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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

サピエンス全史

2020-04-26 18:48:13 | 読んだ本

ユヴァル・ノア・ハラリ/柴田裕之訳 2016年 河北書房新社 上・下巻
サブタイトルは「文明の構造と人類の幸福」。原題は「SAPIENS:A Brief History of Humankind」2011年。
たまたま、著者が昨日のテレビ番組でインタビューにこたえてたのを見たんだけど。
現在のパンデミックに関して、緊急事態とか非常事態だからって政府の監視システムみたいなものを導入すると、危機が去ったからって元に戻ることはないとか、警察組織に情報を渡すんぢゃなく別組織を立ち上げるべきとか、具体的な提言のできる歴史学者ってのはえらいなと思った。
歴史を学ぶ意味は現在の問題に役立てて良い未来をつくるためだからねえ、それできないと、この国には過去はあるけど歴史が無い、とか言われちゃう。
この本を読んでみようと思ったのは、豊島名人が専門誌の取材に、この本が好きだと答えてたからで。
ほかにはまったく予備知識なしで、上下2巻のボリュームってのもビビらず、勢いで2月上旬には古本を手に入れたんだが、読み終わったのは最近。
知らなかった、上巻は2017年11月で37刷、下巻は2017年6月で25刷、売れてるんだねえ。
遅れてしまった(元々あんまりベストセラーとかに興味ない)けど、売れてると古本が手に入りやすくてよいという側面がある。
なかみはタイトルのとおり人類の歴史なんだけど、冒頭に「歴史年表」とあって、最初が「一三五億年前 物質とエネルギーが現れる」ときて、そこからですかと思わされる。
ヒトが現れるのは250万年前くらいからなんだけど、重要なイベントは、「7万年前 認知革命が起こる」「1万2000年前 農業革命が起こる」「500年前 科学革命が起こる」「200年前 産業革命が起こる」という順。
タイトルにもなってるサピエンスについて、あらためて言われて気づいたんだけど、現生人類はホモ・サピエンスしかいない、ほかの人類は1万3千年前までに絶滅したってのは、けっこう意外な事実、同じ属のなかにほかの種がいない動物とは。
動物としてのサピエンスの特徴ってのはこれまでもいろいろ読んだりしたつもりだったけど(私のベースは『EV Café』と河合先生のサル学)、動物の食物連鎖のなかのポジションが急に上昇しすぎたんで生態系が対応できなかった、って視点は初めてな気がする。
>私たちはつい最近までサバンナの負け組の一員だったため、自分の位置についての恐れと不安でいっぱいで、そのためなおさら残忍で危険な存在となっている。(上巻p.24)
って、ヒトの性格の根底にあるものをよく言い表してると思う。
やがて言語が発達してくんだけど、パーソナルな情報交換で成り立つ集団ってのは150人が限度だっていう定説も紹介されてて、それより大きな組織を維持するには、架空のものについて思考し伝達して共有する言語が必要になる。
それが神話とか宗教とか、ヒト独特のものなんだけど、ただ祖先がどうとか死者の霊がどうとかって話だけぢゃなく、資本主義とかもそういう神話の延長にあって、想像上の秩序なんだという。
>人々が、ごく個人的な欲望と思っているものさえ、たいていは想像上の秩序によってプログラムされている。(略)
>ロマン主義は、人間としての自分の潜在能力を最大限発揮するには、できるかぎり多くの異なる経験をしなくてはならない、と私たちに命じる。(上巻p.149)
という調子なので。
言語と思考の次に、具体的に発展するのは農業なんだけど、農業やるようになったんでヒトは未来のこと考えることになったと。
狩猟採集で生きてるときは腹減ったら獲物探して、食ったらしばらく寝てればいいかもしれないけど、農業はいま作り始めて収穫するのはずっと先って展開になるから。
>農耕民は未来を念頭に置き、未来のために働く必要があった。(略)
>したがって、農耕が始まったまさにそのときから、未来に対する不安は、人間の心という舞台の常連となった。(上巻p.131)
っていうんだけど、ここでまた不安という心理が取りざたされちゃうのが人類の哀しいとこで。
そういうストレスかかえて集まることから、社会つくったりするだけならいいけど、隣と戦争始めちゃったりすることになるんだろう。
で、時代はぐっと下がって近代になると科学が発展するんだけど、
>科学革命以前は、人類の文化のほとんどは進歩というものを信じていなかった。人々は、黄金時代は過去にあり、世界は仮に衰退していないまでも停滞していると考えていた。(下巻p.76)
ってところから、パラダイムシフトが起きて、まだ知らないでいたことを科学の力で発見することができれば、ヒトは新しい力を獲得することができて、未来は今より進歩するんぢゃないかって価値観っつーか神話がイケイケになって、ヒトはいっそういろんなことをやりだす。
そのうちに主にヨーロッパでは、新しい場所へ行って新しいもの見つけるぞって科学と、新たな土地とか資源とか富を獲得して広げようって帝国の、二つの主義がタッグ組んで世界中に競争するみたいに出かけてった。
その次の段階では、王様に支援を仰ぐよりも株式会社つくって資金調達したほうが便利だってことになって、資本主義がそれまでの富裕層限定のところを離れて大きく発展してく、市場が優勢になって、つられて国家の形態も変わってく。
んー、なんか科学革命から、市場とか国家とかがこうなったって歴史的必然みたいに説明されると納得しちゃうな。
で、なんかそういうデカい改革が起きると、やっぱヒト個人のところへ影響が返ってくるのは、ずーっと変わらないわけで。
>そのうち国家や市場は、強大化する自らの力を使って家族やコミュニティの絆を弱めた。国家は警察官を派遣して、家族による復讐を禁止し、それに代えて裁判所による判決を導入した。市場は行商人を送り込んで、地元の積年の伝統を一掃し、たえず変化し続ける商業の方式に置き換えた。(下巻p.193)
というわけで、近代以降の国家は、個人は自由だってうたい文句で、親の決めた相手と結婚しなくたっていい、家業を継がなくたっていい、そのことは国家が保証してやる、ってことになったんだけど、
>だが、個人の解放には犠牲が伴う。今では、強い絆で結ばれた家族やコミュニティの喪失を嘆き悲しみ、人間味に欠ける国家や市場が私たちの生活に及ぼす力を目の当たりにして、疎外感に苛まれ、脅威を覚える人も多い。(p.194)
という流れになって現代にいたると。
サブタイトルに人類の幸福って入っているように、はたして現在の人は昔より幸せになったんでしょうか、っていう問題意識が出てくるのがこの本のいいとこで、そうぢゃないと歴史を研究してる意義がない。
>(略)過去二世紀の物質面における劇的な状況改善は、家族やコミュニティの崩壊によって相殺されてしまった可能性が浮上する。(下巻p.222)
とかって世を嘆くようなことだけにとどまるんぢゃなくて、
>幸福が快感を覚えることに基づくのなら、より幸せになるためには、生化学システムを再構築する必要がある。幸福が人生には意義があると感じることに基づくのならば、より幸せになるためには、私たちはより効果的に自分自身を欺く必要がある。(下巻p.234)
なんて意外なところに踏み込んでって、さらには、そういう一喜一憂はすべて心の動きなのだから、心の本然を悟らなければ解脱できない、みたいな仏教の解説まで出てくる。
どうでもいいけど、そういう仏教の話になると私は中沢新一の著書を思い出すんだが、ほかにも、
>農業革命には宗教革命が伴っていたらしい。狩猟採集民は野生の動物を狩り、野生の植物を摘んだが、それらの動植物はホモ・サピエンスと対等の地位にあると見なすことができた。人間がヒツジを狩るからといって、ヒツジが人間に劣ることにはならなかった。(略)生き物は直接意思を通わせ、共有している生息環境を支配している規則について交渉した。(下巻p.12)
なんてところでも、おー、これは中沢新一の「対称性」じゃん、とか膝を打ってしまったりする。
それはともかくとして、
>私たちが真剣に受け止めなければいけないのは、歴史の次の段階には、テクノロジーや組織の変化だけではなく、人間の意識とアイデンティティの根本的な変化も含まれるという考えだ。(下巻p.261)
っていう歴史認識というか人間存在に関する認識を訴えてるとこが重要なんだと思う。
テレビ番組のインタビューのなかでも、このパンデミックのなかで、ある個人がいつどこで誰と接触したかって位置情報的な追跡だけぢゃなくて、やろうと思えば、そのときの体温や脈拍の変化からどのような感情をもったかみたいなことまで国家権力が情報収集できてしまう、みたいな危険性を示してたなあ、そういえば。
科学を信頼して正しい情報を得ること、人間同士が協力をすることは大事だけど、意識とアイデンティティだって大事よ、と。
でも、みんな電脳埋め込んでネットでつながりあっちゃう、攻殻機動隊みたいな世界に進んぢゃうのも、悪くないっつーか、もしかして避けられない必然なのかもなんて気もする。
(何を言っているのだ俺は、自分でもなんだかわかんなくなってきた。)
それにしても、本書は、あちこちで、歴史からみて出てきた真実をびしびし指摘してくれるとこが刺激的でおもしろい。
>歴史の数少ない鉄則の一つに、贅沢品は必需品となり、新たな義務を生じさせる、というものがある。(上巻p.117)
なんてのが、気に入った一節だったりする。
第1部 認知革命
 第1章 唯一生き延びた人類種
 第2章 虚構が協力を可能にした
 第3章 狩猟採集民の豊かな暮らし
 第4章 史上最も危険な種
第2部 農業革命
 第5章 農耕がもたらした繁栄と悲劇
 第6章 神話による社会の拡大
 第7章 書記体系の発明
 第8章 想像上のヒエラルキーと差別
第3部 人類の統一
 第9章 統一へ向かう世界
 第10章 最強の征服者、貨幣
 第11章 グローバル化を進める帝国のビジョン
 第12章 宗教という超人間的秩序
 第13章 歴史の必然と謎めいた選択
第4部 科学革命
 第14章 無知の発見と近代科学の成立
 第15章 科学と帝国の融合
 第16章 拡大するパイという資本主義のマジック
 第17章 産業の推進力
 第18章 国家と市場経済がもたらした世界平和
 第19章 文明は人間を幸福にしたのか
 第20章 超ホモ・サピエンスの時代へ

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男ごころ

2020-04-25 18:42:53 | 丸谷才一

丸谷才一 1989年 新潮社
これはおととし11月だったかな、古本まつりでけっこう数多く買ったうちのひとつだ。
あのころ買ったものをようやく今ごろになって順番に片づけてってんだが。
それにしても、古本まつりなんてイベントは今後どうなっちゃうんだろうねえ、困った世の中だ。
広場にテント並べての古本まつりだけぢゃなくて、なんでも書店は生活必需だが古本屋は不要不急だとかで、緊急事態時には営業自粛しろって言われてるらしい、そんな人が集まりゃ古本屋の経営は苦労しないっつーの。(集まっても買わないお客ばかりだったりして。)
まあ、それはともかく、あいかわらず私にとってはおもしろいです、丸谷才一の随筆集。
たまたま前回、前々回のように、ここんとこ英語とか日本語とかについて考えさせられる本を読んでて、英語は抽象的存在ぢゃなく過去から現在まで使われてきた言葉の集成であるとか、外国語を習うというのとネイティヴとして使うのは違うとかって話があったんだけど、本書にも英語のとある話があった。
小林秀雄が『菊池寛論』のなかで、菊池寛が外国の近代小説の分類のひとつに「人間的興味の小説(ヒュウマンインタレスト・ストオリイズ)」っていうのがあるって言ってる、と書いてるけど、人間的興味の小説って何だ、って丸谷さんは気にかかる。
引用した小林秀雄自身もきっと何のことかわかってないだろう、と思って菊池寛の『文藝往来』って文章を探して見てみると、たしかに「地方色小説」とか「性格描写小説」とか「解剖的小説」とかと並んで、「人間的興味の小説」ってのを米国の文学者があげているとある。
丸谷さんはウェブスターの大きな辞書を引いてみたりするが、どうもはっきりしないので、ずっと気になることになる。
で、P・G・ウッドハウスの小説(出た、吉田健一の随筆に引き続き、またこの作家の名前が登場、これはぜひとも読んでみないわけにはいかない)を読んでたら、新聞記者なんかを指すところで「カメラマンとか、ヒューマン・インタレスト・ライターズとか」ってセリフが出てきたんで、丸谷さんは「ヒューマン・インタレスト」は「ゴシップ」の婉曲表現だろうって解釈にたどりつく。
>それを「人間的興味の小説」と訳すのはやはりをかしい。すくなくとも、原語の指示する内容のいちばん高級なところだけをすくひあげ、基本の大事なところを無視した直訳と言はなければならない。(略)
>このことでもわかるやうに、一般にわれわれの文学用語は、西欧文学の実体とは変に離れた形で高級になりがちだつた。あの菊池ですらもなほその弊をまぬかれなかつたのである。(p.184-185「ヒューマン・インタレスト」)
と地に足がついてないというか、具体的なものとして身についていない外国語を扱ってしまう評論をチクッとやっつけている。
ちなみに、丸谷さんは自身の小説の英訳をしてるデニス・キーンさんに後日質問したところ、ヒューマンインタレストは新聞用語で、ニュースと対立するものという回答をえている。ただの報道ではなくて人情のからむあたたかい扱いの記事の意で、例として、ある野球選手が試合でホームランを打ったというのはニュース、彼が家族を非常に大事にしているというのはヒューマンインタレストだと。
英語だけぢゃなくて、もちろん専門の日本語について語ってるものもある。
いままでも、国語教育はダメだとか教科書がひどいとか漢字制限なんてバカぢゃなかろうかとか、いろいろ読んだことはあるんだが、随筆なんでユーモアがあるところがいい。
自身が子どものときに読んだ本で、トルコは国民の9割が文盲だったが1928年に文字改革政策でアラビア文字からローマ字にしたら識字率が上がった、だから日本も漢字を廃止し、って論をみて、おかしいだろ無理だって思ったってとこから始まって。
トルコでは現在も教育が普及していないから50%以上が文字を読めないって話から、中国の文盲率はすくなくとも50%に近いって話になる。(この随筆書かれたのは1985年。)
中国旅行に行ったときに訊ねたら(誰に?)、学校を卒業すると農村ではもう字を読むことはないので忘れてしまう、という返事が返ってきたという。
で、
>わたしに言はせれば、普通教育がちやんとしてゐるのに(略)そんなことになるのは、おもしろい読物がないからだと思ひますよ。と言つたつて、中国に司馬遼太郎や藤沢周平がゐないことを憂へてゐるわけではない。もちろんゐるほうがいいけれど、たとへば、田中角栄の栄枯盛衰とか、山口百恵の結婚とか、ハイセイコーの活躍とか、長島茂雄はどうするかとか、そんなことを書いた新聞や週刊誌がないから、つい、ものを読まなくなつて、そのついでに字を忘れるのだらう。(略)そして現代日本の国力には、週刊誌やスポーツ新聞や競馬新聞のおかげといふ局面がかなりあるのだ。あの手の読物は、読み書きについての社会教育の一端を担つてゐる。これははつきり認めてかまはないと思ひます。(p.218-219「広尾へゆく」)
というおもしろいところに着地してくれるのが、読んでて楽しい。
さて、丸谷さんの趣味で、いままで読んできたなかであんまり注目させられた記憶がなかったんだけど、本書では食器に凝るという話に印象に残るものがあった。
父親の影響で、皿とか茶碗とかを選ぶようになって、特に古い焼きものが好きだという。
「今出来のやきもので飲み食ひすることはどうしてもできないたちになつてしまつた」というのは、ほう、そうですかと言うしかないんで、私が感心したのは、器の話をしたあとの、
>といふ具合に食器に凝るのはいいけれど、この場合、いちばん困るのは、箸置きにはどうもいいものがないことである。よくは知らないが、おそらく箸置きといふのは明治維新以後、それもかなり最近になつてから発明されたものなのだらう。従つて、古いものがないし、古いものの写しもないし、もちろん西洋のものもない。みんな今の陶工の作ばかりで、しかも昔の箸置きを参考にすることさへないわけだから、伝統のせいの奥床しさも力強さもない。(p.128「器について」)
って考察のほう。よさげなの買ってきて使ってみるが、そのうち「どうにも我慢ができなくなるのである」っていうんだが、そんなこと考えたこともなかったんで。
もの食べたり、ましてや酒飲み始めたら、箸置きがどんなもんかなんて気にならない私は鈍感なんだろうか。
どうでもいいけど、丸谷さんはいつもいろんな空想をはたらかせて自分でおもしろがってるんだが、本書でもなにかと金儲けの計画にふけったみたいなこと書いてある。
ものの名前をつける会社をつくって、誰か友だちを社長にして、実務は若いひとにまかせて、自分は顧問になって週一の名つけ会議に出るだけで高給をもらう、とか。(「新会社」)
チリ紙交換車のテープを作って売る商売を立ちあげて、東野英治郎は焼芋屋のテープで、塵紙交換には西田敏行だろうとか。さらに俳優使うと売り文句を書かなきゃならないのが面倒で、作家仲間を起用すればセリフも自分で知的なもの書くだろうとか。(「魚鳥」)
なんで、そんなしょうもないことばかり考えるのかと思ってたら、ホンネを書いてるように思えるところがあった。
>われわれはとかく労を惜しんで定説によりかかる。しかし、みんなが漠然と思つてゐることが間違ひな場合だつて、よくあるんですね。たとへば天動説。
>だから、ときどき変なことを考へてみよう。常識を疑つてみよう。まあたいていは実を結ばないでせうが、それだつてかまはない。すくなくとも精神の体操になる。(p.37-38「定説」)
ということのようだ。
コンテンツは以下のとおり。
I 男ごころ
 郵便/女優/犬と猫/主義/新会社/作法/動物/ひげ/身長/顔/定説/時代考證/地理/色彩/鏡/団子/勘定/教育/恐怖/時差/魔女/拍手/雨水/水着
II 外食評論
 おでん玉三郎/博徒の詩/動物園のサンドイッチ/絵のある建物/雨の浦安/西武球場の花火/食堂車を論ず
III かなり文学的
 目黒の坂
 小を愛す
 器について
 一夜の窓
 国じまん
 お祭について
 岩波文庫の思ひ出
 じつと絵を見る
 芝居と衣装
 刀傷の思ひ出その他
 魚鳥
 『文士伝』といふ本のこと
 思ひ出
 地名つかひ
 ヒューマン・インタレスト
 日記考
 夷齋先生のこと
 出陣
 植村清二先生の史眼
 河口湖と銀座で
 ライト・ヴァース
 七不思議
 文学的伝説
IV 寝言だつて日本語
 広尾へゆく
 言葉のストライク・ゾーン
 テフとドゼウ
 エイについて
 テンとマル
 感嘆詞について
V どの部屋にも本
 本郷の先生/歌道の家/春本そして資本主義/女と小説/屋上には恋猫もゐます/けろりの旦那
VI これはおまけです
 紙幣論/イギリスの味/雨ぎらひ/鹿について/目黒

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日本・日本語・日本人

2020-04-19 18:30:50 | 読んだ本

大野晋・森本哲郎・鈴木孝夫 二〇〇一年 新潮選書
これは去年10月に地元の古本屋で買ったもの、最近やっと読んだ、とっくに読めばよかった、おもしろいんだもん。
タイトルと著者三人の名前みて、これはおもしろくないわけない、きっと刺激的なこと書いてあるだろうと確信に近いものあったんだが。
それよりあとに、前回の「英語と英国と英国人」を見つけたとき、それも著者名からいって間違いなさそうだし、この二つ対にして持ってたらおもしろいかなと思って買ったわけで、いいかげんといえばいいかげんな読書嗜好である。
著者のみなさんは、私からみれば日本語に関するビッグネームなんだが、裏表紙の藤原正彦氏の推薦文に「大正生まれ三人」って書いてあって、そうなのかーって驚いた。
(っていうか19年前に読んどけよ、俺、って気がするが。)
内容は2000年に行われた三回の座談会の収録と、それぞれが書いた論文が三本。
日本という国を考えるとき大事なのは言語だという大野さんは、
>(略)文明が力を持つために大事なことは、やっぱり、ものをよく見るということじゃないかと思います。感じるのではなくて、見る。見るということについて、もっと日本人はよく考えて、目が細かくなる必要がある。学校でも、見ること見たことを正確に言葉にする、その言葉を大事にすることを教えなければいけないんですよ。言葉をおろそかにすると、見ることが駄目になる。(略)
>物をよく見て、構造的に体系的に考えをまとめるという習慣を養わない限り、日本人はこれからの世界を生きて行けない。(p.38)
なんて言ってますが、まあ、あいかわらず日本人は「空気」だけでやってますね、たしかに。
見ることとか言葉にすることをおろそかにしたまま。
鼎談のなかだけぢゃなくて、論考でも同じようなこと記してる、日本人の弱点について、
>それは日本人が「体系的な思考」に弱いということである。人間界についても、自然界についても、分析を重ねていって原理・原則を求め、それを全体として観察して構造的に、体系的に把握する力が弱い。(p.53)
とか。で、それは飛鳥時代に中国から漢文が入ってきて、それ学ぶことが文明と文化の基礎になったからぢゃないかと。
日本語の「学ぶ」は「マネブ」ともいって「真似をする」ってのが語源だが、漢文の発音と意味を学ぶには師匠の真似から入ったはずだからだという。で、
>その結果、日本では学問するとは「自分で材料を集めてそれを比較し、分類して、そこに筋道を見出す」ということなのにそれを身につけることができず、いつも真似をすることが「学問」になってしまった。つまり、漢字・漢文の理解を知的努力の最初の目的とする習慣が一般化したのである。(p.52)
という。うーむ、そうかあ、子どもんときの学校の勉強もそうだもんな、観察して仮説たてて分析してってハタチすぎるまでやんなかった。
でも漢字文化を否定するわけではなく、明治になってヨーロッパ文明が入ってきたときは、一度漢字に置き換えて受け入れるようなことしたからうまく吸収できたという。
しかるに今は新しいもの入ってくると、なんでもそのままカタカナにしちゃうからホントに理解はできてないんぢゃないのという危惧もある。
カタカナ語の氾濫について、森本さんは、
>だから、カタカナ語にするしないの基準がどこにあるのかわからない。日本人は臆病な民族だから、他人を傷つけたり、他人から何か言われるのが怖い。そこで、摩擦を避けるために、みんなにわかりにくいカタカナ語にしてしまう。(略)
>「首を切られた」と言うよりも「リストラされた」と言うほうが聞こえがいい。(略)役所言葉になぜカタカナ語が多いかというと、役人は責任を取らされたり、文句を言われたくないからなんだ。例えば、「危険地図」と言えばいいものを、「ハザード・マップ」なんて言う。カタカナ語を使うことで、ショックをやわらげている。一種のクッションとして使っている。(p.80-81)
なんていう日本人論・日本文化論を言っている。
そうかーって思うのは、昨今では、あまり日本語が上手ぢゃなさそうな知事さんとかが、だからカタカナ連発してるのかってとこを、すぐ連想してしまうからなんだが。
でも、まあ、漢語だってもとはといえば外来語であって、日本語の語彙の半分近くは漢語が占めていて、変形させた和製漢語もいっぱいあるし、名詞や動詞のかなりの部分が外来語なんだが、そのへんのとこを論文でとりあげて、
>それは日本語の構造が外来語を取りこむのに、たいへん便利な性格を持っているからだ。しかし、どんなに多量の語彙を外来語が占めようと、日本語の構造は変らない。構造とは言葉の骨格、すなわち語順を始めとする文法である。そして、日本人の発想、思考法を特徴づけているのは、その骨組みなのだ。(略)いくらカタカナ語が氾濫しようと、その使い方はあくまで日本流なのであり、日本語による日本固有の発想、表現は変らない。母国語というものは、それほど骨身に徹しているのだ。(p.95-96)
という論旨を展開する。
これは別のとこで、英語をどう学ぶべきかなんて話で、コミュニケーションの道具として必要に沿って習えばいいってのに対して、「母国語は道具ではないんです(p.170)」と断言してることにつながってる。
同じように大野さんも、「外国人が言語を習うのと、ネイティヴとして使えるのとは意味も目的も能力も違うわけです」という。
母国語ってのはものの考え方を規定する性質のものだっていうのは、テッド・チャンの「あなたの人生の物語」を読んだときに、宇宙人の言語を学ぶことによって自分の考え方そのものが変化した、ってとこに感銘を受けた私には大いにうなずけるものである。
英語教育について、鈴木さんは、国際舞台に出ていく人材のためのエリート教育をしろという。
ヘンなところで教育は平等にとかいってないで、たとえばメジャーリーグで活躍する野球選手は若いときから競争と選抜を繰り返してきたように、国際的に通用する人を生み出すためにはエリート養成法が必要なんだと。
鈴木さんは、漢字の制限、当用漢字だか常用漢字だか、そういうキメについて、
>文部省、いや文部科学省っていうのか、あそこがやたらに漢字制限をするでしょう。あれは読める字と書ける字とが一致するものだという誤解から生まれたものですよ。(略)
>読める字は書ける字の百倍ぐらいある。いや、千倍くらいかな(笑)。(p.63-64)
なんていうんだが、それは正解だと思う、変な制限をつくるから読める文字なのにひらがなで書かれたりして、かえって意味がわかりにくくなる。
この漢字制限には、たいがいの日本文学者が反対するはずなんだけど、なかには志賀直哉が敗戦後すぐの時期に、フランス語を国語にしちゃえとかムチャクチャなこと言った例もある。
つまりなんでそうやって漢字を攻撃するかっていうと、無謀な戦争やったのはこんな文字つかってたからぢゃないかって、アルファベットしかない戦勝国側の思い込みがあるわけで。
そのへんをふまえて、鈴木さんは、英語をどう学んで国際理解につなげるべきかって論文なのに、
>しかし半世紀前の大東亜戦争のこと、そして敗戦直後のどさくさまぎれに、勝者であったアメリカが計画的に実行した War Guilt Information Program (日本人がいかに理不尽な戦争を行ったのかを、日本人に自覚させ、罪の深さを悟らせる計画)の名で呼ばれた宣伝洗脳教育の恐ろしさを、いま改めて私たちが知らなければ、現在の日本人の大半がもっているおよそ事実に即さない歪んだ自国の歴史認識、その結果として生じた深い自己嫌悪と自信喪失のトラウマ状態から永久に脱出できないと私は思うからである。(p.143-144)
って、すごいところから入っていくことになる。
いや、おもしろいな、この本。きっとときどき再読すると思う。
コンテンツは以下のとおり。
第一部 日本について
日本人は日本語をどう作り上げてきたか――大野晋
第二部 日本語について
日本人は言葉とどうつきあってきたか――森本哲郎
第三部 日本人について
英語といかにつきあうべきか――武器としての言葉――鈴木孝夫
第四部 英語第二公用語論について

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英語と英国と英国人

2020-04-18 19:08:05 | 読んだ本

吉田健一 一九九二年 講談社文芸文庫
これは去年11月に、地元の古本屋で買った文庫、なんかタイトルが気になったので。
英語、英国、英国人について書かれたエッセイ42篇、初出をみると昭和28年から昭和33年くらいまでのものが多い。
1920年に8歳のとき父親の赴任についていってロンドンに住んだひとだから、言うこと一味ちがうというか。
英語については、なんで英語の勉強をそんなおおげさに難しいことみたいにいうんだ、ただの言葉でしょ、みたいな感じ。
>英語というのは覚えるのにそんなに難しいものではない。勝海舟も、福沢諭吉も、別に受験必勝コオスなどというものの厄介にならずに(略)(p.17「英語教育に就て」)
なんて調子のすぐあとに、
>英語には文法がないのに近い。(同)
とグサッと言ってるところからすると、よーするに細かいことゴチャゴチャ研究する英語学のような教育はよくなくて、どしどし読んだり書いたり話したりすればいいだろと。
ただ英語が読み書きできるっつーだけぢゃ意味なくて、何を読むか何を書くか、そっちが本質でしょという話だ。
>日本語でも碌な文章が書けないものが、英語を知っているから英語の文章なら書けるというのが既に滑稽であるが、それよりも先に、英語を知っているということはこの場合、一体どういうことなのだろうか。英語は一つのそういう抽象的な存在ではなくて、過去から現在に掛けて英語で語られ、又書かれた個々の言葉の集成が英語なのである。(p.62「英作文に就て」)
ってのは卓見で、いい英語の文章書きたければ、まずは立派な文章をもっと読めという。
英語を学ぶんなら、文学作品を読めとも繰り返して説いている、それもおもしろいものを読めと。
>語学を最も的確に習う方法は、文学を通してである。これはどういう言語でも、その使い方の最も見事な例は文学作品にあるばかりではなくて、結局は同じことであるが、文学作品で言葉はその最も生きた形で用いられているからである。(略)要するに面白がって読むことが先決問題なのである。(p.94「語学と文学」)
ということで、よい文学作品を選んで、そこで文法がどうのとか日本語に訳したらどうのとかぢゃなく、書いてあることおもしろく思って読めばいいだろということらしい。
このへんは、どうも同時代の一部日本の文学者がフランス文学ばかりを持ち上げてたのが気に入らないって感情もありそうに思えるけど。
それと、
>それから、ユウモア小説がある。日本にもこの種類のものが一時はあったが、笑っては文学ではないかして、この頃では全く見掛けなくなった。併し英国には、P・G・ウッドハウスがいる。(略)どうも、読んでいて楽しくなるか、ならないかで、文学であるかないかが決るようなものが我々の間にはあると思われ、ウッドハウスは別として、これは確かに我々にとって損なことである。(p.108-109「文学以外」)
っていう意見は、作家が深刻ぶって真実の吐露とかみっともないことをやるのが文学だって思ってきた日本文学界はおかしい、みたいな丸谷才一さんと共通するようなとこがあって、私もおおいに賛成。
ウッドハウス読んだことないけど、早くよんでみなくては…
英語の勉強の話なんかにくらべて、英国での生活の話はくだけてておもしろい、特に食べものとか酒の話はさすがで。
飲み屋と酒屋が区別されてて、買った酒をその場で飲んではいけないって話のついでに、
>その上に、マンチェスタアには妙な規則があった。旅館の自分の部屋でゆっくり飲もうと思って、ウイスキイを買いに入った所が、葡萄酒を一ダアスというのは構わないのに、ウイスキイに限って一人に一本しか売らない。配給の問題ではなくて、飲み過ぎないようにという市当局の親心かららしい。併し一度店を出て、又入って来て買うのは構わないと店員が教えてくれた。(p.161「マンチェスタア漫歩」)
なんて話は、店員さんナイスフォローってクスッとさせられた。
でも、そんな軽い話ばかりぢゃなくて、深いところまで考察してるのはもちろんで、たとえば午後五時ころはどこの家庭でもお茶の時間で、晩飯ほどの金をかけずにお客をもてなすのに利用する時間だというんだが、
>要するに、五時か五時半から後が娯楽と社交の時間で、そして何かの形での社交が英国人の主な娯楽なのだという印象を受けた。家庭生活も一種の洗練された社交になっていることは、英国の小説を読んで見ても解る。
>それだけに、ロンドンのような都会で一人で暮すということがどんなことなのか、想像を絶するものがある。他人には干渉しないという不文律がどこででも行われていることは、自分が付き合っている人間以外に、誰にも構って貰えないということでもあり、それが厳守されている世界に一人でいれば、孤独というものの味を否応なしに嚙み締めて生きて行くことになる。(p.148-149「英国点描」)
という英国の観察にはハッとさせられるものあった。
お茶の習慣の話から英国の本質に迫る話はほかにもあって、寒いのに散歩した後は家の暖炉の火のあたたかさが余計に染みるものだといい、
>紅茶も旨い訳で、それで英国人は冬でもよく田舎道を、お茶の時間の前に何の用もないのに散歩しに出掛ける。英国人の冒険心というのはそういう性質のものなので、それが嵩じれば山にも登るし、海外に植民地も作る。つまり、紅茶を飲む積りで出掛けて行くので、それ故に海外でどんなに成功しても、大概のものは本国に帰って来るか、でなければ、出先の土地で本国とそっくりの生活を始めてそこにい着く、お茶の時間の前に出掛けた散歩が少し長くなっただけなのである。(p.208-209「英国の四季」)
なんて何も知らないものにとってはすごい飛躍におもえる理論で、登山や航海や極地探検に向かうことを好む英国人の国民性を説明してくれる。
イギリスの冬の厳しさは、やっぱ住んでみないとわからないもののようだが、八月の午後の日を浴びているときの一節が、妙に印象に残った。
>戦争中は、ここも大変だったろうと思いもした。ダンケルクからの撤退の際には、ここは大小の船でごった返したに違いない。併しその午後のドオヴァアは、もうもとの港町、又、避暑地で、海は灰色掛った緑色をして横たわり、椅子の坐り心地や、窓の枠の切り方から来る感じも手伝って、その時、自分は確かに英国にいるのだと思った。そういう場合は、自分が時間的にもそれまでの一切のことから切り離されてるような気がするものである。(p.216「日光浴」)
ってのがそれなんだけど、「自分は確かに英国にいるのだ」って思いは、なかなか達することができない境地に思えるんで。
コンテンツは以下のとおり。
英語
英語教育に就て
英語上達法
続英語上達法
英語修得法
読むことと話すこと
英語と英会話
英作文に就て
英語の感覚
英語と英文学
戦後の英語教育
二十四時間勤務
英国の文学というもの
語学と文学
英文学と英語学
私の修業時代
文学以外
チャアチルと沙翁の台詞

英国再検討
感想
旅の印象
英国点描
マンチェスタア漫歩
チェスタア
ロンドンの公園めぐり
ロンドンの公園と郊外
英国の四季
日光浴
英国のビイル
英国のクラブ
英国の料理
食べものと飲みもの
飲んで食べた思い出
英国人の食べもの
お茶の時間
パンとバタ

国民性
対日感情
英国の落ち着きということ
シェイクスピア
英国人に就て
常識

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メカ豆腐の復讐

2020-04-12 18:04:11 | マンガ

とり・みき 2016年 イースト・プレス
ごく最近ネットで買って読んでみた古本のマンガ。
タイトルからは前に読んだ『ロボ道楽の逆襲』を想像したんだけど。
その前作がどんな内容だったかは全然忘れてしまっていたんだからなさけない。
本作も、ちゃんとした一本の長編とか、連載した短編集ってわけぢゃなかった。
「〇〇特集をやるんで読みきり1ページで描いて」とかって依頼された作品があちこちにあって、そういうのをたくさん収録してる。
バラバラに発表したもの集めて単行本化する機会はなかなかないはずなんだけど、巻末の著者解題にいわく、
>それらは依頼主の期待に応える職人技を発揮できる仕事でもある上に、一見制約が多いように見えて、実は約束事さえ守ればオリジナルの作品を描くより遥かに自由で、また実験ができる場でもあったのです。
という自負が作者にあったので、いろいろ困難はあるんだろうけど、まとめて一冊にしたもの。
でも、だから、読んでみると、すっごいこまかいよぉ、ちょっと疲れるくらい、いろいろてんこもりなんで。
吾妻ひでおとか小松左京の話題はこれまでにもどこかで見たことある部類だけど、機動警察パトレイバーとか攻殻機動隊のDVDのブックレットに何か描いていたなんてのは知らなかった。
私がうれしかったのは、「SF大将」のシリーズがいくつか入っていたことで、元ネタにうとい私はほんとに理解しているとはいえないが、このシリーズは好きなんである。
コンテンツは以下のとおり。
メカ豆腐の復讐
【SideーA ギャグとエッセイとトリビュート〔マンガ&アニメ篇〕】
クルクルくりんfeaturingるんるんカンパニー
ヒバなろ! ~とり・みきの日本魔境ツアー~
とり・みきの巨石拝見
ナハハに愛を込めて
生きていく私
ヨネザワさんと私とときどき吾妻さん
山に上りて笑え~僕の個人的山上史~
モーさまのちょっとお色気方面の話
ロカちゃん大好き
吉田戦車のみんなをガッカリさせる一言
吉田戦車のカレーなる通ハン生活
加藤和彦さんの曲と私
お楽しみはみなもとじゃ
マンガ中川家物語・星雲編
まんがイソップ物語
ゆうきさんへ
パトの湾岸物語
パトのロボット物語
パトのテクノポリス物語
パトの真夏のロンド
WXIIIあれやこれや
廃棄物13号湾岸死闘編
おフランスに行ったざんす
ミニパトのしとびと
GO!! GO!! 大輔くん
How Many イイ顔
ホントウにあったちょっとイイ話
ドンマイ クゼゼちゃん
【SideーB ギャグとエッセイとトリビュート〔SF篇〕】
マンガはやぶさ物語・トラブル篇
メタルギアソリッドごっこ
わが良き狼(ウルフ)
左京ちゃん
小松左京のもっとキャラクターして!
臥猪庵再通信
こうして私は小松左京の周りをウロチョロした
或るSFの一生
とり・みきのSF大将/万物理論
とり・みきのSF大将/虐殺器官
とり・みきのSF大将/果しなき流れの果に
とり・みきのSF大将/都市と都市
とり・みきのSF大将/クラーケン
とり・みきのSF大将/火星の人
とり・みきのSF大将/ゼンデギ
SーFマガジン600号記念大々SF漫画・SF小僧の逆襲
SーFマガジン50周年記念大河漫画・SF小僧の花嫁
SーFマガジン700号記念大河漫画・SF小僧の息子
早川書房創立70周年記念大河漫画・SF小僧の幽霊
ダブル・ストーリー
Mighty TOPIO

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