many books 参考文献

好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

腹を抱へる

2016-01-30 21:42:04 | 丸谷才一
丸谷才一 2015年 文春文庫
なんだか丸谷才一が読みたくなってる状態が、ちょっと前から続いてて、新しい文庫を買ってきた。
サブタイトルは「丸谷才一エッセイ傑作選1」ということで、全集をつくったついでに編んだものらしい。
いろんなとこからいろんな話を集めてるので、私が読んだ記憶があるものも入ってた、それはそれでよろしい。
大洋ホエールズからジャイアンツに移った松原選手が何故引退を決意したかという話とかね。(「出処進退の文学」)
著者がホエールズファンだったというのは知らなかったけど。
文学とか食べ物とか交友関係とかテーマは多岐にわたるんだけどどれもおもしろい。
読んでて気持ちいいのは、著者のあくまでひけらかさない感じの博識なものの紹介のしかたにあると、私は感じている。
>かういふ貴重な文献を埋もれさせておくのは惜しいから、とりあへず紹介して(もちろん、へらず口を叩きながら)、それから一つ二つ、わたしの考へや発見を添へませう。(p.144「甲子園の土」)
とか万事がそういう調子、これがいい。
そうやって披露される話題のなかみは、勉強になること枚挙にいとまがないしねえ。
パッと目にとまったのをいくつか挙げてみれば、たとえば、
衣料費支出の一世帯当り年間支出額の多いのは、一位が水戸市、二位が宇都宮、三位が東京二十三区、四位が浦和、五位が高松、とか。(「ゼノフォービア」)
胴上げというのは人を放り上げてはいけなくて、真下にいる人がベルトをつかんでるのがコツだとか。
それはいいとして、肩車、手車、騎馬戦、胴あげの四つは古代呪術の名残を今にとどめる習俗で、足がぢかに地面につかないようにする、神の来臨の儀式ではないかとか。(「胴あげ考」)
戦後まもないころ河出書房が「現代文豪全集」という企画をたてたら、頼まれた作家がみんな快諾した、それくらい作家は文豪という言葉に弱いとか。(「文士のタイトル……」)
大まかな章立ては以下のとおり。
I 女性対男性
II ゴシップ・ゴシップ
III 閑話休題
IV 美味しい話
V ちょっと文学的
VI 懐しい人
VII 自伝の材料
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラオスにいったい何があるというんですか? 紀行文集

2016-01-28 22:00:36 | 村上春樹
村上春樹 2015年 文藝春秋
村上さんの最新の紀行文集。
買ったのは去年11月ころだったかな。ぐずぐずしてて読み終わったのは年が明けてからになったが。
発表時期も媒体もばらばらなのを集めたもの、意外と短いものもある。
日本航空の機内誌に連載してたってのは、知らなかった。全日空派ってのもあるけど、ファーストクラスには乗らんからね、私は。
タイトルは、ラオスに行くのに乗り継ぎでハノイを経由したとき、ヴェトナム人に問われた言葉だという。
それに対して、村上さんは本文のなかで、
>でもそんなことを訊かれても、僕には答えようがない。だって、その何かを探すために、これからラオスまで行こうとしているわけなのだから。それがそもそも、旅行というものではないか。
と答えている。
ガイドブックや事前に観たことのある映像なんかを追体験するために出かけてく人間が多いご時世に偉いものだ、旅行に対するそのスタンス。
しかし、なんでラオス行こうなんて思い立つかね、ふしぎだ。
村上春樹さんというひとは、なんか内に籠っているようなイメージが勝手に私にはあるんだが、本書なんか読むと、けっこうあちこち出かけてくのは好きらしい。
それも予定をビッチシ組んで、プランどおりめぐってくってタイプぢゃないらしい。
>「旅先で何もかもがうまく行ったら、それは旅行じゃない」というのが僕の哲学(みたいなもの)である。
と言ってるくらいだし、それくらい悟りの境地にあれば、どんなトラブルにあっても、そのこと自体を楽しめるんぢゃないかと。
(仮にその場では困っても、あとからだったら楽しい思い出にできるんだろう。)
行き当たりばったりというほどのことぢゃないんだろうけど、そうやって偶然の出会いを楽しむことのできるスタンスだから、本書のあちこちに見られる、いい体験をしたときの感想は、たとえば次のようにとても好ましい響きがある。
>いったんカメラのレンズで切り取られてしまえば、(略)それは今目の前にあるものとはぜんぜん別のものになってしまうだろう。そこにある心持ちのようなものは、ほとんど消えてしまうことになるだろう。だから我々はそれをできるだけ長い時間をかけて自分の目で眺め、脳裏に刻み込むしかないのだ。そして記憶のはかない引き出しにしまい込んで、自分の力でどこかに持ち運ぶしかないのだ。
コンテンツは以下のとおり。
「チャールズ河畔の小径」 ボストン1(1995年)
「緑の苔と温泉のあるところ」 アイスランド(2004年)
「おいしいものが食べたい」 オレゴン州ポートランド・メイン州ポートランド(2008年)
「懐かしいふたつの島で」 ミコノス島・スペッツェス島(2011年)
「もしタイムマシーンがあったなら」 ニューヨークのジャズ・クラブ(2009年)
「シベリウスとカウリスマキを訪ねて」 フィンランド(2013年)
「大いなるメコン川の畔で」 ルアンプラバン(ラオス)(2014年)
「野球と鯨とドーナッツ」 ボストン2(2012年)
「白い道と赤いワイン」 トスカナ(イタリア)(2015年)
「漱石からくまモンまで」 熊本県(日本)(2015年)

コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冬日の乗馬、手綱の短さを思い出す

2016-01-25 18:32:35 | 馬が好き
乗馬に行く。
先週休みだったんで、二週間ぶりである。
もっとも先週月曜は、練習があったとしても参加できなかったかもしれない。
夜のうちに降った雪のおかげで、朝出かける時間には、いつも使う高速道路は通行止め、その後もチェーン規制だったから、たどりつけなかったんぢゃないかと。
(ちなみに今日は、道路に障害物あって渋滞、って情報見て、早く出たんだけど、そんな渋滞なんか無かったんで、早く着いてしまった。)
そういえばあの日は、もう10時もまわったから電車もふつうに動いてるだろうと思って出かけたら、いつも8分くらいの4駅を30分もかかって往生したっけ。
さて、きのうおとといの土日は九州でも雪が降ったらしく、強烈な寒気が入ったせいで、今日も寒い。
朝は氷点下だったらしい。乗って動いてるあいだは寒いなんて言わない私だが、馬装してるときとかはさすがに寒い。
そういうときは、ついつい馬に手や指をくっつけちゃって、あったかいねぇなんて言って戯れるんだが、馬大迷惑である。

きょう乗るポートマジンはいいやつなので、そのくらいで文句言わないけど。
さて馬装したら馬場へ。さくさく歩く、きょうも元気だ。
馬場に入ったら、ほかの人馬を待つ間、広いところで手綱伸ばして常歩すると、とてもいい感じで歩く。なんかいつもよりストライドが広いような気までする。
んぢゃ、区画のなかで部班することに。
列の二番手につけて、軽速歩スタート。
速歩も、常歩に負けず劣らず、元気がいい。ジャマしないように、馬のリズムにあわせるように、乗ろうとする。
しばらくは手綱ユルユルで馬の好きなように歩かせていたが、それでももうすこし丸くなってほしいので、あれこれ働きかける。
手綱で引っ張ってはいけない、隅角で開き手綱を使い、外の壁にぶつけてくことくらいで、なんとかしてもらう。
手綱で働きかけるのは、馬が丸くなるきっかけをつくるだけ、力で屈服させるんぢゃない、ゆずってくれたら、すぐかえすように気をつける。

しかし、ポートマジンもたいがい速いんだけど、先頭の馬はもっと速い、距離開かないようにバンバン追いかける。
蹄跡を進んでるときは、長蹄跡で思いっきり前に出すからいいんだけど、輪乗りだとうまく伸ばせないから追いつかない。
あせると人間の腰がふわふわ浮くんだけど、逆だ逆、座って大きく揺れていくイメージで、それでストライド伸びたらいいなあという感じで。
んぢゃ、駈歩、馬場の形状の都合上、きょうは輪乗りぢゃなくて蹄跡行進で。
あいかわらず動きはとてもいいようなので、しっかりコントロールできるかを意識する。
馬のアタマが下がりすぎて伸びちゃわないように、あれこれやる。どうもうまくいかない、ウケてる感がない。
一旦常歩を挟んで、手前を替える。

そのとき突然思い出した。前回、思いっきり手綱を短く持ったんだった。
手綱短く持って、アタマ下げさせない、そこの位置でガマンする。あれだ、あれをやんなきゃ。
ということで、右手前では、手綱を障害飛ぶときくらい短く持つ。
馬が前に引っ張ろうとしてもこらえる。人の姿勢は変えないで、背中と腰で馬に対抗する。
しょーがねーなって馬がその位置でちょっと丸くなったら、すこしだけラクにする。いつもここでダラダラと手綱が伸びるんだけど、今日はそこ気をつける。
手綱短いままドンドン動かすようにする、前進気勢いっぱいのポートマジンだからできるのかもしれない、ほかの馬ぢゃジャマして止まっちゃうかも。
はい、そんなところで、練習終了。

よくできたとは言えないかもしれないが、ポートマジンの手綱の持ち方はわかってきたような気がする。
いままで、馬のアタマが前にいっちゃっても、それが馬のバランスだったら、そこにハミを置いてぶつけてくようにすれば、それでいいのかと思ってたんだけど、正解はどうやら違うみたい。
最初忘れてたんでエラそうなことは言えないが、言われてやったんぢゃなくて、自分で思い出してやったんで、次のときまで憶えてられそうな気がするし。

練習おわったあとは、お湯をバケツでやると、うまそうに飲む。
手入れがおわったら、リンゴやる。目キラキラさせて食うから、おもしろいさ、この馬。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チャンス

2016-01-21 20:48:46 | 読んだ本
ロバート・B・パーカー/菊池光=訳 2003年 ハヤカワ・ミステリ文庫版
スペンサー・シリーズの第23作目、原題はそのまま「CHANCE」。
地元ボストンのギャングの親玉が、失踪した娘婿を探してくれと依頼にくる。
仕事が尋常ぢゃない証拠に、実はここに来るより先に、ホークのところに行ってみたが、「ホークは、お前がやるならやる、と言った」だなんて、気になることを言う。
娘婿を探すのは頼むが、われわれのビジネスに首を突っ込むなと、仕事を依頼する一方で脅す。
もちろんスペンサーが、はい、そうですかと言うわけもない。あっちこっちを突っつきまくって、何かが起こるのを待つというのは捜査の基本スタイルだから。
そのへん、ホークが引き受けないような危ない仕事をなんで引き受けるんだと疑問を呈するスーザンは、
>「あなたは、そういうのが好きなのね」「なにかに入り込んで行って、そこになにを見つけるか、判らないのが」
と理解してんだか、あきらめてんだかわかんない評価をする。
調査をしてくうちに、失踪した男はギャンブル依存症みたいな性格だってことがわかり、ラスヴェガスで見つけることができた。
しかし、探してるものが見つかったからって素直に依頼人に引き渡すとは限らないのが、いつもどおりのスペンサー流。
>「おれは誘拐はやらない」
というスペンサーに対して、ホークは
>「冗談じゃない」「お前が、それが自分のやるべきことだと思った時、誘拐以上のことをやるのを、おれは見てるんだ」
と言う。
そんなことやってるうちに、例によって、死体が転がってるのを見つけてしまう展開になる。
殺人事件に加えて、ロシア人まで参入してくる、ギャングの勢力争いの渦に巻き込まれていく。
そんな敵のひとりについて、ホークまでが、
>おれがこれまでに知った中で、もっとも酷悪な野郎だ。両手を失ったら、人を噛み殺すような奴だ
と評する、とてもめんどくさい相手。
しかし、事態をさらにかき混ぜてくうちにスペンサーはちゃんと真相に近づいていく。
でも、やっぱその敵にも、
>お前は邪魔だ。しかも、お前は、自分がなんの邪魔をしているのかすら、知らない。ばかげた話だ。(略)
とか言われちゃう。敵にも味方にもそう思われてしまうんだね、スペンサー流のやりかたは。
で、まあ当然のことながら、主人公だから勝利して事件は解決するんだけど。
ある女性登場人物を利用する形になったことについて、当人からも非難されるし、スーザンからも、
>ほかの方法を考えるべきだったわ
だなんて言われる。
でも、スーザンはスペンサーの理解者なので、
>かりに、もう一度やらなければならないとしたら、あなたは同じことをやるわ。そうでしょう?
と言う。

どうでもいいけど、この文庫買ったのは、2年前の夏ころだったかな?
絶版かと思ってたら、ふつうの書店にふつうに並んでた。
だから、この前後の作もそのうち見つけることができるだろうと思ってたんだが、書店でも古本屋でもいっこうに見かけない。
どうにかならんかね、気にかかってくると、どうしても読みたくなってしまっている。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

偽証するおうむ

2016-01-20 20:46:14 | 読んだ本
E・S・ガードナー/宇野利泰訳 昭和33年 ハヤカワ・ポケット・ミステリ版
ミステリつながり、これも新幹線のなかで読めた、ペリイ・メイスンのシリーズ、原題「THE CASE OF THE PERJURED PARROT」。
引退した億万長者フレモント・セイビンが所有する山荘で殺害されたが、現場には飼っていた鸚鵡が残されていた。
メイスンの依頼人は被害者の息子チャールズで、真相解明と、自身の遺産相続の権利を父の後妻であるヘレン・ワトキンズ・セイビンから守ってほしいというのだが、現場に残っていたおうむは父の飼っていたものではない別の鳥だと意外な情報をもたらす。
警察も知らないその事実を重要視したメイスンは、誰が何のためにおうむの替え玉を用意したのかその謎解きに力を入れる。
で、小鳥屋でおうむの餌を買った人物を尋ねてったところから、ヘレン・モンティスという図書館員の女性のとこに、本物のおうむがいることを突きとめる。
驚いたことに、この女性は、姓名をジョージ・ウォルマンと何故か偽っていた被害者と、最近結婚したばかりだという。
そうなると、遺産相続の処理にあたっては、前の妻との離婚が成立していたのか、この女性との結婚が合法だったのか、という点が大きく関わってくることになる。
ところがさらに驚いたことには、この女性のとこにいた、被害者が飼ってた本物のおうむが、「ピストルヲステロ、ヘレン、ウツナ、チクショウ、オレヲウッタナ」なんて人の言葉をしゃべる。
ヘレン・モンティスは殺人容疑で逮捕されてしまい、検屍審って場でメイスンは彼女を弁護することになるんだが、はたしておうむの言葉は証言として採用されるのかどうか。
事件はあたりまえだけど主人公の勝利で解決するんだが、最後にちょっとこのシリーズにしては意外な(と私が思うだけだけど)どんでん返しが用意されていて、オッ!とうなってしまった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする