽しませることは、本来、文学の重要な機能のひとつである。(p.208「女の部屋」)
とか、
>これを読むと、星が文学でいちばん重要視している要素は、意外性と物語性の二つであることが、実によくわかる。そして、この二つの要素が日本の文学においてはもっとも稀薄であることは、いうまでもあるまい。星の作品が日本の文壇で評価されず、これまで賞らしい文学賞をもらっていないのは、このように文学の性質が異なっているせいであるにちがいない。(p.221「宇宙のあいさつ」)
とか、って調子で、日本の自然主義リアリズムはつまらない、深刻ぶって暗くてみじめな告白をすることだけが文学だと思ってんなら大間違いだ、ってことをあらためて教えてくれてる。
そんななかで、
>日本の現代小説を一冊だけとりあげるとなると、やはり福永武彦『忘却の河』であろうか。むろん、この選択には異議も多かろう。(略)
>しかし、私は自己の鑑識眼を信じる限り、『忘却の河』は『死の島』よりはるかにすぐれているし、現代日本の文学の中で最上の作品であると断定せざるを得ないのである。(p.157)
と挙げられている『忘却の河』はどんな小説なんだろうって、気になってしょうがなくなってしまった。

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