many books 参考文献

好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

2019-03-31 20:12:26 | CD・DVD・ビデオ

高田渡 1993年 徳間ジャパンコミュニケーションズ
なんか高田渡が聴きたくなって、これ出してきた。
聴きたかったのは「さびしいと いま」だったんだけど、まわしたらノッケからきたのが「仕事さがし」で
乗るんだよ 電車によ
雨の日も風の日も
仕事にありつきたいから
なんて、なんだ無職のひと向けだなとタイミングとして苦笑せざるをえなかった。
飛ばさずに聴いてくと、どの曲もいいなあ、あいかわらず。
「夕暮れ」なんか、とてもいい。
そうやって たかだか 三十分か一時間
ってフレーズ、なかなかありそうでないボキャブラリーだと思う。
このアルバムは、なんでその時期この内容で出たのかわからないけど、私はよう知らないがいろんなメンバーで古い曲をアレンジしている。
買ったときは、そのころ泉谷のライブで聴いてハマッた「スキンシップ・ブルース」が入ってるからだったかもしれないけど。
1.仕事さがし
2.スキンシップ・ブルース
3.病い
4.相子
5.イキテル・ソング~野生の花
6.ホントはみんな
7.こいつは墓場にならなくちゃ
8.夕暮れ
9.酒心
10.生活の柄
11.さびしいといま
12.風

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

片目の証人

2019-03-30 20:08:35 | 読んだ本

E・S・ガードナー/尾坂力訳 一九八一年 ハヤカワ・ミステリ文庫版
私にとっては、飛行機や新幹線での長距離移動におあつらえむけだったペリイ・メイスンシリーズ。
そういう機会もなくなったんで、もう読まないかと思ったんだが、ちょいとしたひまつぶしに読んでみた。
原題「THE CASE OF THE ONE-EYED WITNESS」は1950年の作品。
持ってんの一九八九年の五刷だけど、古本ぢゃないかなあ、なぜか函館の書店のカバーがかかってんだよね、読んだとしたら九〇年代前半だ。
もう、すっかりなかみは忘れてんだけど。
ストーリーは、遅い夕食を秘書のデラといっしょにたまたま入った店でとっていたメイスンが電話に呼び出されるとこから始まる。
新聞記事と570ドルの現金が入った包みを今その店に届けさせたから、その記事をある人に見せて伝言してくれと頼まれる。
なんだかわかんないんだけど、困ってるひと助ける正義感と、なにしろ好奇心がつよいメイスンだから、引き受けちゃう。
行った先では深夜にもかかわらず、ちゃんと応対してはくれたが、相手の男は心当たりがない、人違いでしょという。
おとなしく退散するメイスンだけど、ひっかかるものあるんで、真夜中過ぎなのにそこからドレイク探偵社を呼び出して、その家の張り込みをさせる。
そうすると、その日の未明にはそこで火事が起きたんで、連絡を受けたメイスンは現場にすっ飛んでいく。
ここんとこで、暴走運転をとがめるパトロール・カーの警察官が「火事はどこだって言うんだ?」って言ったときに、
>メイスンはアクセルを踏んだまま、顔もむけずに、「ウェスト・ロレンドの六九二〇番地だ」(p.64)
って正確なこと答えて、警察官がおどろくって場面があるんだけど、ストーリーのことは忘れてたのに、これだけはおぼえてた。
スピード違反の運転手に対して、なんでそんなに急ぐんだって意味で、「火事はどこだ」っていうのは小説や映画でよくあるみたいだけど、それにまともに答えるってのには初めて読んだときも笑ったもんだ。
かくして、住宅の火事跡からは死体がみつかって、しかも火事でぢゃなくて殺人の疑いを警察はもつ。
なんで火事現場にメイスンと探偵がいたのかってことで、警察はメイスンの動きを警戒して遠ざけようとするんだけど。
弁護士のほうは、車のナンバーとかから、前に電話受けただけで正体のわからない依頼人の身元を探そうとする。
まったくもって、本作の特徴的なとこは、依頼人が誰だかわかんないのに、主人公の弁護士はそのひとのために骨を折るという変わった展開。
そんなこんなで関係者とおぼしき人物の家を訪れたメイスンは、またもや殺された死体を発見してしまう。
そこへ、秘書のデラに尾行をつけていた、おなじみのトラッグ警部がやってきては、
>きみは自分の依頼人が誰かわからないくせに、つぎの殺人がどこで行なわれるかわかるとは、気味の悪い才能を持ってるんだね。
と、いつものように、皮肉たっぷりに言われちゃうんだが、まあ、殺人現場居合わせ率高過ぎなんでしかたない。
で、殺人の疑いのかかる女性を追っかけて、ようやくつかまえてみると、私は電話もしてないしお金も送ってないなんて言う。
結局、逮捕されて供述書もとられたあとで、面談したメイスンは正式に代理人となること了承され、例によって圧倒的不利なまま予審に突入する。
問題の片目の証人ってのは、どこに出てくるかっていうと、メイスンが依頼人のアリバイを確立しようと探偵たちを使って陳述をとったバスの乗客のひとりの女性のことである。
メイスンが企てたのと反して、その女性は検察側の証人として、被告は最初からはバスに乗ってなかったって言う、アリバイの成立の妨げとなる。
その彼女が片目に炎症があるとかで眼帯あててるんだけど、メイスンは彼女がメガネなしでは人物の正確な認定はできなかったはずってことを足掛かりに、反対尋問で戦うんだが。
もちろん最後は主人公が勝つんだけど、あれこれと伏線を回収してって、最後は意外な種明かしで解決するって意味ぢゃあ、けっこうおもしろいなと思った。
どうでもいいけど、未明の寒い火事現場から、探偵のポールのアパートにきたメイスンがふるまわれるのが、熱いバター入りラム。
探偵が、バターの大きい塊を入れた陶器のコップに、湯気のたつ熱いラム入りの液体を注いで、スプーンでかきまわして、弁護士にわたすと、メイスンは「こいつはまったくすばらしいな」「これは何なんだ? 配合は秘密か?」なんて言う。
ポールは、「寒い所で仕事をするときなどは、これが一番だ」「こいつは、おれがだいたい見当をつけて考え出した代物なんだ」「肉桂を少し、砂糖少々、ラム酒を大量に、バター、湯、それからさらに……」 っていうシーンがあるんだけど、なんか、いいなあ、それ、飲みたい。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新・百人一首

2019-03-25 21:12:22 | 読んだ本

岡井隆・馬場あき子・永田和宏・穂村弘選 2013年 文春新書
副題は「近現代短歌ベスト100」。 なんとなく丸谷才一のあとででも読もうと思って買った古本なんだけど、撰者に穂村弘の名前がなかったら買わなかったと思うが。
「はじめに」によれば、「文藝春秋」の創刊九〇周年記念として2013年に企画されたものらしい。
集められたのは、近現代ということで、明治から昭和戦前までが五十人、戦後から五十人、明治天皇から穂村弘までの百人。
第二章の座談会で岡井隆氏がいうには、百人の人選については「プロの歌人なら誰が選ぼうと九五パーセントは一致する」ものらしい、そうなんだ。
で、撰者四人が、二十五名ずつ担当になって歌を選んだそうだが、ふつうこういう撰集は一人が選ぶものだけど、それはそれで多彩でいいのではないかというスタンス。
でもねえ、一首あたり見開き2ページで、右に歌人プロフィールと一首だけ、左に短い解説と同じ歌人のその他の歌二つ、っていうつくりは、丸谷才一のを読んだあとだと、なんかありきたりでつまらんなあという気になる。
しかも、選ばれた歌の表記が、大きめな活字で、漢字だろうが仮名だろうが、句読点やスペースあろうが、なんでも一行あたり十七文字って書き方なんで、句切れとか関係ない字の並びで、なんか読みにくい。作者本人が改行して書いたもの以外は、すらっと一行にしてくれたほうが短歌らしくて見やすいと思うんだけど。
あと、百首の並べ方もねえ、歌人の生年順だって。明治天皇が最初で穂村弘が最後って、そこはなんとなくいい感じがするんだけど、あとの中にあるのは題とかつながりとかなんもなしの作者生年順ってどうなの、って気がする。
肝心の歌については、特に感想なし。
 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新々百人一首

2019-03-24 20:35:32 | 丸谷才一
丸谷才一 平成十六年 新潮文庫版上・下巻
丸谷才一の書くものは好きだけど、和歌にはとくに興味あるわけでもないしなーと迷いつつ買って、最近になって読んでみた。中古の文庫買ったの去年の7月だ。
そしたら、おもしろい、っていうか勉強になる。
まず、この詞華集をつくったスタンスが、すごい。
>そこで「百人一首」という形で日本文学史を書いたわけです。言ってみれば、日本文学史のエッセンスのサンプル集だな(笑)。(上巻p.503)
>そう、これは子規の『歌よみに与ふる書』と張り合うための本なんです。(下巻p.389)
と、あとがき代わりの巻末対談で語っている。
あと、いいのは、決まりきった形ぢゃなくて、それぞれの長さがてんでバラバラなこと。なんでも一首について見開き2ページ以内で解説つけて並べてけばいいってもんぢゃないと。
ちなみに書名が『新々百人一首』なのは、藤原定家の向こうをはって「新百人一首」にしようかと思ったんだけど、源義尚(九代将軍足利義尚)の撰による同名の書があるので、“新々”にしたんだそうだ。
もちろん、『小倉百人一首』と『新百人一首』に入ってる歌とはかぶらないように、本書は歌を選んでる。
で、こういう撰集をつくるときには、ただ一定数をピックアップするんぢゃなくて、その並びとかも大事だという伝統を守ってる。
>(略)勅撰集といふアンソロジーを一つづきの絵巻物として受取る態度が失はれ、一首一首が孤立した形でしか鑑賞されない現状(略)
を憂えているわけだ。
言われて例をあげられてみれば、巻頭や最後に位置する歌の偉大さや、同じ季節のなかでも順に移り変わっていくように配置されている歌の並びは、たしかに重要だ。
それどころか、場合によってはメイン編集者である撰者は、自分で詠んだ歌を読み人知らずとして、しかるべきとこに配置して、一巻の完成度を高めるってワザを使い、
>(略)二十一代集全般にわたる編纂の奥の手だつたのではないか、勅撰集の華麗と端正とは一つにはこのことに由来するのではないかとわたしには思はれてならない。(上巻p.138)
なんて推定している。
似たようなことでは、ほんとにその作者がつくったか定かでないものもあるが、そこはその名前と歌の内容が適切であればいいものらしい。
そのへんのとこ、ふるい時代の歌人ってのは、個人の作者ぢゃなくて共同体の代表みたいな存在だったってことのようだ。
あとは、誰の作品でどうこうというよりも、歌のもつ呪術性のようなもののほうが重要だってことで、歌の呪術性については、いろいろ説かれている。
>王朝貴族が見わたすのは単なる風景の鑑賞ではなく、その底には国見や国ほめに通じる宗教行事性、国土の祝福があるからだ。(上巻p.39)
とかね、天皇が歌を詠むことによって、動植物とか国土の繁栄につながるわけだ。
で、このあたり、恋がからんでくると、当然のようにますます話がおもしろくなってくる。
>かういふ具合に、王朝の恋に和歌がつきものなのは、一つには当時の貴族生活が美的情趣をこの上なく重んじたゆゑである。が、もつと根本的には、恋とは相手の魂に呪術をかけることだといふ古代的な恋愛観の名残のゆゑである。すなわち恋歌とは呪文の一種にほかならなかつた。(下巻p.174)
とかって具合。いいねえ、ふるき日本人。
ほかにも恋愛観については、
>これは大野晋に教へられたことだが、古代人は恋愛を、楽しいものとしてではなく、苦しいものとして把握してゐた。それゆゑ、その苦しさ、切なさから、何とかしてのがれることができたらいいのにと夢想した。かういふ恋愛観は長くつづいて、王朝のころにもなほ支配的であつた。王朝和歌に恋の喜びを主題にしたものがすくなく、恋の哀しみだげがくりかへし嘆かれてゐるのは、われわれ現代人の眼から見るとすこぶる奇異な感じだが、彼らにとつては当然のことだつたのである。(下巻p.81)
なんて解説がある。
そういうのって、もしかして、日本の昔話がグリムとかに比べて男女の結婚で終わってめでたしめでたしとなるのが少ないのとかとも関係あんのかな、って想像してしまう。
ちなみに、秋(旧暦の七月からだよね)ってのは恋の季節であるってことは、いろんな歌のところで触れられていて
>(略)秋が悲しいのは(略)本来、秋は恋の季節なのにしかしその恋が成就しないため、と思ふことにしたらしい。それが王朝文化の約束事だつた。(上巻p.352-353)
と解説してくれている、そうなんだよ、そういうこと個々の歌の意味の前に教えてくれれば国語の授業も楽しいだろうに。
あと、恋愛関係において、いろんな場面で歌を詠むことになるんだが、
>しかし王朝の人々の考へ方は違ふ。女は才智の限りを盡して気のきいたことを言ふときに最も美しい。(上巻p.241)
なんて女性に求められる、語りかけられたことに歌でスッと返す才能についても説かれている。
その他、歴史と文学との関係性について勉強になったのは、
>『新古今』時代の歌人たちに望帝=崇徳院といふ神話的イメージは、むしろ、彼らの心の底にある、宮廷生活を失ふことへの恐れとその悲劇性への憧れとの、最もドラマチックな色調での複合であつた。(略)
>当時の歌人たちが、古代的世界の終焉といふ一種終末論的な不安と陶酔にひたると同時に、宮廷の栄華と草庵の閑寂(その極致が配所である)とを二つながら味はいたいといふ人生美学に憑かれてゐたとすれば(略)(上巻p.58-59)
なんてところ。人生観、価値観っていうか、美意識みたいなの、作品の字面だけではさすがにわかんないものねえ。
崇徳院については、後白河上皇がなぜ自分では和歌はそんなに好きでもないのに、よりによって戦乱の世に、千載集なんて勅撰歌集をつくったのかという謎に対して、崇徳院の怨霊をなだめるためだなんて、大胆な説も披露されている。
どうでもいいけど、崇徳院って歌の天才だったっていうのは、あんまり知らなかったんで、本書の解説には感心してしまったものがある。
あと、和歌という文芸においては、教養として昔の歌とか他のひとの優れた歌を知ってて、そのうえで本歌どりをするというのが重要らしいが、そのへんもたーくさん参考となる歌を並べてくれていて、抽斗が豊か。
>そして、王朝和歌の基本的な技法の一つである本歌どりとは、単なる模倣では決してなく、継承であり、展開であり、唱和であり、それゆゑ一つの批評のあり方なのだから(略)(下巻p.136)
ということなんだそうだが、歌全体ぢゃなく、使われてる言葉ひとつにも、やっぱ伝統によって築かれてるものが大きいんで、
>(略)ここでわたしは王朝文学史における、第五句に「たまらず」を据ゑる和歌の一系列をたどらなければならない。順徳院の余花の詠は孤立してあるものではなく、その長い伝統のなかに位置を占め、歴史から養分を摂つてゐるゆゑこれほどの完成に到達することができた。(上巻p.202)
って調子なんだが、ぢゃあいい歌詠もうとしたら、どんだけ勉強しなきゃいけないんだってちょっと絶望的な気分にならなくもない。
ほか、文法のようなもんで、知らなかった決まりごと、字余りってのはよくあるようだけど、「字余りの句にはアイウオを含む」っていう本居宣長の発見した法則があって、そうぢゃない字余りは王朝和歌の伝統から外れてるってことみたい。
もうひとつ、藤原伊尹の歌の章で、「――ものは」と題を置いてそれに答えをつける形式の解説があるんだけど。
>これは助詞ハが日本語において占める重要性と密接な関係があらう。ハは提題の助詞と呼ばれ(主格の助詞とする説もあるが違ふ)、その承ける語を話題として示し、下にそれについての答、解決、説明を求める。(下巻p.185)
という日本語講座があって、これには目からうろこ落ちた。
ハとガの違いで、ハのほうがちょっと広くてガのほうが限定的みたいな漠然とした主格についての考え方は聞いたことあるような気がするけど、ちがうんだ、ハは提題だから、その下に答えが来るんだ、と改めて認識した、なるほど。
ちなみに、ここんとこでとりあげられてる「つらかりし君にまさりて憂きものはおのが命の長きなりけり」って歌は、一読したなかではいちばん気に入った歌かもしれない。
むずかしいかと思って敬遠せずに(おそかったけど)読んでよかった、教養の書。

どうでもいいけど、こないだ読んだ『江戸小話傑作集』のなかに、原題「居酒」って平忠度が出てくる話があって。
一の谷の戦いに敗れて逃げていく忠度が、酒屋があったので、ぐっと飲んで「コレ亭主、薩摩守とつけて置け」と言って駈け出してくと、亭主が「さてはたゞのみ卿にてましますか、されどたゞのみ卿ともつけ難し」なんて言って、「呑み人しらず」と記した。
ってーのなんだけど、素養がないとわかんないよね、ハイブローだなー、天明二年の『語満在』所収の小話。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教科書に載ってないUSA語録

2019-03-17 20:16:37 | 読んだ本
町山智浩 2014年 文春文庫版
こないだもCSで『ミュータント・フリークス』なんて映画を観たように、最近けっこう町山さんの影響を受けつつあるなあと。
これは町山さんがアメリカについて書いたもので、2009年から2012年に「言霊USA」ってタイトルで連載して、単行本は2012年だという。
私がこれまで読んだものにくらべると、ぐっと時代が新しくなってんだけど、それでも10年前かと思うと、月日の経つのは早いねえ。
というわけで、時代は、最悪の大統領ブッシュから、オバマの一期目に移っているんだが、それでも保守派のみなさんを中心とした、しょうもない発言は引きも切らない。
さて、次々あらわれる新しい言葉をとりあげては世相をきっていくんだが、その当時しばらく世間で話題になった誰かの問題発言なんかよりは、スラングとか新語が私は気になるようで。
たとえば、「420(フォートゥエンティー)」ったら、マリファナのことだとか。
4月20日はマリファナの日で、午後4時20分には全米で愛好者が一斉にマリファナをふかす、って。
「McMansion(マクマンション)」とは、2000年代の住宅バブル期に乱立したプチ豪邸、その後の不況で半ゴーストタウンになってるのが多いとか。
マクは「マクドナルド式」ってことらしいが、それよかこの章のイラストで「本来MCの意味は『~の息子』」っていうのが知らなかった。
「Cougar(クーガー)」は、自分よりはるかに年下の男性を恋人にする中年女性。
デミ・ムーアが16歳下、マライア・キャリーが11歳下、ハル・ベリーが10歳下の男を「喰った」、そういうことが相次いだもんで、流行したんだという。
「Adorkable(アドカーブル)」は、ダサ可愛い。
Adorable(可愛い)とDorkの合わさった新語だけど、Dorkってのはファッションセンスがイケてなくて空気が読めなくてシャレた会話ができないような奴のことらしい。
「Duckeasy(ダックイージー)」は、カリフォルニア州法で禁止されたフォアグラをお得意客だけにこっそり出す店。
フォアグラの提供が禁止されたのは家畜虐待防止法の影響、語の元ネタは禁酒法時代のもぐり酒場がSpeak easyと呼ばれてたから。
「Sike!(サイク)」は、なんちゃって! とか、ウッソぴょ~ん! みたいな意味、「She sikes me」ったら「彼女はウソをついてオレをからかう」、動詞として使える。
相手を混乱させるという意味の「Psych out」という言葉がもともとあって、スペルが単純な方向に間違われて作られたらしい。
新しい言葉ぢゃなくて、誰でも知ってる単語だけど、当世風の使い方を教えてくれてるのに「Like」がある。
「みたいな~」って意味で、若い女性のあいだでは広がったらしい、今現在どうか知らんけど。
I am very angryというところを、I was like angryと使うらしい、「ムカつくー、みたいな」だって。
I'm like 5feetって言ったら、「私の身長は5フィートくらい」で、aboutの意味らしい。
saidって言わないでlikeを使って、He was like,"I love you"で「彼は『愛してる』みたいなことを言ったの」だっていうんだけど、そりゃあ教科書でおぼえた英語ぢゃわかんないよ。
「えーと」の代わりにもlikeは使えるっていうんで、話してるあいだ中、like,likeが飛び交うらしい。
新語どうこうとは別に、前述のとおり時代はオバマ政権に移ってんだけど、そのせいでオバマの苦闘してる話題があちこちに出る。
そんなかで、
>「オバマは本当に偉いなあ」と思うのは、いくら共和党に叩かれても決して次の一言を口にしないことだ。「この借金と金融危機は全部あんたたちの仕業だろ!」って。(p.78)
という町山さんの感想があるけど、前の著作などからブッシュ時代のひどさを教わってると、そこはうなずける。
オバマ本人が我慢してる代わりに、本書では澤井健さんの毎回おもしろいイラストのなかで「シリーズ 叫ぶオバマ」ってのがあって、
>「ムスリムちゃうわー!!」
>「侵害ちゃうわーッ!!」
>「社会主義とちゃう!ちゃうねんでえ!!」
>「階級闘争ちゃうわーっ!!」
と絶叫してたりする、笑えた。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする